第8話 ミトラ教的な、あまりにもミトラ教的な (後)

 イエスは弟子に自分の死と復活を予言した。死んでも復活することがわかっていたためか、そのときには恐怖で打ちひしがれている様子はなかった。八日後、イエスは一部の弟子だけを連れて高い山に登った。イエスの顔や服が光り始め、モーセとエリヤがそばにいた。イエスの変容と呼ばれる。

 おそらく姿を消した天使がその場にいて、イエスの左右にモーセとエリアの幻を描き、間に挟まれたイエスも光に包まれたのだろう。そのときイエスが連れていった弟子は、ペテロとヤコブ、ヤコブの弟のヨハネの三人だ。後の章で理由を述べるが、幻を描いたのは姿を消した天使ではなく、ヨハネかもしれない。


 イエスは、自分が死んで三日後に復活すると予告した。何故、三日後なのだろう。処刑されてすぐ復活すれば、敵対する祭司長といえどもイエスの信者になりそうだが。その場で死者をよみがえらせるイエスなら、自分をよみがえらせることなど簡単なはずなのに。わざわざ墓に納められてから、墓の中で人知れず復活しても、祭司長たちがけちをつけることぐらい予想できたはずだ。


 イエスと弟子達はエルサレムに入った。そこではイエスを殺す計画が練られていた。そのことを知っていた天使たちは、イエスの代わりに処刑される青年を見つけておいたが、何らかの手違いでイエス本人が処刑され、替え玉が生き延びてしまった。


 復活後のイエスは、「イエスはちがった姿で御自身をあらわされた(マルコ16:12)」ということだから、替え玉は似ていなかった。代わりに死んでくれる似た人間など滅多にいないから当然だ。

 探偵小説十戒第十条。双子やうり二つの人間を登場させるなら、あらかじめ明記すべきである。読者に知らせずに替え玉を使ったが、違った姿なので十戒違反ではない。


 弟子のひとり、イスカリオテのユダは、ユダヤの祭司長たちと取引をし、金でイエスを売った。そのことをイエスはあらかじめ知っており、最後の晩餐の席で私を裏切ろうとする者がいると語った。


 異端とされるグノーシス派のユダの福音書では、ユダは最高の使徒で、イエス本人に頼まれて、イエスの肉体を犠牲にすべく、師を敵に売ったように記されている。もしこのことが事実なら、ユダは復活劇の悪役を演じたことになる。

 正典の福音書でもイエスがユダの裏切りを予告していることから、ユダの裏切りはやはり天使の書いた筋書き通りのことだろう。ユダがイエスを敵に売り、替え玉が処刑され、本物のイエスが三日後に人々の前に登場する。これでエルサレムの民衆は、イエスの信者となる。計画通りにいけば、そうなるはずだった。だが、予定を変更せざるを得ない事態が起きた。


 ルカ福音書九章。パンを増やして群衆に配った後、イエスがひとりで祈っているところに弟子達が近づき、イエスは群衆の反応を聞いた。そのときイエスは、自分が死んで三日後に復活することを明かし、そのことを口止めした。

 マルコ六章。パンを配り終え群衆と別れたイエスは山に上り祈った。夕方、イエスが海の上を歩いているのを弟子たちが見た。

 ヨハネ六章。パンを配ったイエスは、ひとりで山に上がり、夕方海の上を歩くのを弟子達に目撃される。翌日も群衆からパンをねだられたが、自分こそが命のパンだと言い張った。それを聞いて多くの弟子達が、イエスのもとを去った。


 マルコ、ルカ、ヨハネの三福音書から、イエスのもとを去った弟子の中には、死んで三日後に復活する予定を知っている者がいた可能性があることがわかる。必ずいたと断言できないのは、マタイ、マルコでは復活の秘密を明かすのは別のタイミングとなっているからだ。

