第1章 近衛隊長
エレミヤは、都のはずれの森に住む
もともと異国の人である祖父は、年ふる前から白銀の髪の持ち主であり、その孫であるエレミヤは、見事にそれを受け継いでいた。しかし、祖父の瞳は灰色であり、エレミヤの瞳は紫であった。これは祖父によれば、エレミヤの母、つまり祖父の娘の瞳の色と同じという。
祖父が人嫌いのため、エレミヤは少年時代のほとんどを森の中で過ごした。だが、エレミヤにはそのことに対する不満はなかった。他人には偏屈な祖父も、たった一人の肉親であるエレミヤには甘かったし、たまに出かける都の市は、エレミヤには猥雑なものでしかなかったのである。エレミヤは髪の色ばかりでなく、その性向も祖父に似てしまったようである。
そんなエレミヤのもとに、神殿から使者がやってきたのが、彼が十七の春のことだった。三日前に亡くなった〈大神官〉が、エレミヤを後任の〈大神官〉とする神託を下していたので、さっそく彼を迎えにきたのだという。こればかりは祖父も拒むわけにはいかず、エレミヤは長年住み慣れた森を離れて、都の中心にある神殿へと移ることになった。
決して大きくはないが、豊かな土地と賢明な王とに恵まれたこの国は、古くからただ一柱の神を奉じていた。
そのこと自体は珍しいことではなかった。中には複数の神々を崇める国もあったが、ほとんどの国は一柱の神を国の守護神としている。しかし、この国が特異なのは、神官とは別に、神託を告げることを業とする〈大神官〉がいることと、百年に一度、秋にたった一日だけ行われる〈降臨祭〉があることだった。
〈大神官〉は終身制であり、後任は前任者の遺した神託によって定められる。必ずしも神官の中から選ばれるということはなく、時には平民の娘であったり、貴族の息子であったりしたが、そのいずれもが、若く美しい男女であり、まだ男も女も知らぬ者だった。
そうして指名された者は、例外なく〈大神官〉となる。王宮と隣接する神殿に生涯仕え、神託によって人々を導くのである。神官は、その補佐として存在していた。
一度〈大神官〉になってしまえば、そう簡単に家族に会うことはできなくなる。神殿は祖父の生活を保障してくれたが、エレミヤは泣く泣く祖父と別れた。何か不吉な予感がしたのだ。そして、それはエレミヤが〈大神官〉となって、一月ほど経ってから的中した。
祖父は急死したのである。
このときばかりはエレミヤは里帰りをし、森に祖父を弔った。こうして彼は天涯孤独の身の上となったのだった。
不思議なことに〈大神官〉は、皆、誰に教えられなくとも、その職務をこなすことができる。くわえて、彼らの下す神託は常に正しく、これまで幾度かあった国の危機も、そのたび救ってきた。そのため、〈大神官〉は王よりも深く国民に敬われており、神の代弁者というよりも、神そのものになっていた。この国が長く平和を保っているのも、王の才覚ではなく〈大神官〉のおかげというのが、人々の暗黙の常識であった。
神殿と王宮とが隣り合っているのは、〈大神官〉を保護することによって人心を掌握しようという、王の意図にほかならない。したがって、神殿の警護は厳重であり、少しでも怪しいそぶりを見せた者は、衛兵によってただちに昇殿を阻まれる。
だが、王とて〈大神官〉を自由にできるわけではない。曲がりなりにも〈大神官〉は神の代理人であり、王宮に呼び出してその神託を聞く、などということはできないのだ。現在の王も、エレミヤの継承式には、わざわざ神殿まで赴いた。この国において、〈大神官〉とはそのような存在であり、それゆえに〈大神官〉は、勝手に神殿の外へ出ることを禁じられていた。
しかし、そのことよりも、周りに自分を崇める者しかいないことのほうが、エレミヤには応えた。さらに、神託を下すこと以外に仕事らしい仕事がないことも、エレミヤの気を滅入らせた。
暇をもてあまして、エレミヤが掃除でもしようとすると、あわてて神官が飛んできて、〈大神官〉様がそのようなことをなさってはいけません、私どもがいたしますと、エレミヤの手から箒を奪い取っていく。ほんの数ヶ月前までは、普通にそのようなことをしていたのに。
