第8話 混乱する記憶


 これは、漫画の中だけで起こることだと思っていた。

 普段なら多くの生徒で賑わう昼休みの屋上庭園には、三年の女子生徒と有栖の二人だけだった。


「ええと……」


 状況に戸惑いを隠せない有栖は数分前を思い返す。

 昼休みになって教室へとやって来たのは、『校内一美人』と評判の三年の女子生徒だった。

 教室の後ろ側のドアから近くの生徒に「御雪有栖って子はいる?」と訊ねた彼女は、クラスメイトが指した有栖を見るとにっこりと綺麗に笑顔を浮かべて手招きをした。

 関わったことのない先輩からの呼び出しに戸惑う有栖の傍らで、恭夜と凛が怪訝な顔で先輩を見返す。


「ごめんねぇ。ちょっと話があるから、付き合ってほしいの。すぐに済むから」


 警戒を解きほぐすように人当たりの良い笑顔を浮かべた彼女を見て、行く以外の選択肢のない有栖は二人に「すぐ帰ってくるから、先に食べてて」と言ってから彼女について来た。

 そして、連れてこられた先の屋上には、まるで人払いをしたかのように誰もいなかった。

 広々とした屋上には所々に花壇や芝生がある。花壇に咲き誇るパンジーやチューリップが穏やかな日常を醸し出しているものの、昼休みなのに人がいないことや女子生徒が纏う刺々しい空気がそれを相殺していた。

 呼び出した本人は、どこか気まずそうな顔で腕を組んだまま重い口を開く。


「ありきたりで申し訳ないけど、これ以上、放っておくこともできないから単刀直入に言うわ」

「は、はい」


 一体、何を言われるのだろうか。

 姿勢を正した有栖の耳に入ってきたのは、まさしく漫画の中の出来事だった。


「これ以上、庵に近づかないでほしいの」

「…………」


 私から近づいた記憶はないです。と言い掛けた言葉を飲み込む。テンプレートな回答は彼女も求めていないはずだ。

 だが、その答えが事実でもあるため、有栖はどう返せばいいのかと悩む。

 返答がないまま考え込む有栖が嫌だと思っていると捉えたのか、彼女の表情がやや険しくなった。


「あなたは、庵のことが好きなの?」

「え!? い、いえ」


 庵が多くの異性から好かれていることは知っている。だが、有栖からすれば高校進学を手助けしてくれた先輩であり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。恋愛の対象として見たこともない上、そもそも彼の隣に並べるとも思っていない。

 慌てて否定をすれば、彼女は一応は安心したのか雰囲気が少しだけ和らいだ。


「じゃあ、あなたの口からもはっきり言ってよ。関わらないでって」

「そんなこと……」

「まぁ、難しいでしょうね。私だって、よっぽど嫌いな相手じゃない限り、“普通の状態”では言えないわ。だから、“手伝ってあげる”」

「手伝う?」


 彼女自身も無理難題を押しつけていることは重々承知の上だった。

 首を傾げる有栖を見て、彼女は閃いた名案を話すように笑顔を浮かべて言う。


「そう。私の基獣の蝶は、鱗粉で人を惑わすことができるの。時間は短いけれど、これを使えば、あなたが良心を痛めることなく庵に言えるわ」

「…………」


 女子生徒の顔の横で黒い鱗粉が舞い、それが集約したかと思えば中から一匹の漆黒の蝶が現れた。ひらひらと宙を舞う蝶は羽から青紫色の鱗粉を漂わせており、太陽の光を受けて幻想的に煌めいている。

 蝶は女子生徒の肩に留まると、真っ直ぐに有栖を見据えた。


「あなただって平穏に学生生活を送りたいでしょ? 庵を好きだっていう子は多いし、中にはあなたに危害を加える子も出てくるかもしれない。今はまだなくても、この先も起こらないってことはないでしょ?」

