第3話 物に宿った想いの結晶
登校中にクラスメイトから聞いた「基獣学」の実習は一限目からだ。
基獣学とは、その名のとおり、基獣についての基礎や扱い方について学ぶ。中学の頃にもあった教科だが、中学では主に基獣の歴史から基本的な扱い方のみで深くまではやらない。基獣を具現化していない生徒もいる上、基獣を具現化させたばかりの生徒に顕現させての授業は響命力が安定していないこともあって危険を伴う場合もあるからだ。
しかし、高校になると基獣を具現化させて数年は経って慣れている者が多いため、より踏み込んだ部分まで学べるようになる。内容は座学だけに留まらず、実際に基獣を顕現させた状態で行うことも追加されるのだ。
今日はその実習の日だった。
体育と同じく、体操服に着替えて校舎の南側にあるグラウンドに出る。
グラウンドの端に整列すれば、前に立った基獣学の男性教師、
「基獣は心が具現化した姿だが、意識まで共有しているわけではない。だから、自分とよく似た性格の別個体だと思って接したほうがいい」
「昴は人懐っこいけど、恭夜はそうでもないのにね。昔の恭夜はああだったの?」
「……うっせ」
「やだ。図星?」
あくまでも似ている、というだけであり、基獣の中には主人のどこに似たのか、というものもいるにはいる。それは、周りの環境に合わせて人の性格が変わることがあるように、基獣も周りの環境によって変化を見せるからだ。
昴の場合は、凛が意図せず的中させたように昔の恭夜の性格とよく似ている。ただ、口が裂けてもそんなことは言えないが。
凛はまた詳しく有栖から聞いてみようと思いながら、大和田の説明に再び耳を傾ける。
「つまり、基獣を見て恐怖心を抱くのは、自分に恐怖心を抱くのと同じこと。基獣に対して敵意を向ければ、こちらが襲われることもある。そうならないためにも、今日は自分の基獣を『疑似戦闘』で戦わせてみようか」
戦闘はよほどのことがなければ、まず一般人が行うことはない。だが、戦闘を行うことで基獣の持つ力を見ることはできるため、基獣学ではあえて基獣に合わせた物を敵に見立てて戦う。
ボールや石、クッションなどを手にグラウンドに散らばる生徒の中、基獣のいない有栖は授業が始まる前に見学を言い渡されたため、グラウンドの東にある第二体育館横の大きな針葉樹の下に座って授業を眺める。
「基獣を怖がるのは、自分を怖がるのと一緒、か……」
膝を抱えながら、大和田の言っていた言葉を反芻する。一瞬だけ浮かんだ光景を振り払うように頭を振ってから、授業の様子へと意識を戻した。
昴が石に向かって火炎放射器の如く炎を吐けば、近くにいた隼人の基獣、白いイタチが驚いて隼人に駆け寄る。
イタチは素早く隼人の体を駆け上がると、その首に巻きついて震えた。尾の先を炎が掠めたのか、小さく煙が立ち昇っている。
「あ、ワリィ」
「お前、わざとか! コンがビビってマフラー化したんだけど!?」
「それでも昴より強い基獣か。頑張れよ」
「後ろから炎ぶっかけてきたやつに言われたくねーよ!」
「ちょっと、真面目にやりなさいよ」
ぎゃあぎゃあと言い合う二人を、凛が呆れたように窘める。その肩には白い小鳥が留まっていた。
凛の基獣は白い鳥だ。顕現するたびに鳥の種類は変わっており、姿が変わる原因としては顕現のために必要な響命力が安定していないからだと言われている。
だが、それでも基獣がいることには変わりがないため、高校進学もあまり問題になっていない。
有栖が見ていることに気づいたのか、昴が有栖に向いて一吠えして尾を振った。それに苦笑を零して手を振ってやれば、恭夜が小さく笑んで昴の頭を撫でて授業に引き戻した。
「いいなぁ……」
思わず零れた言葉に、自分で溜め息を吐いた。
