第3章 夜の奥庭
早婚者の多い軍人の中にあって、ネブザラダンは未だ独り身だった。
もっとも、近衛隊は年若い者を中心に編成されているので、彼らの中では独り身は珍しくなかった。そして、独り身の者には常に結婚話がついて回る。家柄も実力もある者ならばなおさらだ。
「どうにもこうにも、家にいるとうっとうしくてかなわん」
相当まいっているのか、ネブザラダンは珍しく、エレミヤの前でぼやいた。
「かといって王宮におれば、もっとうるさいし。いっそ戦でも起きてくれないかとさえ思うぞ」
「これはこれは。ずいぶんと物騒なことをおっしゃいますね、近衛隊長殿」
ネブザラダンの愚痴に、エレミヤはくすくすと笑った。
夜だった。
会うのは相変わらず神殿の奥庭だったが、時間は昼から夜になった。そのほうが人の目を気にせずにゆっくり話せるからだ。
「いや、俺は本気だ」
ネブザラダンは真顔でそう言った。
「生まれた家がたまたま貴族だったから、俺は今こうして近衛隊長などをしているが、そうでなかったら今頃は傭兵か盗賊でもしていただろう。自分で言うのも何だが、俺は剣にしか能のない男だ。だが、どういうわけかこの国は昔から戦とは縁遠い。平和なのは結構なことだが、俺などにしてみれば少々退屈だ」
愛用の大剣の傍らでネブザラダンは苦笑した。そんな彼をエレミヤは黙って見つめていたが、ふいに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「起こしてあげましょうか?」
「何を?」
「戦を。あなたが退屈しないように」
ネブザラダンは面食らっていたが、ほどなく呆れたように笑った。
「時々、とんでもないことを言うな、貴殿は」
「おや、私も本気ですが」
そう言うエレミヤの笑顔には、相変わらず邪気がない。
「俺はかまわんが、国民には迷惑だろう」
笑いながらネブザラダンは言った。
「遠慮しておこう。貴殿が本当に戦を起こすことができるのであれば」
「そうですか。それではやめておきましょう」
エレミヤも笑って応じた。ネブザラダンは冗談だとばかり思っているようだったから。
「そういえば」
と、思い出したようにネブザラダンが口を開いた。
「来月は、〈降臨祭〉だな」
「……そうですね」
まったく不意を突かれて、エレミヤはうなずくのに少し遅れた。
「〈降臨祭〉の夜は、すべてが無礼講というが、貴殿はやはり神殿勤めか?」
そう言って、皮肉っぽく笑う。
「ええ、私だけは。神官たちは〈降臨祭〉の夜だけは、神殿から解放されますが」
「神官たちは自由になれるのか?」
ネブザラダンは意外そうに目を丸くした。
「ええ。そういうことになっています。日中は祭事を行いますので、そういうわけにはいきませんが」
「……結局、貴殿は死ぬまで〝籠の鳥〟というわけだな」
「え?」
エレミヤは思わずネブザラダンを見たが、彼はエレミヤから顔をそむけたまま、何も言わなかった。
いつからだろう。
ネブザラダンがこんなことを口にするようになったのは。
以前にも、ネブザラダンは突然、神殿の外に出たくはないのかと言った。特に望んだことはないとエレミヤが答えると、ネブザラダンは常にない真剣な表情でエレミヤを見すえたのだった。
――俺が一緒でも?
エレミヤは神殿の周辺に少し遊びに出る程度だろうと思い、それなら出てもいいかもしれないと言おうとした。だが、その前にネブザラダンはすまないと謝罪した。
――つまらんことを言った。貴殿は神殿の中にいたほうがいい。そのほうが安全だ。
――どうしてです? あなたがご一緒なら、この国の誰といるよりも安全でしょうに?
多少の嫌味もこめてそう言うと、ネブザラダンは酷薄な笑みを口元に刻んだ。
――安全かもしれないが、二度とは神殿に戻れぬかもしれぬよ、神官殿。
――え?
一瞬、エレミヤは何と言われたのかわからなかった。しかし、はっと気づいて、その真意を問いただそうとしたときには、ネブザラダンは彼に背を向けていた。
もしかしたら、あのときからだろうか。
凛々しい男の横顔を、エレミヤは見つめた。その視線を感じたのか、ふとネブザラダンがエレミヤのほうを向いた。
「何か? 神官殿」
「いえ、特に!」
狼狽してエレミヤは声を跳ね上げた。
「ただ……私はあなたにお会いできて、本当によかったと思っています。あなたにお会いするまでは、毎日退屈しておりました。これも神のお導きでしょう。有り難いことです」
〈大神官〉らしく、エレミヤが殊勝に手を組んでみせると、ネブザラダンはさもおかしそうに笑い出した。
「なぜ笑うんです?」
「いや……貴殿、それを本心から言っているのか?」
「もちろんですよ。私は〈大神官〉なのですから」
すましてそう答えると、ネブザラダンはいよいよ笑った。
「いったい、何がそんなにおかしいんです?」
望んで〈大神官〉になったわけではないとはいえ、さすがにエレミヤは気を悪くした。と、ネブザラダンは逆にエレミヤに問い返した。
「貴殿は、本当に神を信じているのか?」
エレミヤは内心動揺したが、強いて冷静に回答した。
「愚問です。私は〈大神官〉なのですから」
「では、もし〈大神官〉でなかったら、貴殿は神を信じなかったか?」
「いいえ。やはり信じたでしょう。――なぜ、そんなことをお訊きになるのです?」
「貴殿は神など信じていないと思っていた」
神殿の奥庭で、〈大神官〉を前にして、ネブザラダンは恐れげもなくそう言った。
「俺も神は信じない。貴殿を生涯この神殿に縛りつけるような神を、俺は信じたくない」
「近衛隊長殿……」
「それでも――貴殿は神を信じているか。〈大神官〉として仕えたいと思っているのか」
いつのまにか、ネブザラダンの顔から笑みが消えていた。何もかも見透かすような黒い瞳で、じっとエレミヤを見つめる。
もちろんだと、今度もエレミヤは答えようとした。だが、その目のひたむきさに、エレミヤはとてもそうは言えなかった。
図星だったからだ――エレミヤは神を信じてもいなければ、生涯神に仕えたいとも思っていない。否。エレミヤは神に仕えてなどいない。本当は〈大神官〉とは――そして〈降臨祭〉とは――
エレミヤは真実を話したい衝動にかられた。この男なら、わかってくれる。エレミヤの葛藤を、苦しみを、きっと理解してくれる。
しかし、それは人に告げてはならない。
告げれば、消される。
やっと巡り会えたこの男を、こんなことで失いたくない。
〈降臨祭〉までは、離れたくない。
「許してください……」
顔を伏せてエレミヤは呟いた。
それだけしか言えなかった。
「狭いようで広いな、この国は」
月光の下、あたかも川のように流れているエレミヤの白銀の髪を、ネブザラダンは片手でそっと掬いとった。
「よもやこの国に、貴殿のような人間がいるとは思いもしなかった。そうと知っていたら、〈大神官〉になる前に、さっさとさらいに行っていたのにな。なかなかうまくはいかんものだ」
エレミヤは苦く笑った。もしそうだったら、〝自分〟はきっとこの男に出会えなかっただろうから。
だが、それはこの男には知り得るはずもないことだ。知らなくていいことだ。
今や、エレミヤは確信していた。
この男は、自分を愛している。
そして、エレミヤは予感していた。
――きっとまた、〝自分〟はこの男と罪を犯す。
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