第3話 神の暴挙エクソダス (前)
ヨセフがエジプトで出世したおかげで、ヤコブ一族はエジプトで暮らすことになった。やがてヤコブも子供達も死に、その子孫イスラエル人はおびただしく増え続けた。ヨセフを気にいっていたファラオもとうの昔になくなり、エジプト人はイスラエル人を警戒するようになり、イスラエル人は強制労働を課された。
一方、テラは増え続ける子孫に対応しきれず、御使いの仲間を増やしていった。ヤコブの子孫、つまりイスラエル人の中から、めぼしい人材を見つけ、神への信仰とイスラエル民族繁栄の理想を語り、スカウトするのだ。
生前のうちから、死んだら特定の場所に来るように告げ、死後、正式に加入させる。もちろん、相手に気を遣わせないように、自分が神であることは隠し、アブラハムの父とも告げなかった。霊的な存在である彼らは、天使を名乗った。天使教団の誕生である。
最初に声をかけた相手はミカエルだった。それで神が最初に作った天使と呼ばれる。正義感が強く、勇敢で統率力に富み、イスラエルの守護神と呼ばれるまでになる。歴代誌にはミカエルという名前が何度も出てくるので、当時、普通にあった名前と推測できる。生前と名前が同じなのはミカエルだけで、彼の後に加わった天使たちは、ミカエルにならい、名前の最後に神を意味するエルを付ける決まりになった。
ガブリエルは女性と勘違いされているが、生前は男性だった。天使に選ばれた理由は、賢かったからだろう。聖書の正典に名前が載っている天使は、ミカエルとガブリエルだけだ。実際のところ天使の人数は数名にすぎず、聖書偽典のエノク書などに登場する数十名の大半は、人間の空想の産物である。
アブラハムの時代から七百年、天使長のテラは、子や孫のために初めた御使いの仕事に興味をなくし、各メンバーは好き勝手にエジプトの街をパトロールしていた。ヨブ記に記されているサタンのように、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました(ヨブ1:7)」。
エジプトのイスラエル人に対する憎悪は高まり、ファラオはイスラエル人の男の赤ん坊を殺すように命じた。モーセはそんななか生まれた。本来殺されるはずが、エジプトの王女にひろわれて助かったという伝説は、もちろん創作だろう。大人になったモーセは、エジプト人がイスラエル人に暴行している現場を目撃した。モーセはそのエジプト人を殺した。モーセは罰を恐れ、ミディアン地方に逃げた。モーセは地元の娘と結婚し、子供をもうけた。
モーセが去ってからもエジプトのイスラエル人への虐待は激しさを増し、天使集団は対策を講じる必要が生じた。
モーセがミディアンにあるホレブ山(シナイ半島にあるシナイ山とされるが、ミディアンはアラビア半島北西部でアカバ湾の東にある。聖書のよくわからない点のひとつ)で羊を追っているとき、柴の間の炎の中に御使いが現れた。現れたのは御使いのはずなのに、モーセと会話をしたのは神だった。
神は、柴の間から先祖の神だと名乗った。創造主とも唯一神とも土着の神とも言わずに、先祖の神と告げたのは、神はモーセの先祖だからだ。神はモーセに命じた。エジプトから同胞を救い出し、カナンの地へ導け。まずはファラオのところへ交渉に行け。モーセが名を聞くと、神は「私はある」と名乗った。モーセは自分ごときでは無理だと断った。すると「私はある」はモーセの持っている杖を蛇に変えた。それでもモーセは口べたを理由に断った。仕方なく神は、モーセの兄アロンを同行させるといって説得した。それでモーセはエジプトに向かった。
以上から、モーセがエジプト人を殺すのを巡回中の天使が目撃し、そのままシナイ半島まで付いていったことがわかる。天使集団はモーセを預言者に選び、シナイ半島でモーセに啓示を与えた。そのとき創世記時代の声だけの啓示とは異なり、炎や蛇の幻を描く能力を少なくとも天使のひとりは身につけていた。
安土桃山時代の日本に、果心居士と呼ばれる幻術使いがいた。信長、秀吉、家康の前で幻術を見せたと伝えられている。葉を魚に変え、亡くなった女性を出現させ、能がよく見えるように顔を長く伸ばし、姿を消すこともできたという。今では、マジックの一種と考えられているが、ホログラムのように光を操ったのだろう。
出エジプト記に、エジプトの魔術師が、杖を蛇に変える記述があることから、当時かの地ではありもしない幻を描き出す能力を身につけている人間がいたことがわかる。その技を天使が学んだ場合、人の一生より長い時間修行を積めるので、相当高いレベルの技術を身につけることができるだろう。
ただでさえ、幽霊はありもしない自分の姿を無意識のうちに描いている。意識的に訓練すれば、蛇や蛙を描くことくらいわけはない。天使たちがこの魔術を修得したおかげで、出エジプトが可能となった。
「あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ(民数記12:6)」
