第5話 黒く蠢く影


 夜の学校は昼間の賑やかさが嘘のようにしんと静まり返っており、足音ひとつにしても大きく聞こえる。

 教師も帰ってしまった今、誰もいないはずの学校の敷地内を闊歩する姿が二つあった。


『夜の九曜高校はな、この辺の九十九がぎょーさん集まってるんや! 紹介したるから、ちゃんと挨拶するんやで?』

「にゃ!」

『あの「コン」とかっていうイタチに会ったときは怖かったけど、うまく撒けて良かったなぁ』


 昼前に有栖達から逃げ出した小虎と子猫は、その後、学校内だけでなく学校周辺も散策しており、行く先々で新しく九十九として具現化した子猫を紹介した。途中、隼人の基獣のコンに遭遇したが、捕まりそうになる前に二匹で別方向に逃げて攪乱した。

 夜の学校には、近所に住む九十九や学校に棲む九十九が集まっている。新しい九十九を紹介するには格好の場所なのだ。

 きょろきょろと見回す子猫を見て、小虎はどこか誇らしげに胸を張って言う。


『なんかあってもおいらに任せとき! おばあに会うまで、おいらがちゃーんと守ったるけん!』

「にゃううぅぅ……」

『なんで不安そうな顔するん!?』


 耳を下げて疑いの目を向けてくる子猫に、小虎は心外だ、と言わんばかりに声を上げる。

 子猫は小虎の強さを目にしていないが、コンから逃げ回るだけだった姿を思い浮かべれば誰もが同様の反応をするところだ。

 仲間が集まっている中庭に向かいながら、どんな九十九がいるかを話しているときだった。


「――――っ!!」


 静寂を掻き消すように、言葉にならない悲鳴が響き渡った。

 何事か、と二匹は身を寄せ合って辺りを見回す。だが、視界に入る範囲に異変は見当たらない。二匹は顔を見合わせて首を傾げると、得体の知れない悲鳴の主を探すべくそろそろと動き出した。

 悲鳴が聞こえてきたのは、学校の敷地の西側にある職員棟のそばのようだった。二階建ての建物に沿ってゆっくりと歩き、角を曲がる前も先をそっと覗いて安全かを確認する。

 職員棟の西側を見ようと角から顔を出す前、異様な音が聞こえてきた。


『な、なんや……?』


 太い木の枝を折るような音に混じり、液体を啜る音と水にぬかるんだ泥を踏んだときに似た音が聞こえてくる。

 職員棟の西側は、北に隣接する駐車場の街頭が僅かに届くものの、奥になればなるほどその光も届いていないために月明かりだけが頼りだ。仄暗い闇から聞こえる音は不気味さを増しており、覗くのを躊躇ってしまう。

 子猫の前を歩いていた小虎は思わず後込みしてしまったが、子猫に当たると一度深呼吸をしてから、恐る恐る顔を出す。


『ん……?』


 ただでさえ暗いため、それはよく見えなかった。

 だが、目を凝らして一点を見ていると、段々と闇に慣れてきた。認識したのは、夜の闇に霧のようなものが混じっているということ。そして、霧の中で巨大な何かが動いているということだ。


『なんや、よう見えへんなぁ……』


 霧は辺りに発生していないことや影の巨大さから考えて、それは基獣か九十九で間違いないだろう。

 基獣でも主を失った「はぐれ基獣」なるものが時折、九十九の集会に混じることがある。ただ、そのはぐれ基獣は亡くなった主の強い想いが残った思念体のようなもののため、大抵は時間経過によって消滅するのが大半だ。

 しかし、正体が何なのかは見ているだけでははっきりとしない。

 声をかけてみるか、と思い始めた小虎だったが、霧の下にあった塊を見た途端に思考は停止した。


『あ、ああ、あれ……』


 地面に横たわる塊には見覚えがある。

 この学校が創立したときからあったという、木彫りの熊の置物が具現化した九十九。学校に棲む九十九の中で一番最初に具現化され、以来、この近辺の九十九のリーダー的存在だったものだ。

 熊の九十九は腹部が大きく抉られており、黒いホースのような太い管が突き刺さっていた。啜る音と同時に、管の中を楕円形の固まりが一定の間隔で上へと移動している。

 元は物であった九十九だが、具現化すれば実体を得て普通の動物とほぼ同じ肉体を得る。怪我をすれば痛みはもちろん、血も出てくるのだ。違う点といえば、生殖能力はないということくらいか。

 悲惨な光景を前に、小虎の全身が震えた。逃げなければ、と頭では分かっているが、体はうまく動かない。


(逃げな……! 逃げて、他の皆にも知らせて、それで、それで……)