 もし、復活のことを明かしたのがルカの通りだとしたら、イエスのことを山師の類と思っている彼らは、イエスの悪口を言いふらし、死んで三日後に復活するという大ボラを知人や親戚に話すだろう。


 その結果、

「あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました(マタイ27:63)」と祭司長たちが言うことになる。


 逮捕されてからの取り調べでは、イエスに不利な証拠がなかなか見つからなかった。「イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった(マルコ14:61)」

 キリストかどうか問われ、

「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう(マルコ14:62)」と認めたことが決め手となり、ピラトに引き渡されてからも、

「ピラトが不思議に思うほどに、もう何もお答えにならなかった(マルコ15:5)」そうなので、イエスは取り調べで、自分が処刑されて三日後に復活するとは語らなかったはずだ。


 敵はイエスに関する情報収集をした結果、復活計画を事前に知っていた可能性が濃厚だ。


 話を持ちかけたのはユダのほうからだ。イエスの弟子であるユダは、回し者と疑われて当然だ。たとえ復活計画が漏れていなくても、大金を払うのだから、本人確認は必須となる。

 イエスはエルサレムに着いてからも神殿で説教をしていて、祭司長や長老と会話をしている。祭司長らは、偽物を渡されないように、逮捕時には自分も同行する、あるいはイエスの説教を聞いた者を探し出し、送り込むなどと言って、本物のイエスを渡すように、ユダに念を押した。逮捕時の群衆の中には、イエスの顔を知る者も混じっていたのだろう。


 ユダは困り果てたに違いない。イエスのもとに帰ったユダの話を聞いて、イエスは主(天使)と相談する。二人の天使は、やむなくイエス本人が処刑され、替え玉に復活後のイエスを演じさせる計画に変更した。

 イエスを安心させるため、処刑の最中に神が助けに来ると嘘をいい、遠方にいる立案者のガブリエルには、計画変更のことは事後報告という形にした。


 ユダはイエスに有罪が下ると自殺した。受け取った金を返そうとまでした。金で師を売るような人間がそのような行動をとるだろうか。ユダはイエスの死を知りたくなくて、師より先に命を絶ったのだ。歴史に汚名を残してまで、イエスの指示に従ったユダは、最高の使徒だった。


       

 イエスは十二使徒と一緒に最後の晩餐を迎えた。予定が変わり、替え玉ではなく自分が処刑されることになってしまったので、ゲッセマネでは、「悲しみを催しまた悩みはじめられた(マタイ26:37)」


 イエスがゲッセマネの園で弟子達と話していると、ユダに案内された群衆がやってきた。イエスは弟子に抵抗しないよう告げた。奇跡を起こさない無名時代のムハンマドの弟子たちですら拷問に耐えたのに、奇跡を目撃した弟子達は、イエスを見捨て逃げた。


「ときに、ある若者が身に亜麻布をまとって、イエスのあとについて行ったが、人々が彼をつかまえようとしたので、その亜麻布を捨てて、裸で逃げて行った(マコ14:51-52)」


 イエスが大祭司の家に連行されていくとき、ひとりの若者がイエスについていった。その様子を不審に思った群衆が、捕まえようと服をつかんだが、脱ぎ捨てて逃げた。

 

 若者はイエスの替え玉だった可能性が高い。逮捕は深夜に起きた。ペテロ達も何度も眠ってしまったように、誰もが眠いはずだ。イエスの引き渡しはすり替えを狙って、わざと遅い時刻を選んだのだ。イエスが逮捕され、敵方の気の緩んだ隙に入れ替える。それで若者はイエスのすぐそばにいた。怪しまれてつかまりそうになり、それでは復活劇ができなくなるので、服を脱ぎ捨てて逃げた。


 最初から替え玉を引き渡す場合は、どのように計画されていたのだろう。

 替え玉を引き渡しても、神殿でイエスと会った祭司長や長老が大祭司の家に集まっている。よほど似ていないとイエス本人でないとばれてしまう。そこでモーセのときのように、替え玉にイエスの顔を投影する。