「そうかもしれませんが……」


 何か庵が手を回しているとは聞いたことがある。また、恭夜や凛が常にそばにいるからこそ、狙われる隙がないのだということも分かっている。

 理由はなんであれ、無条件で手助けをしてくれた相手をそう簡単に突き放せない。

 すると、彼女は有栖の躊躇いを別の方向に解釈した。


「逃げるために気持ちに嘘をついてるの?」

「ち、違います! そんなのじゃ、ないです。けど……」

「嫌なの? どうして?」


 異性としての好意を持っていないことは断言できる。

 追究する女子生徒に半ば圧されつつも、有栖は断る理由を話すことにした。


「御巫先輩は、私がここに上がれるよう、いろいろと掛け合ってくれたんです。まだお礼もできていないのに、関わらないでって伝えるのは、恩を仇で返すようで……嫌、です」

「そう……」


 気持ちは伝わったのか、女子生徒の勢いが弱まった。

 腕を組んだまま視線を落とした彼女は、有栖の言葉にも一理あると思ったのだろうか。なにか思案しているようにも見える。

 威圧がなくなったことで、有栖は今しかない、と交渉に出る。


「好きな人の近くに私みたいなのがいて申し訳ないのですが、なるべく、近づかないように――」

「ねぇ、私の蝶は『人を惑わす』って言ったでしょう?」

「え?」


 再び有栖を見据えた栗色の目は、どこか仄暗さを秘めていた。先ほどと同一人物のはずだが、まるで別人になってしまったようだ。

 刺々しい空気は殺意すら含んでおり、容赦なく有栖に向けられている。

 蝶が女子生徒の肩から羽ばたいた。

 有栖の頭上をひらひらと飛ぶ蝶の羽から、青紫色の鱗粉が舞い落ちる。風が吹いていないせいで、それは遠慮なく有栖に降りかかった。


「あ、の……え?」


 どこかに行ってしまいそうな女子生徒を引き留めようと、咄嗟に手を伸ばす。

 だが、踏み出した足には力が入らず、視界が大きく揺れる。ぐるぐると回り歪む世界に立っていられず、有栖は地面に膝をついた。船酔いにも似た気分の悪さに顔を顰める。

 俯いた視界の端に女子生徒のローファーが入った。

 顔を上げると同時に、女子生徒は有栖の前にしゃがんで視線の高さを合わせる。


「素直に言うことを聞いていればいいの。でないと……」


 妖艶に微笑んだ女子生徒の背後で、蝶が黒い霧に包まれているのが見えた。霧は徐々に膨らんでいく。

 ぼんやりとした意識の中でそれを見ていた有栖の耳元で囁かれた言葉は、酷く冷たいものだった。


「あなたのこと、殺しちゃうかも」

「っ……!」


 言葉が鋭利な刃物となって有栖の心を抉る。彼女の言葉に嘘偽りはなく、恐怖で体が震えた。

 逃げなければ、という意思とは反対に、体は女子生徒に手を引かれて立ち上がると屋上庭園の端にすんなりと連れて行かれる。思いどおりにならない体に感覚が狂いそうだ。

 屋上の縁には落下防止用のフェンスが設置されているが、女子生徒はそんな物など気にしていないとでもいうように、有栖の腕を引いてフェンスに容赦なく押しつけた。

 フェンスが激しい音を立てて落下を阻む。古くなって千切れていたフェンスの一部が右頬を引っかいて鋭い痛みが走った。おかげで自我が少しだけ戻って体を身じろがすも、女子生徒の腕を掴む手は異様に強くて振り解けない。

 女子生徒は安堵したように言う。


「あなたに基獣がいなくて良かった」


 だって、自殺したって“基獣がいないことを嘆いて”っていう理由があるじゃない?


 狂気じみた言葉と表情に悪寒が走った。人を殺そうとしているのに、彼女はとても嬉しそうに笑っているのだ。

 グラウンドには遊んでいる生徒の姿もある。緊迫した空気の中、その光景は酷く異質なものに見えた。

 声を出せれば助けてくれるかもしれない。体を動かせられれば、逃げられるかもしれない。

 だが、自由を奪われた有栖にはそのどちらもできなかった。


「素直に言うことを聞くなら放っておこうかと思ったけど、でも、それじゃああの人は私を見てはくれないものね。ああ、そうだ。あなたを落としたことを伝えたら、ずっと見てくれるかしら? 忘れないでいてくれるかしら? だって、他の子達とは違うことをしたんだもの」


 口早に独り言を続ける彼女からは、最初に教室に見たときのような人当たりの良い雰囲気はない。ただひたすら、歪んでしまった想いを口にしていた。

 細腕のどこにこれほどまでの力があるのか、押さえつける手にますます力が入り、フェンスを留めるネジが一本落ちた。あらかじめ緩めていたのか、それとも、緩んでいる場所を選んだのかは分からない。

 ただ、女子生徒が本気で突き落とそうとしていることは間違いなかった。


(誰か……助けて……っ!)


