第2章 昼の奥庭
ネブザラダンを知ってから、エレミヤの日々は退屈なものではなくなった。エレミヤは神殿の敷地外に出ることはできなかったが、ネブザラダンはどうやって入りこむのか、たびたびエレミヤの居室の窓の下に現れた。
なぜそれがわかるかといえば、あれからエレミヤは窓辺に座るのが習慣となったからだった。そして、ネブザラダンが鷹揚に手を振るのを認めると、今度は階段を使って、急いで外へと飛び出していくのだった。
ネブザラダンによると、近衛隊長たるもの、いかなる場所へも誰にも見つからずに忍びこめなければならないという。あのときここにいたのは、その鍛練の一端だそうだ。それではまるで泥棒ではないかとエレミヤは呆れたが、ネブザラダンが若くして近衛隊長となったのは、もちろんそんな特技のせいではない。貴族の家に生まれ、王とは血縁関係もあったが、何よりその類まれな剣技を買われてのことだった。
とはいっても、神殿を出ることのないエレミヤにそれを目にする機会はなく、それらはすべて神官たちから、それとなく訊いて知ったことであった。
エレミヤが知っているネブザラダンは、あくまで快活で、とぼけた男だった。不謹慎なことに、たいてい酒と肴を持参していて、これはうまいからと半ば強引にエレミヤに勧め――確かにそれらは皆うまかった――外の世界を知らぬエレミヤに、おもしろおかしく話して聞かせた。
こんな男は初めてだった。生命力にあふれていて、〈大神官〉である自分にも、まったく構えるところがない。
だが、ネブザラダンはあの最初の出会い以来、必要以上にエレミヤに手を触れなかった。俺が触れると汚れるからな。よく冗談でそう言った。
初対面であれほど無遠慮に胸まで触っておいて、今さら汚れるも何もないとエレミヤは思ったが、かといって自分から触ってもいいと言うわけにもいかず、結局何も言えずじまいだった。
あの胸を触ったことについて、ネブザラダンはこう言い訳をした。いわく、貴殿の顔を見ただけでは男か女かわからなかった。さすがに下を確かめるのは気が引けたので、とりあえず上を確かめた。云々。
「でも、あなたは私が〈大神官〉であることを知っていたではないですか。それならば、私が男であることも知っていたのではないのですか?」
神殿からは見えない奥庭の木陰で、エレミヤはネブザラダンに不審の目を向けた。
「確かに知ってはいたが、実際目の前で見ると、どうにも信じられなくてな。つい手が出てしまったというわけだ」
ネブザラダンはにやにやしながら、持参してきた葡萄酒を実にうまそうに飲んだ。
二人がしばしばこうして会っていることは、あくまで二人だけの秘密だった。たとえ、単に話をしているだけでも――まあ、酒も飲んでいるが――〈大神官〉が外の人間と個人的に会っていれば、あらぬ嫌疑をかけられるやもしれぬ。エレミヤもネブザラダンも、それを何より恐れていた。
――〈大神官〉と情を通じれば、〈大神官〉は自害。その相手と一族は死刑。
この国の者なら、誰でも知っていることだ。ゆえに、エレミヤはネブザラダンが自分に寄せてくれる好意は、一種の友情なのだと解していた。
国の歴史では、この禁を破った〈大神官〉はいないとされている。しかし、〈降臨祭〉に当たった〈大神官〉が、例外なく祭りの夜に原因不明の死を迎えている事実は、存外人々には知られていない。
「信じられないとつい手が出るのですか、あなたは」
エレミヤは美しい顔をしかめたが、すかさず続けた。
「それで、もし私が女性だったら、どうなさるおつもりだったのですか?」
ネブザラダンはぎくりとしてエレミヤを見、そして、少々決まり悪げに苦笑した。
「どうなさるも、別にどうもなさらないが」
「では、なぜ性別など確かめたのです?」
「女では、酒を勧めにくいからなあ」
あっけらかんとネブザラダンは答えた。
「その点、貴殿は酒にも強いし、並の女より見目麗しいしで、酒の相手には申し分ない。以前から思っていたのだが、貴殿、本当に世間知らずなのか?」
「は?」
突拍子もないことを言い出したネブザラダンに、エレミヤはあっけにとられた。
「貴殿はここに来るまで、森で祖父と二人きりで暮らしていたというが、俺にはとてもそのようには見えない。わりと世間慣れしているように見えるぞ。酒の飲みっぷりもいいしな」
悪戯っぽく光る目で、ネブザラダンはじっとエレミヤを見すえた。
「突然、何を言い出すかと思えば……それはあなたの買いかぶりですよ。そのように見えるというのであれば、それは相手があなただからです。私自身は本当に、世間知らずの子供ですよ」
エレミヤは莞爾と微笑んだ。歴代の〈大神官〉たちはこの笑みで、神官たちを意のままに動かしてきたのだ。だが、それも百戦錬磨の近衛隊長には通用しなかった。
「子供は普通、自分で〝子供〟とは言わぬものだよ、神官殿」
呆れたようにネブザラダンは笑うと、急に立ち上がった。
「今日はずいぶん長居をした。あんまり長くいると、手下どもに捜される。残りの酒は貴殿にくれてやろう。大事に飲めよ」
「残りって……もう盃一杯分も残っていないように思えますが」
エレミヤは無表情に酒瓶を振ってみせたが、ネブザラダンは磊落に笑った。
「それ以上残っていたら、俺が持って帰る。酒は俺の唯一の生き甲斐だからな」
「それほどお好きなら、今度酒樽を用意しておきましょうか?」
「おお、それはいい。でも、うまい酒以外はごめんだぞ」
エレミヤの皮肉にもまったく応えたふうもなく、ネブザラダンは豪快に笑ったが、ふとその笑みを消して、エレミヤを見下ろした。
「どうしました? うまい肴も用意しろと言うんですか?」
投げやりにエレミヤは言った。
「いや……貴殿、ここへ来る前に、どこかで俺と会っていないか?」
予想もしていなかった問いに、エレミヤは紫の瞳を見開いた。
ネブザラダンの表情は、真剣そのものだった。
「さあ……たぶんないと思いますが。少なくとも、私には、あなたをお見かけした記憶はありません」
そう――私には。
エレミヤは心のうちで呟いた。
「……そうか。そうだろうな。俺にも貴殿を見かけた記憶はない。貴殿ほどの美質、一度見たらそうそう忘れぬはずだ。妙なことを訊いたな。忘れてくれ」
ネブザラダンは気恥ずかしげにそう言うと、足早に立ち去っていった。
しだいに遠くなるネブザラダンの足音を聞きながら、エレミヤは嬉しさと恨めしさを涙と共に噛みしめていた。
「〈大神官〉様、どうなされました?」
ネブザラダンと入れ違うように、神官長が声をかけてきた。端然とした初老の女性で、厳しいところもあるが、彼女がいちばんエレミヤに心酔しており、また何くれとなく面倒を見てくれていた。
「何でもないよ」
潤んだ目を見られぬよう、うつむいたままエレミヤは答えた。
「約束どおり、見て見ぬふりをしておくれ。……〈降臨祭〉の夜までは」
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