第7話② 拭いきれない恐怖と不安


「さて、そろそろ授業も始まるし、ふたりは校外に出ておくんだよ。雪ちゃんも教室に戻ったほうがいい」

「わ。もうこんな時間」

『ちょっ、ちょっと! おいら、まだ納得してへん!』

「で、でも……」


 有栖も自らの腕時計を見て、残り五分もないことに気づいた。教室は二階のため、少し急ぎ足で戻れば間に合うだろう。

 だが、まだ小虎は話し足りない様子だった。

 庵の手を頭を振って払いのけ、不満の声を上げる小虎。だが、これで折れてくれなければ他に言いようがない。

 収拾がつかないと有栖が困惑の色を見せれば、すかさず庵が子供に軽く叱るように言う。


「こーら。命の恩人をあまり困らせるものではないよ。でないと、『怖い人達』を呼ぶことになるからね?」

『おいら、外で待っとる! お雪! 放課後に約束のこと話すけん、帰ったらあかんよ!?』

「わ、分かった」


 鶴の一声とはこのことか。

 小虎はもちろん、寝ていたはずの招き猫の九十九も一目散にベンチから飛び降りて外に向かった。

 九十九にとっての「怖い人」というのは、自分達を循環することもある治安部隊を指す。循環対象となれば小虎達に明日はない。最も、管理証があれば即循環はされないのだが。

 初めからこうすれば良かったのかと思ったが、治安部隊と面識のある庵だからこそ効果を発揮したのだろう。

 唖然としていた有栖だったが、「じゃあ、気をつけて教室に帰ってね」という庵の言葉で我に返った。


「あ、あの、ありがとうございました。助かりました」

「僕は何もしてないよ」


 歩く庵の隣に駆け寄って並ぶと、彼は時間を気にしてか足を止めることなく微笑んで返した。

 そして、有栖について行動している二匹を思い返しながら言葉を続ける。


「けど、本当に懐かれているんだね。所有者以外にここまで懐く九十九も珍しいよ」

「……私は基獣を持っていないので、一緒にいやすいだけなんだと思います。小虎ちゃん達は人懐っこいですから、私以外でも普通に接していますよ」


 学校の近所に自宅のある小虎は、よくこの近辺をうろうろしていた。そのため、学生や住民には知られている上、性格の明るさや高い社交性から可愛がられている。

 今回、有栖に特にべったりとしているのは、たまたま招き猫を具現化したからだろう。

 自嘲じみた笑みを浮かべる有栖を見てか、庵は前に視線を戻すと普段と同じ穏やかな声音のままで言う。


「雪ちゃん。基獣は、その人の心を映す鏡のようなもの、と聞いたことがあるよね?」

「はい」


 基獣学の基礎として最初の授業で聞かされる言葉だ。また、昨日の基獣学でも大和田が言っていた。

 基獣を怖がることは自分自身を怖がることと同じだと。

 庵が口にしたのも似た言葉だった。


「責めるわけじゃないけど、基獣の存在を否定することは、自分を否定することと同義になる。雪ちゃんが基獣を出せないのは、何か理由があるんじゃないかと思うんだ」

「……私には、理由が分かりません」


 本来ならば大半の人が出せるはずの基獣。それを出せない人の共通点としてあるのは、響命力が低いか、自分に強い劣等感などを抱いているような人だ。

 俯いた有栖の脳裏に、一瞬だけ過去の光景がフラッシュバックした。ごく一部の人だけしか知らない光景が。

 庵は有栖の過去に何があったかは知らない。正確には、調べたことはあったが、基獣絡みの事件を保管している治安部隊には何も記録はなかったのだ。

 握られた手から何かあることは明白だが、時間的にも今は追究しないほうがいいだろう。

 代わりに、安心させるように有栖の頭に軽く手を置いた。


「基獣がいないからと不安に思うことも、自分を卑下する必要もないよ。確かに、基獣はほとんどの人が具現化しているけれど、いないからといってその人の全てが劣っているわけじゃない。それに……」