 当初の計画では、大祭司の家にユダが顔を覆った替え玉を連れて行き、屋内で覆いをはずすとイエスの顔が現れる手筈だったと推測できる。


 敵方からすればそっくりの身代わりが渡されることを警戒したはずである。本人である確率を高めるため、祭司長たちは、イエスが他の弟子たちと一緒にいるところを、自分たちの手で捕まえると主張し、ユダは引き下がるしかなくなった。


 屋内での取り調べなら問題ないが、イエスが大きく動く場合は、替え玉と投影するイエスの顔がずれてしまうので、これはまずい。そこで天使たちは、逮捕時は本人で、連行中にすり替える作戦に切り替えたのだろう。かなり危険な賭なので、イエスはゲッセマネでおびえたのだ。


 イエスは死刑が決まった。ピラト官邸から、ゴルゴダの丘まで歩いた。朝の九時頃、手首に釘がうちつけられ、二人の強盗と並んで、十字架にかけられた。通りがかりの人や強盗は、神の子なら自分を助けてみろと罵った。その言葉に天使たちはプライドを傷つけられ、昼の十二時に辺りを暗くした。多くの人間はおびえて帰ったが、その程度では兵士は帰らない。


 三時にイエスは、エリ、エリ、レマ、サバクタニと大声を上げた。神よ、神よ、どうして私を見捨てたのかという意味だ。約束が違うと言いたかったのだろう。それからもう一度叫び、息をひきとった。


 イエスの遺体は金持ちの信者に引き取られ、亜麻布にくるまれ、岩に穴を掘り、その中に納めた。入り口は大きな岩でふさいだ。復活劇を演じるため、信者が遺体を取り返しに来ることを危惧した祭司長らは、墓の前に番兵を配置し、墓を封印した。


 週の初めの日、信者の女性たちはイエスの墓を見に行った。マタイでは天使が岩をどけるのを目撃したとあり、マルコ、ルカ、ヨハネでは行くと、岩がどけられていたとあるので、実際は後者だろう。墓の中には輝く衣を着た人(ルカ、ヨハネでは二人、マタイとマルコでは一人)がいた。マタイでは番兵たちが、恐怖で死人のようになっていたとある。


 信者が奪い取りにくることを想定して番兵を配置したはずである。そう簡単に素人に負けるようなローマ兵ではない。では、どうして中に遺体がないのか。


「イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった(ヨハネ20:7)」


 どの程度離れていたかで意見が二つに分かれる。本来の頭の置かれていた位置にあり、体を包んでいた布とわずかであるが物理的に離れていたので、そう表現したとする説。これは復活したイエスが幽霊のように布を通り抜けたと想定してのことだ。しかし、それでは岩をどける必要はない。

 わざわざ離れていたと書き残すくらいだから、それなりの間隔があったとする説。これは、復活したイエスが自分で体の布を外し、頭の布は放り投げたと解釈する。


 筆者は後者の相当離れていたというほうをとるが、イエスの復活はなかったと考えるので、解釈は異なる。番兵が天使に恫喝され、あるいは墓を提供した金持ちの信者に買収され、岩をどかし、遺体を運びだし、近くに埋めた。手足を持って遺体を運ぶので、体を覆っていた布ははずした。

 しかし、頭の布は外さずに運び出したので、天使から注意され、あるいは自分たちで気づいて、手で丸めて持って墓の中に持って行き、思慮が足りず、遺体を包んでいた布とかなり離れた場所に置いてしまった。


 復活したイエスは近くにいた。女性は最初のうち園の管理人と勘違いしたが、話をしてイエスだと気づいた。他の弟子達もイエスに会ったが、目が遮られていて最初はイエスと気づかなかった。違った姿とも表現されている。どうみても本人ではないということだ。


 天使たちは身替わりに処刑されるはずだった青年に、イエスのふりをさせ、女性の前に登場させた。あるいは、青年では適正がないと判断し、全く無関係な人物をイエスに成りすませた可能性もある。