大和田には主と基獣のやり取りを見ることも具現化のための勉強になる、と言っていたが、見たところで何か得られたかと問われれば首を傾げるところだ。
具現化は突然、頭の中に基獣のイメージが沸き、それに体内の響命力が反応してできるようだが、未だにそのイメージらしきものは浮かばない。何か動物を思い浮かべればいいのか、と動物図鑑を前に試したことはあるが、当然ながら何も現れなかった。
空を見上げれば、青い空に白い雲がゆっくりと流れていく。春の陽射しは暖かく、風は時折優しく吹く程度。後ろにある第二体育館は今は授業がないのか静寂を保っている。
一限目ではあるものの、まだ朝であるからか眠気に襲われる。
(だめだめ! ただでさえ授業に参加できていないのに、ここで寝たらもっと意味がなくなる)
頭を振って睡魔を振り飛ばす。
せめて、何か授業の手伝いはないか聞きに行こう、と立ったときだった。
『うおぉぉぉぉ……!!』
どこからか、苦しげに呻く少年の声と何かを引きずるような音が聞こえてくる。
「な、なに?」
穏やかな空気が一変。不気味な音に体が得体の知れない物への恐怖で硬直した。
辺りを見回して音の発生源を探る。生徒や大和田はそれぞれが基獣と訓練を行っているため、音が届いていないようだ。
引きずる音が近づく。どうやら、第二体育館の陰からこちらに出てこようとしているようだ。
今朝、隼人が言っていた「基獣絡みの事件が頻発している」という話を思い出した。まさか、学校内にまでその被害が及んでいるのだろうか、と。
大和田を呼ぶかどうか迷っていた有栖の前に、やがて音の正体が姿を現した。
『ううぅぅ……。お、重い……。いくら、はぁはぁ……実体化しとる、言うたかて、はぁ……おいら、元は、紙っ、なんっ、やけっ、どっ……! うおおぉぉ……!』
「…………」
猫ほどの大きさの虎が、招き猫を引きずっていた。呻き声はぶつぶつと文句を垂れる虎が発していたものだ。
虎は一見すると動物園から脱走した子供の虎だが、ピンと伸びた髭は量が多く、房になっている。そもそも、喋る虎はいない。
横倒しにされた招き猫はソリに乗せられており、虎はソリの紐を体に結んでここまで引っ張ってきたようだ。
招き猫の物言わぬ漆黒の目が愕然とする有栖と合った。
ハッと我に返った有栖は早鐘を打つ心臓を抑えつつ、見知ったその小さな虎の名を呼んだ。
「こ、
『んあ? ……あっ! お雪ぃー! ちょお、これ運んで! おいら死にそう!』
息を切らせながらも愚痴を盛大に零していた小さな虎――小虎は、有栖に気づくと助かったとばかりに声を上げた。
この小虎は有栖だけでなく、学校に通う生徒や近隣住民であれば知っている。
基獣とは似て非なる存在、『
小虎は学校のすぐそばにあった駄菓子屋の主人が所有していた『張子の虎』が具現化したものだ。主人が亡くなり、今はその妻と二人で暮らしている。
好奇心旺盛で人懐っこく、よく散歩がてら学校へやってくるため、学生や近隣住民の間ではちょっとしたアイドル的存在なのだ。
「どうしたの? この招き猫」
有栖は小虎に駆け寄り、招き猫を見ながら小虎の体に括り付けられた紐を解いてやる。紐が体に結ばれているということは、誰かしらが手を貸したのだろうが、なぜ彼に運ばせたのだろうか。
小虎とほぼ同じ大きさのそれは、陶器製のためか人間が持ってもやや重みを感じるほどだ。
一息吐いた小虎は、寂しそうに項垂れて経緯を話し始める。
『「おばあ」がな、また「にゅーいん」してしもーてん。誰もおらん家におっても退屈やし、話し相手が欲しいけんな、“これ”具現化したって!』
前足で軽く招き猫を叩いた小虎は、招き猫を九十九に変えたいようだ。物に相応の想いが詰まっていれば具現化は可能だが、九十九は別の九十九を具現化することはできない。
