第4話 神の暴挙エクソダス (後)
新約聖書ユダの手紙によると、モーセの遺体の処分を巡って、大天使ミカエルと悪魔が論争をする。
「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、『主がおまえを戒めて下さるように』と言っただけであった(ユダの手紙1:9)」
これは、「モーセの昇天」と呼ばれる、今は断片しか残っていない聖典から引用したと言われる。聖書正典では、モーセの遺体がどうなったのかわかっていない。
悪魔とは誰か?
悪魔と表現されているが、悪魔にモーセの遺体の扱いを決める権利はなく、後に天使長となるミカエルに敵対した相手だから、悪魔ということにされたのだろう。モアブで亡くなったモーセの遺体について話し合ったことから、出エジプトに同行していたはずだ。出エジプトのリーダーであるモーセの埋葬を決めるのは、やはり天使集団の上層部だろう。
当時のミカエルと言い争える立場で、ミカエルも罵ることを遠慮した悪魔。ミカエルが負け惜しみのような言葉を吐いているのは、悪魔の主張が通ったからだろう。ミカエルの反応からすると、筋の通らぬ話を押しつけられ、それでミカエルが引き下がったようだ。相手はミカエルより立場が上の存在と思われる。
テラがカナン手前で足止めするほどモーセを嫌っていたのなら、預言者にふさわしい丁重な埋葬を拒み、墓すら作らせなかったことだろう。正義感の強いミカエルが、そのことでテラに反発したとしても不思議はない。モーセが死ぬ前にカナンの地を眺めることができたのも、主に嫌われたモーセに対するせめてもの情けとして、ミカエル達がテラに懇願したからではないだろうか。
「黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。あなたを見る者はつくづくあなたを見、あなたに目をとめて言う、『この人は地を震わせ、国々を動かし、世界を荒野のようにし、その都市をこわし、捕えた者をその家に解き帰さなかった者であるのか』(イザヤ14:12-17)」
これはバビロンの王を指すとされるが、アウグスティヌスは預言者イザヤが悪魔のことをバビロンの王にたとえたとする。この表現からすると、悪魔になる前は相当地位が高かったようだ。キリスト教の伝統では、悪魔ルシフェルは堕天使の長とされる。
当時の天使集団で、初代天使長テラと台頭するミカエルの間で権力闘争が起きていたのではないだろうか。モーセの遺体の件はきっかけにすぎず、それ以前から両者の仲は悪化していたのかもしれない。
ヤコブが一族を連れてエジプトに来たことから、ミカエルはエジプト生まれのイスラエル人と想定できる。エジプトで同胞が虐げられていることには心を痛めたであろうが、カナンの地に思い入れがない彼は、カナン行きという面倒なことを押しつける天使長に反感を抱いた。結果的に成功したものの、出エジプトは相当に危険な賭だった。
もし、迫り来る海がエジプト軍に追いつき、エジプト軍がこの海水はおかしいと気づいたらどうなっただろう。大人数なので水と食糧の確保も大変だ。エクソダスは、イスラエル全滅につながりかねない無謀な計画だった。そんな危ない橋を渡らなくとも、エジプトでのイスラエル人の安全をファラオに保障させ、カナンに帰りたい者だけ帰らせるようにすればいい。
イスラム教の開祖ムハンマドは、多神教徒から迫害を受け、メッカからメディナに移住したとき、信者たちを秘密裏に少人数単位で移住させた。こちらのほうが安全で現実的だと思える。脱出の際も、主は、モーセに指示し、エジプト人から物を奪い、ファラオの怒りを買うようなことをさせた。さらに、せっかく順調にカナンに向かっていたのに、わざざわ引き返し、エジプト軍が後を追うようにし向けた。
当時のイスラエル人は、テラにとって自分の子孫とはいえ、死んでも仕方がない赤の他人も同然の存在になっていた。もしヤコブやイサクが生きていれば、出エジプトは安全第一の家族単位のものになったに違いない。自分がカナンに帰りたいばかりに、同胞を全滅しかねない無理難題を押しつけた天使長には、ミカエルでなくても頭に来たことだろう。暴走するヤハウェからイスラエルを守ったミカエルは、イスラエルの守護神といえる。
同胞を危険な目に遭わせただけではない。エジプト軍から逃れた後のカナン到着も異常に遅く、敵対する部族は家畜に至るまで皆殺しにした。ヤハウェに逆らう者は、家畜一匹残さず殺し尽くす。ヘーレム(聖絶)と呼ばれる虐殺だ。いくらなんでもやりすぎだろうと、他の天使たちは心の底で感じていたのではないだろうか。身勝手で横暴な主にミカエルたちは反感を抱き、両者は衝突したのだろう。