 声はただの呼気となって口から漏れただけだった。

 脳裏に浮かんだ親しい人達に、心の中で悲鳴を上げた。

 フェンスからさらにネジが落ち、上側の一部が外れたときだった。


「きゃっ!?」


 フェンスの向こうに一羽の巨大な白い鷲が現れ、両翼を強く羽ばたかせた。

 吹きつける風に有栖を掴んでいた女子生徒の手が離れる。

 有栖もその場にしゃがみこめば、屋上へと出るための昇降口から聞き慣れた声が上がった。


「有栖!」

「恭、夜……?」


 焦ったような恭夜の声にそちらを見れば、彼は真っ直ぐに有栖へと駆け寄ってきていた。その後ろからは、白い鷲――ヒナの主である凛がゆっくりと歩いてきている。

 表情こそ普段と同じ感情が分かりにくいものだが、纏う空気には静かな怒りが湛えられており、向けられた先は有栖を押さえつけていた女子生徒だ。

 主の行動を模すかのように、ヒナもフェンスの上に留まって女子生徒を見下ろしている。


「悪い、探すのに手間取った。大丈夫か?」

「う、うん。なんとか、大丈――」

「大丈夫じゃない」


 しゃがんだままの有栖の体を支えるように肩に手を回した恭夜に返すも、目の前に片膝をついた凛が有栖の右頬についた傷に気づいて否定した。

 流れた血を指で拭った凛は立ち上がると、距離を置いてこちらを窺う女子生徒に向き直った。

 女子生徒は現状に困惑しており、先ほどまでの狂気じみたものは感じられない。


「先輩。基獣はこんな事のためにいるんじゃないんです。せっかく綺麗な基獣なのに可哀想ですよ」

「な、なにを言っているの……?」

「は?」


 まさかとぼける気か、と苛立ちが滲んだ凛の声に、女子生徒の肩が大きく跳ねた。

 自分のやっていた事が分からないはずはない。彼女は自身の基獣を使って有栖から体の自由を奪い、突き落とそうとしていた。

 屋上に着いてフェンスに押しつけられた有栖を見た瞬間、凛の中で何かが千切れた音がした。声を上げた恭夜に反して落ちついていた様子の凛だったが、内心では怒りで一杯だった。基獣が攻撃しなかったのは、理性の欠片がかろうじて残っていたからだろう。

 本人が覚えていないと言っても、凛と恭夜は目撃している。


「ふざけないで。覚えてないで済まされる事じゃない」

「だ、だから、なんのこと……? 私、その子を呼び出したのは覚えてるけど、でも、途中から覚えてないの! 本当よ!?」

「なんのことって、先輩がコイツを突き落とそうとしてたんじゃないか」

「ええ!?」


 恭夜に言われて初めて知ったという驚き方だ。演技にしては上手すぎる。

 自分がやっていたとは思えない反応に、三人は困惑したように顔を見合わせた。

 そこへ、新たな人物の間の抜けた声が響いた。


「あー、いたいた。美里みさと、こんな所にいたんだ」


 少し低めの少女の声に四人がそちらを向けば、昇降口の扉から一人の少女がやって来た。

 肩につくくらいの焦げ茶の髪は、前髪の左側をヘアピンで留めている。琥珀色の目は状況を理解していないからなのか、焦った様子は見られない。

 前をきっちりと留めたブレザーの下からは、学校指定のベージュのセーターが覗いている。緑のリボンと女子生徒を呼び捨てにしているところから、彼女も三年だと分かった。

 棒付きの飴を片手に「美里」と呼んだ女子生徒の隣に立った少女は、異様な雰囲気が漂う状況に首を傾げる。


「あれ? 何かあったの?」

「何かって、先輩がこの子を突き落とそうとしてたんです」

「お、覚えてない! 私、知らない……!」


 淡々と答える凛に対し、美里はヒステリックに叫んだ。

 友人の悲痛な声を聞いても、少女は顔色ひとつ変えない。それがどこか不気味だが、落ちつかせるように背中を撫でてやる少女の言葉で、今回のようなことが初めてではないのだと知った。