所有者である女性は入院中で具現化どころではない。他に九十九の具現化ができるのは響命力の高い者だ。そこで思いついたのが、優秀な基獣の主が集うこの学校だった。
やや色褪せた招き猫からはある程度の年季を感じるが、具現化ができる程なのかは分からない。
「これを具現化するの?」
『そう! これ、覚えとる? おばあがおじいとお店やっとったときにおった招き猫やねん。店畳んでしもたあとも、部屋に飾ってたんよ』
通常、九十九になるのは少なくとも半世紀以上は経過した物だけだ。
小虎は主人が生まれたときの誕生祝いの品だったため、年数としては申し分ないほどだが、招き猫はせいぜい二十年ほどだろうか。
『おじいがおらんくなってから、おばあはよう「寂しい」って言いよったし、おいらだけじゃきっとそれは埋めきれん。おばあが、「その人の代わりになる人なんておらへん。せやから、寂しいと思うんやで」ってよう言いよったんよ』
寂しい、という感覚は、小虎にはまだ少し理解しづらい。大切にされた物に詰まった人の想いが響命力と反応して具現化した九十九だが、自分の中にある想いがどういったものかを理解するには時間と経験が必要だ。
小虎が具現化したのは、主人が亡くなる少し前、今から五年ほど前のことだ。それから今まで、小虎は主人の妻と一緒に暮らし、この世界や感情についてある程度は学んできた。だが、主人の妻や近隣住民が常にいた小虎にとって、寂しさを強く実感することはない。
『せやったら、代わりやなくて、寂しいと思わせんくらいに思い出でいっぱいにしたったらええねん!』
名案だ、とばかりに胸を張る小虎は、彼女を想って動いている。張子の虎として家族を見守ってきたからこそ、九十九として家族に触れてきたからこそ抱く想いだ。
有栖は小虎の主の老夫婦はよく知っている。主人が定年退職し、夫婦揃って子供が好きだからと、笑顔を見ながら老後を暮らそうと駄菓子屋を開いた。そこに、有栖達もよく通っていたのだ。
店が閉まってからはあまり交流はなかったが、彼女の穏やかで優しい微笑みは今も鮮明に覚えている。
ふと、有栖は母から聞いたことを思い出した。
(
入退院を繰り返す彼女は、どうも治りにくい病にかかっているようだった。
長くはないかも、と言われているようだが、果たして小虎はその事実を知らされているのだろうか。
考え込む有栖をよそに、やはり事実を知らないのか、のんびりとした小虎は彼女の帰宅を待ち望んでいた。
『まぁ、歳も歳やし、近頃は元気もなくなってきたからなぁ。けど、コイツが具現化してくれたら、おじいとの事を思い出して、また元気になってくれるかもしれんやろ?』
「……そうだね。じゃあ、先生にお願いしてみようか」
有栖は立ち上がると、未だグラウンドで生徒の指導に当たっていた大和田を一瞥して言った。
小虎の期待を踏みにじるような真似はしたくない。ならば、彼が描く未来に少しでも近づけるように協力してもいいだろう。交渉すればなんとかなるか、別の方法を教えてくれるかもしれない。
それを聞いた小虎の顔色が、花が咲いたように明るくなった。
『ほんまに!? おおきにー! あ、意外と重いから気ぃつけてや!』
「はいはい。小虎ちゃんよりは力あるから、安心し――っ!?」
招き猫を持って行くため、ソリに鎮座するそれを持ち上げようと手を伸ばす。
だが、手が触れた瞬間、手と招き猫の間で光が発し、招き猫が光に包まれた。
眩い光に、グラウンドに散っていた生徒も何事かと行動を止める。
ちりん、と鈴の音が響く。
にゃあん、と猫の鳴き声がした。