 以前、凛も同じようなことを言ってくれた。この人達は、基獣で全てを見ているわけではないのだと、基獣の存在や位で人を見る世間とは違うのだと分かった。

 庵はやや言い澱んだものの、苦笑を浮かべて言葉を続ける。


「これは僕の勘みたいなものだけれど、必ず、雪ちゃんも基獣を出せるときがくる。それは間違いないから」


 裏付けるような確たるものはないが、それでも、庵の言葉には信頼できる力が秘められている気がした。

 小さく礼を言えば、彼の耳にはしっかりと届いたのか、柔らかい微笑みが返される。


(……やっぱり、少し、苦手かも……)


 気持ちは少し軽くなったが、彼を信じきっていいのかはまた別の話だ。

 高校に進学したときもそうだが、彼が何を思って自分にここまで気を遣ってくれるのか、有栖は疑問に思うことがよくある。

 基獣で人を見ていないとはいえ、『生徒会長』としての立場で考えるならば、生徒会役員のように位が高い上に相応の基獣を持っているとメリットはある。だが、基獣のいない有栖には見返りが何もない。一部の人からは異性として好かれているんじゃないかと言われるが、そこまでお互いを知るほど関わりもなかったのだ。

 真意の読めない庵に戸惑っていた有栖を救ったのは、焦ったような恭夜の声だった。


「有栖! ……帰るぞ。遅刻する」


 まるでこの場の空気を壊すかのように声を張り上げた恭夜に、有栖ははっと我に返って振り返る。

 チャイムと同時に教室を出た恭夜だったが、まさか違うクラスの友人に捕まるとは思わなかった。おかげで駆けつけるのが遅くなってしまったが、中庭に姿は見えていたため、迷うことなく来ることができたのだ。

 庵から引き離すように有栖の腕を引いた恭夜は、牽制するように庵を見ながら言った。

 無意識での行為に庵は笑みを零しつつ、恐らく本能で警戒しているのであろう恭夜を賞賛する。


「幼馴染君は本当にんだね。それじゃ、僕も教室に行かないと。もし、遅刻したなら僕に言っておいで。僕からも話は通すから」


 庵がなぜ恭夜を褒めたのか、理由は有栖にも恭夜にも分からなかったが、彼は口早にそう言うと背を向けて校舎に足を進めた。

 その背に向かって、有栖は質問を投げかける。


「あ、あの!」

「ん?」

「御巫先輩は、基獣を『怖い』と思ったことはありませんか?」

「…………」


 有栖の突然の問いに庵は目を瞬かせる。

 恭夜も不思議そうに有栖を見るが、ふと、彼女の手が小さく震えていることに気がついてある事を思い出した。


(そうか。こいつは、まだ『あの時の事』を……)


 この学校でその件を知るのは、当事者である有栖と恭夜以外に恐らくいないだろう。親しい隼人や凛にすら話したことはない。

 大丈夫だ、と伝えるように、恭夜が有栖の腕を掴む手に少しだけ力を込めれば、有栖の肩の力が少し抜けたように見えた。

 答えを悩んでいるのか、それとも有栖の質問の意図を考えているのか、庵は少しだけ視線を落とす。

 柔らかい風が吹き抜け、一限目の開始を告げるチャイムが鳴った。

 校舎の壁で反響したチャイムの余韻がまだ残る中、庵は小さく口元に笑みを浮かべて答える。


「あるよ」


 それだけを告げて、庵の姿は校舎の中に消えていった。

 予想していなかった答えだったのか、茫然としていた有栖を恭夜が腕を引いて引き戻す。


「戻るぞ。幸い、今日の一限の先生はいっつも遅いんだし、急げば会長に頼む必要もないだろ」

「……うん」


 有栖は未だに何かを考えているようだった。

 離してしまえば足を止めそうだと思った恭夜は、有栖の腕から手へと掴み直してから教室へと急いだ。




 授業が始まったこともあって、廊下に生徒の姿は見えなかった。 

 しかし、庵は特に急ぐこともなく階段を上る。二年の教室は南館の三階であり、向かっている北館の三階にある美術室とは三階の渡り廊下ですぐに向かえる場所だ。だが、あえて一階まで下りたのは、中庭に有栖の姿が見えたからだった。