 最初は相手を墓守と思った彼女は、話をしてイエスとわかった。この作戦はいけると天使は判断し、弟子達の前にも青年を遣わした。青年は自分が幽霊でないことを証明するため、魚を食べ、身体に触れさせた。

 しかし、青年では役不足の場合もある。それで天使みずからイエス、あるいは偽イエスの青年の姿をとることもあった。


 弟子達が鍵のかかった家にいると、イエスが入ってきて手と脇腹の傷を見せた。生身の人間では鍵のかかった家には入れない。イエスに化けた天使が壁をすり抜けて弟子たちの前に立ち、傷のある手と腹を見せた。そのときトマスはいなかった。


「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない(ヨハネ20・25)」

 とトマスは言った。

 イエスから秘密を明かされたトマスは協力者になっていた。次に天使が化けたイエスが鍵のかかった家に現れたとき、トマスは指をイエスの脇腹に当て、感触があるようなふりをした。イエスはトマス以外の弟子に身体を触らせないように、

「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである(ヨハネ20:29)」と言った。

 味方の一人にあらかじめ敵の振りをさせ、敵から寝返って味方になると、味方全体の志気が一気にあがる。手の込んだ猿芝居である。


 替え玉と天使のコンビネーションプレイで弟子を騙したこともある。二人の弟子が歩いていると、イエスが近づいてきた。

「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった(ルカ24:16)」

 二人の弟子は、相手がイエスだとは思わず、イエスが墓から消えたことについてそのイエスらしき人物と話した。普通に会話をしたことから、二人の弟子には相手の姿が見え、声も聞こえていたはずだ。それなのに、イエスと認識しなかったのは、その人物がイエスとは異なる容姿と声の持ち主だったからだ。


 日が傾いていたので、二人の弟子はイエスを家に泊まるように引きとめた。食事をしているとき、イエスがパンを引き裂くと、

「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった(ルカ24:31)」

 パンを引き裂いたのは生身の人間である替え玉の青年だ。すぐそばに姿を消した天使がいて、その青年に本物のイエスの顔や姿を投影し、その隙に青年はその場から立ち去った。


 そのまま天使と替え玉の青年で、イエスの芝居を続ければいいが、それは演じる天使にとって負担が大きいうえに、替え玉ではイエスの代役を続けるのは無理だ。長期間弟子と一緒にいればおかしいと気づかれる。だからイエスは昇天させられた。昇天のときでさえ、弟子の中に「疑う者もいた(マタイ28:17)」そうだ。


 イエスの顔を知る祭司長や群衆からも偽物と指摘される。計画では替え玉が処刑され、復活したイエスが、そのまま宣教活動を続けていく予定だった。それが不可能になったので、替え玉を本物のイエスと信じ込まされた少人数の弟子の前で昇天するのだ。


 復活して四十日が経った。飾り気ゼロの事務的昇天だ。天使は替え玉イエスに化け、ベタニアのオリベト山に使徒を集め、地の果てまで宣教することを命じた。それから天使は空中に上がっていき、雲の合間にかくれると、姿を消し、地上に降りた。姿を天使の姿にもどすと、そこに待機していたもう一人の天使とともに、使徒たちの前に姿を現した。


「イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』(使徒1:10-11)」


 二人の天使は、後日、ガブリエルには次のように報告した。ユダヤの祭司長たちはイエスの顔を知る者を逮捕の時に送り込むと告げました。偽物ではばれてしまうので、急遽、作戦を変更し、本人が逮捕され、途中で逃がし、自分がイエスの姿をとり十字架にかかりました。イエスは怖くなったのか、そのままいなくなりました。


 昇天後、役目の終わった替え玉の青年はどうなったのだろう。口封じのために消された。あるいは、それを察知してマグダラのマリアと駆け落ちした可能性もある。

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