 頭では考えていることが実行に移せなかった。このままではいつ、霧の中にいるものがこちらに気づくかも分からない。

 すると、小虎の後ろから離れて角から顔を覗かせた子猫が、霧と倒れる熊を見てビクリと体を跳ねさせた。反動で、首元の鈴がちりんと鳴った。

 その瞬間、管を通っていた塊が動きを止め、啜る音も止む。

 再び静寂が辺りを満たし、小虎も子猫も時間が止まったかのように動けない。

 先に時を動かしたのは霧の中にある巨大な影だった。


『ひっ!』


 影がこちらを勢いよく振り向いた。霧の中には紫色の光の点を集約して象られた楕円が浮かんでいる。

 九十九の腹から管が引き抜かれ、霧の中で影が蠢く。楕円の光が二つに増えたところから、完全に小虎達に向き直ったのが分かった。

 震える二匹に霧が近づく。

 本能は逃げろと警鐘を鳴らすも体は言うことを聞かない。

 そうこうしているうちに、霧は動きを止めた。見逃してくれるのか、と思いきや、霧の上部が仰け反るように動く。管が振り上げられ、宙でカーブを描いた。


『あ、あわわわわ……!』


 霧の主が見逃してくれるはずもなかった。

 明らかに狙われていると分かった瞬間、小虎は慌てて子猫の体を自身の体で押して下がらせると、『逃げろ逃げろ!』と必死に叫んだ。

 子猫が先に駆け出し、小虎もすぐさま地を蹴る。それとほぼ同時に管が振り下ろされ、小虎がいた場所を大きく抉った。

 角の向こうに消えた二匹を追うべく、霧が再び動き始める。羽ばたきの音が辺りに響き、起こされた風によって砂埃が舞う。

 角から霧が姿を現したとき、霧の主の視界は真っ赤な炎に包まれた。


「――っ!!」


 瞬く間に体を包み込んだ灼熱の炎に、言葉にならない甲高い絶叫が辺りに木霊した。

 火だるまになり校舎の影に戻っていくその姿を、月を背にして上空から見下ろす影があった。

 コウモリを思わせる大きな翼を羽ばたかせて宙で停滞し、長い首の先にある頭には二本の角が生えている。短めの手とは反対に後ろ足はどっしりとしており、太い尾は体の半分を超える長さ。

 俗に、「ドラゴン」と称されるものだ。

 さらに、その背中には別の影もあった。


「おや、残念。さすがに逃げられたか」


 あまり残念そうには聞こえない言い方で、青年は腕に抱えた二匹を見る。

 校舎の影から逃げ出してきた小虎と子猫だ。異様な物を見たことと急に宙へと掬い上げられた恐怖から気を失っている。

 仕方ない、と小さく呟いてから、青年は子猫の首に銀色の首輪をつけてやった。



   ◇ ◆ ◇ ◆



 カーテンの向こうで、鍵をした窓がガタガタと激しく揺れる。割らんばかりの勢いに混じり、聞き慣れた関西弁で「開けてぇぇぇぇ!」と「ぎにゃああぁぁ!」という猫の絶叫が聞こえてきた。

 寝ていた有栖はその音と声で目を覚まし、何事だろうかと眠たい目を擦りながらベッドから降りて窓に向かう。


「はいはい、どうかし――ひっ!?」


 カーテンを開けて窓の向こうにいるであろう小虎を見れば、そこにいたのは窓に張りついたことで顔が歪んだ小虎と子猫の姿。窓の外には落下防止用の柵があり、その柵と窓の狭い隙間に挟まっている。