 「困っているみたいだから行ってくる」と伝えたときの透真の顔は呆れていたが、それでも話が途中だからと下まで付き合ってくれた彼の人の良さには感心する。

 踊り場に着いて折り返したところで、上りきった先の二階の縁に、一人の女子生徒が立っていることに気がついた。

 酷く傷ついた悲痛な顔でこちらをまっすぐに見下ろす彼女に、庵は内心で小さく溜め息を吐きつつも表面上では笑顔を浮かべる。


「先輩、授業が始まっていますよ?」


 女子生徒とは面識がある。たしか、三年の生徒会役員の一人と友人だったはずだ。

 生徒会役員を通じて何度か話した程度で特別な間柄ではないが、それを望んでいるのは彼女の態度から明白だった。何かと関わろうとしてくるたびに透真が苛ついていたのは記憶に新しい。

 なるべく神経を逆撫でしないように、と軽く声をかけるが、彼女から返ってきたのは庵を問いつめるようなものだった。


「庵は、あの一年の子とどういう関係なの?」

「先輩が考えているような間柄ではありませんよ。まぁ、しいて言うなれば……」


 どうやら、先ほどの有栖とのやりとりを見ていたようだ。

 有栖との関係を訊ねてくる女子生徒は彼女に限ったことではなく、聞かれるたびに適当に流してきている。同時に、有栖になにか被害が及ばないように根回しをすることも忘れずに。

 ただ、今回はそれよりもやや具体的に返すことにした。


「『将来に期待している女の子』ってところです」

「じゃあ、なんであんなに親しそうに話すの? 基獣も出せないような子に関わっても、庵に得なんてないでしょ?」


 階段を上りきった庵の腕を掴んで止めた彼女にまた溜め息を吐く。ただし、今度は彼女にも分かるように少し大袈裟にしてみせた。

 あからさまな呆れに怯んだのか、腕を掴んだ手が弱まった。

 手をそっと外しながら、これ以上の会話は無意味だと、早々に終わらせるために淡々と言う。


「損得は僕が判断することです。そして、その観点からいえばこの時間は僕にとって損しかありません。失礼しますね」

「ま、待ってよ! いたっ!?」


 再び手を伸ばして掴もうとした彼女の手を、黒い影が横切って弾いた。

 影は視認するより早くどこかに消えてしまったが、庵にはそれが何か分かっていた。

 手を押さえる彼女を冷めた目で見下ろし、強めの牽制を入れる。


「すみません、先輩。僕の基獣、結構、気性が荒いんです。特に、気に入っている人を貶されると何をしでかすか分からないので、彼女に何かをするなら覚悟はしておいてください」

「な、なんで、あの子なの……?」

「先輩は、もう少し立場を理解したほうがいいと思いますよ? ああ、でも、、僕についてくるんですよね?」

「っ!」


 涙を浮かべて声を震わせた彼女は、顔が整っているだけに普通の男子ならば心動かされるものがあったかもしれない。

 だが、彼女がどうして自分に媚びを売るのか、理由を知っている庵には少しも響かなかった。

 生徒会長として学生のトップである彼は、位も最高位であれば家柄も名の知れ渡った名家だ。地位や肩書き、家柄に惹かれて寄ってくる異性は後を絶たない。

 最も、最初から突っぱねているのではこの先の人付き合いにも支障をきたしかねないため、ある程度の距離を保ちながら交友をしているのだ。

 そして、今回のように距離を詰めようとしてきた相手だけ、すっぱりと断ることにしている。


「うちの役員と親しくしてくれてありがとうございます。けれど、こちらの仕事に介入をしようとすることは、今後一切、やめていただきたい」


 そう言い残した庵の姿が階段の上に消えたあと、女子生徒は胸の前で叩かれた手を押さえる手に力を込めて握りしめた。

 脳裏に刻まれた、偶然、見てしまった光景に息が詰まる。

 一年の女子生徒を見る優しい眼差しと頭に置かれた手。誰もが向けられることのなかったそれを、学校では「劣等生」とも囁かれる彼女は一身に受けている。


 ――会長、あの子のこと相当気に入っているみたいでさ。基獣がいないから高校は外部を受けるつもりだったのに、引き止めてそのまま進学させたんだって。


 生徒会役員である友人が、庵と話す一年の女子生徒を見て詳しく教えてくれた。彼女も理由までは知らないようだが、異性として好いているというのなら合点がいく。

 だが、自分のどこが彼女に劣っているのかが分からない。


「どうして……。私のほうが、上じゃないの……?」


 苦しげに吐き出された言葉に返される声はない。

 代わりに、彼女の足下に作られた影から、湯気のような黒い靄が上がって揺らめいた。

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