「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された(黙示録12:7-9)」
異端の書セドラクの黙示録五章にも、「主よ。あなたは天使達にアダムに近づくように命じられたが、天使の第一位の者は従わなかった。そしてあなたはその天使を追放された」とある。
ミルトンの失楽園ではルシフェルとミカエルの壮絶な一騎討ちが書かれているが、実際は口論の末、天使集団が二つに分裂し、片方が去ったと思われる。天界大戦争では天使の三分の一がルシフェル側についたとされる。
トビト書で大天使ラファエルは、自分のことを主の御前に立つ七人の天使のひとりと語っている。七人の天使からルシフェル本人を除いた六人のうち、三分の一の二人がルシフェル側につけば、ミカエル側は四人。ミカエルをリーダーとする四人の天使は、主の正体を知らぬまま、その後も活動を続けた。
ただし、イスラエルがカナンに到着して安定するまで、主の行動パターンに大きな変化が起きていないことから、当初はミカエルらは反抗するだけで、本格的な衝突はかなり後の時代、おそらくソロモン王の登場前後に起こったと思われる。アブラハムの父テラは、千年間神であったが、その後悪魔となった。彼はまた、天使長であり、堕天使で、黙示録の竜でもある。
ユダヤ神秘思想カバラや旧約聖書偽典「第三エノク書」には、ミカエルやガブリエルの上に立つメタトロンという天使の王が登場する。神の代理人で、小ヤハウェ、即ち人間の姿をとったヤハウェとも言われ、ヤハウェと似たヤホエルという別名もある。ヤコブをイスラエルと改名させたり、天使の名前の語尾をエルで揃えたり、テラは神という意味のエルの響きが好きだったようだ。
エノク書によると、メタトロンはエノクの昇天後の姿だという。エノクの名は創世記に登場するが、第四章ではアダムの孫となっており、第五章ではアダムから数えて七代目でノアの曾祖父にあたる。しかも、死を経験せず昇天したらしい。
テラは、他の天使の前では、自分のことをアブラハムの父だとは明かさず、自分に権威を持たせるために、エノクと名乗ったのだろう。それが原因で聖書に混乱をきたすことになった。人の前では神を名乗り、天使の前ではエノクを名乗る。
メタトロンはミトロンとも呼び、ミトラ神のことともいう。メシア、マイトレーヤ、弥勒ともつながり、救世主キリストともいえる。大小ヤハウェであり、神であり、主であり、アラーであり、悪魔であり、天使長であり、堕天使であり、竜であり、蛇であり、人間であり、イサクの祖父であり、曾祖父であり、高祖父であり、アブラハムの宗教の開祖であり、エノクであり、ノアの先祖であり、ノアの子孫であり、テラであり、私はあるであり、イスラム教ではアーザルという。
アブラハムの先祖の名前が、メソポタミヤの都市名からつけられたという説もある。マリ王国の粘土板に場所の名前として記されているらしい。それによると、地名と人名の両方で登場するハランや、テラの父と息子双方の名前であるナホルはもちろん、ペレグ、セルグ、そしてテラ本人すら都市の名前で、アブラハムの先祖の本名ではないことになる。テラとは都市名で、アーザルが本名なのかもしれない。
「カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた(創4:17)」 と創世記にあるが、事実はその逆で、エノクという町の名に従って架空人物を作り出したのだろう。
主は、アブラハムと一緒にハランに向かったアブラハムの父の名を知らないということはない。それなのに、主は預言者にアブラハムの父の名を語らなかった。その理由は、自分は神という立場にあるので、ひとりの人間にすぎない本当の自分のことはあまり語りたくなく、もちろん名前も出したくないという心境になったからだ。
一般的に、自分を第三者的に表現することは、どことなく気恥ずかしいものだ。父の名を出さないのに、兄弟の名前を出すのも不自然だから、ハランとナホルも単にアブラハムの兄弟とした。
神の正体を知っているテラはともかく、彼以外の天使たちは、神についてどう考えていたのだろう。生前、人間だった頃から先祖に啓示を授けた神について聞いていて、死後、天使の仲間に加わり、神の御心に沿う活動だと教えられることになる。天使長テラは、自分は神だとアブラハムに嘘を吐いたように、天使たちにも、自分は神から直接啓示を受けたと作り話をする。