「ごめんねぇ。この子、御巫会長のことでちょっと病み気味でさ、そこの基獣が鱗粉撒いて人の思考を奪うんだけど、それがどうもこの子にまで影響を出すことがあるみたいなの」

「は? 自分の基獣なのにかかるのかよ」


 少女が視線で示した先にいるのは、主を気遣うように宙をひらひらと飛び回る漆黒の蝶だ。鱗粉は撒いておらず、誰かがそれに惑わされることはない。

 基獣は、具現化させた人の気持ちによって勝手に動くことはある。それは、基獣が持ち主の心を表したものだからこそであり、制御が上手くできていないと思いもよらぬ事件を起こす場合もあるのだ。ただ、自身の分身たる基獣の影響を主が受けるというのは聞いたことがない。

 怪訝な顔をする恭夜だが、少女はあっさりと頷いてみせる。


「ありえなくはないよ。自分の基獣だからこそ、本当の気持ちが出ちゃう。理性すら越えてね。そして、その想いは主の本当の気持ちを表に引きずりだそうとさせる」


 美里は我慢強い子だけど、さすがに抑えきれなかったんだね。

 そう付け足した彼女は、俯く美里から離れて有栖の前に片膝をついた。


「謝って許される事じゃないのは重々承知してる。でも、あとのことは生徒会に任せてもらっていいかな? あたしからもキツく言っておくから」

「は、はい」


 庵のいる生徒会に任せることが彼女にとっては何よりも嫌だろうが、警察を呼ぶよりは事は穏便に治まるだろう。

 美里の心情を鑑みれば、有栖としても騒動は最小限で治まってほしいところだ。

 だが、有栖は納得しても凛や恭夜は納得がいっていなかった。


「それでいいの?」

「……うん」

「お人好しも度が過ぎるぞ」

「うっ。ご、ごめん……」


 二人の言いたいことも分かる。また、それが当然であることも。

 被害者本人が決めたなら仕方ないとしたのか、凛は大きな溜め息を一つ吐いて、場を治めた女子生徒に向き直った。


「まぁ、雪がいいならいいけど……先輩、生徒会の人だったんですね」

「そ。自己紹介が遅れたね。あたしは『折笠珠妃おりかさたまき』っていうの。しがない会計だよ」


 名前は聞いたことがある。主に同じ役員の隼人から。生徒会が中心となって行う集会は入学してすぐにあったが、そのときは会長と副会長の二人が話をしていたため、他の役員の顔はあまり知らなかった。

 ただ、会計とはいえ、非常時には動くことも多い。特に、三年生ともなれば生徒に起こる基獣絡みの問題も、治め方も知っているのだろう。

 どうりで、騒ぎを収拾する手際がいいわけだ、と三人は屋上に来たときから落ち着いている珠妃の態度に納得がいった。

 珠妃は美里のもとに戻ると、その背に腕を回して校舎内に入るように促した。

 有栖達の前を通る際、珠妃は再度、注意を呼びかけるように言う。


「何かあったら、またあたしに言って。同性同士、御巫会長や榊君よりは言いやすいだろうしね」

「ありがとうございます」

「それはこっちの台詞。ありがとう、無理を聞いてくれて」

「いえ……」


 また同じ事が起こらないならばいい。別の人で起こるかもしれないが、それは今すぐにどうこうできるものでもない。

 校舎の中に入った二人を見送ったあと、ふと、凛は視線に気づいて昇降口の上を見た。

 給水塔のあるそこで、小さな影が隠れるようにさっと動いた。


「あ」


 基獣の目は、時に主に見ている景色を伝えられる。視界を共有するには多大な響命力と基獣との強い絆が必要ではあるものの、影の主であればまったく問題はない。また、凛もそれが可能であった。

 未だフェンスの上にヒナがいる凛には、給水塔の影に隠れた小さな影が何であるか一目瞭然だ。

 恭夜は有栖に「もう呼び出されても一人で行くな」と小言を言っており、影に気づいた様子はない。


「……『見張り』に使われるくらい、信用されてはいるのかな」


 影の主を思い浮かべ、凛は小さく呟いて微笑んだ。

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