そんなある日のことだった。
すっかり退屈していたエレミヤは、神殿の一角にある自分の居室の窓に腰をかけ、小鳥たちに餌を与えていた。
生来、動物によく好かれるエレミヤだったが、〈大神官〉という肩書きのために、親しい友人を作ることもかなわぬ今となっては、動物たちとの戯れだけが、唯一の心の慰めだった。それは小鳥たちも感じとっていたのだろう。餌がなくなってもいっこうに離れる気配はなく、エレミヤの髪や衣をついばんだり、部屋の中を飛び回ったりしていた。エレミヤはそれを微笑ましく眺めていたが、机の上にいる一羽の小鳥がくわえているものを見て、表情を変えた。
「おい、それは……」
そう声をかけたとたん、その小鳥は飛び立って、エレミヤの横をすり抜けた。とっさにその小鳥を捕まえようと、エレミヤは座ったまま精一杯腕を伸ばした――と、彼は体勢を崩し、そのまま窓から落ちた。
ここは三階で、真下には石畳。死ぬのかとエレミヤは思った。こんなことで死ぬなんて、何とも間抜けな気がしたが、その一方で、自分にはふさわしい死に方のような気もした。あの小鳥がくわえていったのが、母の形見の耳飾りだったのも、きっと何かの縁だったのだろう。落ちていく一瞬の間、エレミヤはそれだけのことを考えた。
だが、エレミヤが覚悟を決めて目を閉じたとき、敷石よりは遥かに柔らかい感触が彼を包んだ。
「――なるほど。鳥のように軽いが、翼がなくては空は飛べんぞ」
笑いを噛み殺したような男の声。エレミヤは恐る恐る目を開けた。
すぐ目の前に、見知らぬ黒髪の男の顔があった。
我に返って自分の体を見ると、この男に抱き上げられていた。どうやら、この男が窓から落ちたエレミヤを受け止めてくれたものらしい。エレミヤが見た限りには、近くに人影はなかったように思えたのだが。
「あの……いったい……?」
礼を言うより先に、まず正体を知りたいと思った。しかし、男は黙ってエレミヤを下に下ろすと、いきなり彼の胸に大きな手を当てた。
「男だな」
生真面目な表情で男は言った。突然のことで、エレミヤはすぐには何も反応できなかったが、かっとして男の手を振り払おうとした。が、その前に男はさっと手を引いてしまった。
「お言葉ですが」
礼を言うのもすっかり忘れて、エレミヤは男を睨めつけた。
「世の中には、このような胸をなさった婦女子の方もいらっしゃるのですよ」
エレミヤがこのように反論してくるとは思っていなかったらしい男は、意表を突かれたように黒い目を見張ったが、やがて整った顔に意地の悪い笑みを浮かばせた。
「では、女か?」
「男ですっ!」
それまでに何度も女と間違えられた経験のあるエレミヤは、むきになって否定した。
「そうか。それはすまなかった。何にせよ、ご無事で何より。今後は気をつけられよ」
男はそう言うと、緋色の
「ま……待ってください! お名前は?」
あわててエレミヤは男を呼び止めた。男は足を止めると、悠然とエレミヤを振り返った。
「これは失礼した。私の名はネブザラダン。不肖ながら、王の近衛隊隊長を務めている。以後、お見知り置きを。〈大神官〉殿」
男――ネブザラダンは、その大柄な体からは想像もできぬほど優雅に一礼すると、再び踵を返した。彼が歩を進めるたび、腰に佩いた大剣と革製の鎧が音を立てる。その姿が植えこみの向こうに消えてしまってから、エレミヤは結局ネブザラダンに礼を言いそびれてしまったことに気がついた。
だが、近衛隊長ともあろう者が、どうしてこんなところにいたのだろう。確かに王宮とは隣り合っているが、神官の居住区であるここへは、関係者以外立ち入ることはできない。それに、あの男はエレミヤが小鳥を追って落ちたことを知っていた。ということは、その前から、自分を見ていた――?
そのとき、羽音がして、一羽の小鳥がエレミヤの肩に留まった。何気なく見てみると、その小鳥のくちばしには、あの小さな金の耳飾りがくわえられていたのだった。
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