やがて、光が収まってくると、中から現れたのは招き猫と同じ色柄の子猫だった。首もとには赤い紐で括られた鈴と小さな小判がついており、ちりん、と高い音が静かな周囲に響き渡る。
「にゃあう」
まるで自身の存在を主張するかのように、子猫は無邪気に鳴く。
グラウンドに面した南館の教室で授業を受けていた生徒も、光に気づいたのか窓から顔を出す者もいる。
誰もが言葉を失って状況を整理する中、当事者である有栖がその空気を壊した。
「…………えっ。うそ、具現化した……?」
招き猫の姿はどこにもなくなっている。そして、目の前にいるのはその招き猫と同じ色柄の子猫。
あの光と子猫から察して、招き猫は有栖が触れたことで九十九に具現化してしまったようだ。
驚く有栖をよそに、具現化を望んでいた小虎が歓喜の声を上げた。
『やったぁぁぁぁ! お雪、具現化できたんやなぁ! おおきにー! これで、おいら退屈せーへんし、おばあも喜ぶで!』
ぎゅう、と子猫の首に抱きついて喜ぶ小虎は、九十九を具現化することについて詳しくは知らないようだ。
所有者以外で九十九を具現化できるのは、位が第二位以上の者だということを。それ以下の位の者は、響命力が足りないためにできないのだ。
そもそも、所有者以外が九十九を具現化するのは許可がいる。例え、有栖が第二位以上であったとしても、許可を得る前の今、具現化をすることは規律を犯しているのと同じだ。
喜ぶ小虎と首を絞められて苦しげな子猫を前に、有栖はただ呆然とその様子を眺めていた。
その背後に、グラウンドで指導していた大和田が立った。
「御雪。授業が終わったら、すぐ職員室に来るように。東雲はその九十九を生徒会で保護しておくように」
「……はい」
「了解でーす」
具現化してしまえば、元に戻すことはできない。
無許可の九十九の具現化がどのような罰則を受けるかは、持ち主に話をしてからの判断になることが多いが、最悪、停学か退学処分もあり得る話だ。
大和田に呼ばれてすぐに駆けてきた隼人は、小虎と子猫を抱き上げると、不安げに視線を落とす有栖に訊ねる。
「御雪ちゃん、何かした?」
「ううん。なにも。小虎ちゃんから、『具現化してほしい』って言われて、先生に聞いてみるって言ってから持ち上げようとしたら、具現化しちゃって……」
「……そっか。まぁ、前野のばあちゃんも悪い人じゃないし、きちんと話をすれば分かってもらえるって」
『お雪、なんもしてへんよ? あのおっちゃん、顔怖いわぁ』
隼人の腕に抱えられた小虎は、ただならぬ空気に不安を滲ませる。
余計なことを言って暴れないよう、隼人は小虎を宥めるように言う。
「うんうん。分かったから、君たちは一回、部屋に入っておこうなー?」
『いやや! お前、なんか胡散臭いし!』
「ははっ。言えてる」
「笑うな、恭夜!」
声を上げた小虎に恭夜が確かに、と頷いて笑えば、隼人から叱責が飛んできた。
校舎に入っていく隼人と二匹を見送ってから、有栖は深い溜め息を吐く。授業が終わるまでまだ四十分近くあるが、その間、ずっとクラスメイトからの好奇の視線に晒されるのだ。
早く終わってほしいと思いつつ、もう何もするまいと再び木の下に戻って座った。
その一連の騒動を、南館校舎の三階にある教室から見ていた姿があった。
「ようやく、か」
知っていた、もしくは、予想していた、と言わんばかりの青年の呟きは、九十九の具現化に未だざわつく教室内の音にかき消された。
肩に僅かにつくくらいの薄い砂色の髪が、開けたままの窓から入る風に揺れる。穏やかな人柄を現すような空色の目が嬉しそうに細められた。
「やっぱり、僕の目に間違いはなかったね」
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