 普段の愛らしさとはかけ離れた異様な姿に、眠気など一気に吹き飛んでしまった。


「え、な、何事……?」


 窓を開けることをすっかり忘れて目を瞬かせれば、昨日、有栖のもとから逃げ出して以降、姿を見せなかった小虎は再び懇願した。


『入ーれーてぇぇぇぇ……!』


 なぜか泣きそうな声音の小虎は、よほど怖いことがあったのだろう。

 鍵を外して窓を開けてやれば、二匹は文字どおり室内に転がり込んだ。


『うぎゅっ!?』

「ふぎゃっ!?」

「ど、どうかしたの? こんな朝早くから……」


 時計を見れば、まだ五時を少し回ったくらいだ。いくら親しいとはいえ、こんな早朝に訪ねてくることは今までなかった。

 すると、床の上で重なっていた二匹は互いに体をバタバタとさせて離れると、小虎は窓の縁に飛び乗って開けられたままの窓を器用に閉め、子猫は有栖に縋るように飛びついた。

 振り返った小虎が有栖に抱かれた子猫を見てあからさまにショックを受ける。


『あっ、ずるい!』

「にゃっ」


 自分よりも先に甘えている子猫に抗議の声を上げるも、子猫は聞く耳を持たないと言わんばかりに小虎から視線を逸らした。

 ひとまず、有栖は子猫を抱えたままベッドに座ると、小虎にもベッドに上がるように言ってここへ来た理由を訊ねる。


「何かあったの?」

『せや! あ、あんな! 学校で大変なことがあったんや!』

「大変なこと?」


 膝で丸くなる子猫の背中を撫でてやりながら、不安げな顔で言う小虎に首を傾げる。

 学校で大変なこと、それも小虎が騒ぐほどのものとなれば、九十九絡みだろうか。

 場合によってはまた隼人が駆り出されていそうだ、と考えつつ、小虎の言葉を待つ。


『「こーちょー」の熊さんが、変な黒い霧に食べられとったんよ!』

「こーちょーの熊さん……って、『大五郎だいごろう』さんって呼ばれてる九十九の?」

『そう!』


 生徒の間でも木彫りの熊の九十九は有名だ。

 校長室に飾られていた木彫りの熊は、この学校が創立されたときに寄贈されたもので、具現化したのも学校内では最初だったという。

 ただ、大きな体の割にあまり人目につくことはないため、有栖もまだ目にしたことはない。

 そんな大五郎が食べられていたという、にわかには信じられない話に、有栖は難しい顔をしながら片手を顎に当てて思案する。第一、黒い霧とはなんだろうか、と。


『あの変な黒い霧がな、太い管を刺して大五郎食ってたんよ! 響命力を!』

「九十九?」

『あんな九十九見たことないわ。それに、九十九にしては大きかったで?』


 九十九の大きさは元となる物の大きさとほぼ同じだ。子猫はまだ時期が早かったことからサイズは小さくなったが、それでも、元の物より大きく具現化することはない。

 基獣であれば、具現化の際にサイズを変えることはできるが、小虎の話から基獣ではない決定的な理由があった。


「基獣は『共喰ともぐい』なんてしないし、だとしたら……」


 基獣や九十九が別の基獣や九十九を食らう『共喰い』は、あったとしても九十九か、基獣とよく似たもう一つの存在がすることだ。人の心から生まれた正常な思考を持つ基獣が九十九や基獣を食すことはない。

 ただ、そのもう一つの存在というものは、有栖はあまり口には出したくなかった。

 戸惑う小虎もその存在に行き着いているのか、躊躇いがちにそれを口にする。


『ま、まさか、「怨獣えんじゅう」ってやつやろか……?』


 『怨獣』とは、主を失った基獣がはぐれ基獣としてさ迷う中で多くの負の感情に触れるか、主が強い怨恨や悲哀に飲まれたことで生まれるものだ。また、怨獣は周囲にいる基獣や九十九にも悪影響を及ぼすこともあるため、発見されれば一般人には避難が命じられる。

 有栖も可能性はあると思ったが、今回は場所が学校ということもあり、素直に頷くことができなかった。

 

「学校には、怨獣が入り込まないよう強い結界をしているって聞いたことがあるし、それに、治安部隊が真っ先に気づくと思う」

『それもそうやな』

「……もしかして、夢だったとか?」


 できれば夢だと言ってほしい。怨獣が学校にいるなど信じたくなかった。

 だが、小虎は首を左右に振って否定した。


『夢やないよ! ……まぁ、気がついたら家におったけど』

「怨獣って、狙ったら最後まで追いかけるって話だし、ここまで無事に逃げてこられたのも不思議なの。誰かに助けてもらったの?」

『んん? そういや、そうやな。誰かに助けられたっけ?』

「にー?」


 黒い霧から逃げ出した後からの記憶は曖昧だ。

 もしかすると、本当に夢だったのだろうか? だとすれば、昨日の出来事はどこからが夢なのだろうか?

 首を傾げる二匹を見ていた有栖は、ふと、撫でていた子猫の首にきらりと硬質な輝きを放つ銀色を見つけた。首の後ろ側の毛を避けると、鈴と小判を結わえるための赤い紐の他に銀色のバングルがあった。

 昼間、隼人が持っていた管理証だ。


「これ、管理証……。東雲君に会ったの?」

『あれ? ホンマや。でも、昨日はお雪達と別れた後、誰とも会ってないで? 九十九には会ったけど』


 これだけははっきりと覚えている。ただ、隼人の姿はおろか、人間には会っていない。

 では、管理証がいつ着けられたのか。新しい謎に、有栖と二匹は再び首を傾げる。


「うーん……。ひとまず、学校で東雲君に聞いてみるしかないかな。何か分かるかもしれないし、大五郎さんのことも含めて相談してみよう?」

『うん!』


 考えていても埒が明かない。

 有栖の提案に、小虎は何度も首を上下に振った。その様が張子の虎とそっくりで、さすがは張子の虎の九十九だ、と内心で感心した。

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