ヤコブの子孫は神に選ばれた民族であり、必ず繁栄させること。神を畏れ敬い、神の名を使ってもよいから、イスラエルの民を導けと告げられた。ただし、天使の任命権は神にしかなく、テラの他は勝手に天使を増やすことができなかった。天使の集団自体がテラを教祖とする宗教団体だった。あまりの横暴ぶりに、教祖は追放された。だが、その後も神に対する信仰は残り、神の正体を知る者がいなくなっても活動は続いた。なんと皮肉な歴史の一幕なのだろう。
イスラムでは、アブラハムの父アーザルは、アブラハムを連れてウルを出たのではなく、アラーを崇拝するアブラハムを故郷ウルから追放したとされ、悔悟章ではアラーの敵とまで表現されている。アーザルである天使長偽エノクは、他の天使たちから、前章で記したアーザルと主の類似点を指摘されて、主の正体がばれるのをおそれ、自分を悪人に仕立ててまで、嘘でごまかそうとしたのかもしれない。
主は、カナン行きのリーダーに指名したモーセに名前を聞かれ、前もって考えていなかったので、「私はある(エヘイェ)」という頓珍漢な名前を名乗ってしまい、すぐに先祖の神と名乗り直した。それでもそのことが気になり、次にモーセに会ったときにヤハウェと修正した。
自分で考えたアブラムという名前が気にいらず、アブラハムに改名させるくらいネーミングにこだわる主は、ヤハウェという曰く付きの名前にどうしてもなじめなかった。それは他人が想像するよりはるかに深刻な悩みだった。
幻想的な作風で知られる小説家泉鏡花の最初のペンネームは畠芋之助(はたけいものすけ)だったが、そのペンネームを使い続けることはなかった。ペンネームですら畠芋之助は辛い。これから未来永劫ヤハウェと呼ばれ続けることは、一生、畠芋之助でいることよりもはるかに苦しいのだ。
どうすればヤハウェと呼ばれずにすむのか。主は考えに考え抜いた。そこで、自分以外に神がいなければ、単純に神(普通名詞エロイム)と呼ばれることになるという発想を思いついた。神に名前があるのも、神が大勢いるからで、一人しか存在しなければ、他の神と区別する必要がなく、神に名前などいらなくなる。「私はある」やヤハウェと名乗ったのも、自分が唯一の神だという自覚がなく、神には名前が必要だと思っていたからだ。
主は、エジプト軍をアカバ湾に突き落として危機が去った後、カナンに向かわず、そのまま南西にあるシナイ山に向かい、そこでヤハウェと呼ぶことを禁ずることを民に知らしめることにした。それだけでは体裁がつかないので、民族の決まり事全てを発表する一大イベント十戒が開催された。
十戒のうち、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない(出20:3)」と「あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない(出20:7)」は、表裏一体の関係にある。十戒における優先順位も、神が唯一であることが最初、二番目に一番目との関連で偶像崇拝禁止を持ってきて、三番目(カトリックでは二番目)がその名を唱えてはいけないと続くので、十戒というイベント自体がこの二つがメインの目的だったことがわかる。
こうしてヤコブ(イスラエル)の神は、唯一神になった。今日、大文字で始まるGodは一般的にヤハウェを指す。これまでヤハウェと書いてきたが、神の御名YHWH(神聖四字、テトラグラマトン)の母音はわかっておらず、YAHWEHと推測されているだけだ。唯一神作戦は目論見通り成功した。その原因を作ったのは、他ならぬモーセだった。本心では自分のひ孫エサウを憎まなかった主は、モーセを心底憎み、嫌がらせを行った。その見苦しい態度が、きまじめなミカエルを怒らせ、主は悪魔として追放された。
何の変哲もない杖を上げ下げしただけのモーセが、アブラハムの宗教を、民族の枠を越えた世界宗教一神教に成長させた。モーセが主を悩ませていなければ、シナイ山での契約はなく、キリスト教やイスラム教はおろか、ユダヤ教すら生まれず、ヤコブの神は名すら残せず、モロクや月神ナンナと混同されたことだろう。その意味ではモーセこそが一神教の開祖だった。
心理学者フロイトも、モーセを一神教の開祖としていた。エジプトで起こった唯一の神アテンへの信仰を引き継ぎ、ヤハウェを神とする一神教を作り上げたそうだ。「モーセと一神教」は、ナチスに迫害されていた晩年のフロイトの、いわば遺言のような作品で、モーセをユダヤ人ではなく、エジプト人とした見方は画期的だ。フロイトの知性をもってしても、モーセがインテリはおろか、文盲だと見抜けなかったのは、どこかに信仰バイアスがあったのだろう。
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