ノックスの探偵小説十戒第二条。探偵小説には超自然現象を持ち込むべきではないそうだが、出エジプト記に堂々と魔術のことが記されているのでアンフェアではない。
あらかじめ神だと名乗っておいたのに、モーセは神に名前を尋ねた。神は、ehyeh , ăšer , ehyeh(英訳I am that I am. I am who I am.和訳「わたしは、有って有る者(出3:14)」)と答えた。
I am ……, uhhhh , I am ……. 私は、(名前は言えない)……である、私は……私だ、くらいにとらえればいい。名前を考えようとしたが、その場では咄嗟に思いつかず、おかしな答えになってしまった。それで、その後すぐに、
「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である(出3:15)」
と、失敗を訂正するかのようにアブラハム、イサク、ヤコブの神こそが永遠に自分の名だと強調した。
モーセがエジプトにいくと、神は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主(ヤハウェ)という名では、自分を彼らに知らせなかった(出6:3)」と、前回、私はあるとおかしな名前を名乗ってしまったことを恥じて、「ヤハウェ(その名をみだりに唱えてはいけないので主、アドナイ、ロードと普通名詞化した)」と改名したことを告げた。
ヤハウェという名前自体が、私はある(エヘイェ)を三人称にしたイヒイェが転じたものだという説もある。私はあるなどという恥ずかしい名を名乗ってしまい、それを名前らしく変化させてヤハウェにしたのだろう。わかりやすく例えると、まず英語の「am」と名乗り、それを「is」に変え、「泉」と名乗り直したようなものだ。名前らしくなったものの、屈辱的な由来によるものなので、みだりに唱えてはいけないのだ。
それからモーセはファラオと交渉し、ファラオは言うことを聞かず、エジプトに様々な災いが起きる。もちろん誇張や創作も混ざっているだろうが、炎や蛇などの幻を描くことができる能力を見につけた天使集団なら、蛙やイナゴを出現させることも、ナイル川を血の色にすることもできるはずだ。
稲妻が轟いたり、エジプト全土が三日間闇に覆われたのも、天使が音と光を操った結果である。現代人の感覚からすると、ありえない奇跡に思えるが、「エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった(出7:22)」とあるので、人間にできることを天使が行ったにすぎない。
相次ぐ災いにファラオは屈し、イスラエル人の解放を認めた。主は、イスラエル人にエジプト人から装飾品や衣服を奪い取らせた。
「こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った(出12:36)」
イスラエル人はエジプトを出て、カナンめざし荒野を進んだ。しかし、主はエジプト軍をおびき寄せるために、わざと引き返し、海の近くにとどまるよう指示した。
「イスラエルの人々に告げ、引き返して、ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、バアルゼポンの前に宿営させなさい。あなたがたはそれにむかって、海のかたわらに宿営しなければならない(出14:2)」
天使が伝令を務め、エジプトはイスラエル人が道に迷っていると判断し、追っ手を差し向けた。エジプト軍が追いついたことを知ったイスラエルの民は激怒し、モーセに文句を言った。モーセは主の言葉に従い、民を進ませた。海を目の前にするとモーセは手をさしのべた。それで海は左右に割れ、イスラエル人は乾いた海の底を進み、エジプト軍もそこを追った。
イスラエルの最後尾には天使がいて、雲の柱の上からエジプト軍をかき乱し、追いつかれないようにした。モーセが主の指示に従い、手をさしのべると、左右に割れた海は元に戻り、エジプト軍だけを飲み込み、イスラエルはそのまま進んだ。
「夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に“投げ込まれた”(出14:27)」
天使はイスラエルを海に誘導した。実際は海から少し離れた陸地で、目の前に海の幻を描き出し、左右に割ってみせた。イスラエルは左右に海の描き出された荒野を進んだ。海の底が陸地と同じ高さであることをごまかすため、水が左右に引くだけではなく、海水を頭上高く持ち上げ、「水は彼らの右と左に、かきとなった(出14:22)」。
モーセが杖を上げると、割れた海がエジプト軍を飲み込もうとし、エジプト軍は迫りくる海の反対方向に逃げた。反対方向には本物の海があり、しかし、それも荒野に見せかけられ、エジプト軍は海に投げ込まれた。当時は方位磁針もまともな地図もなく、自分たちがどの方向に進んでいるのかわからなかっただろう。巨大なビジョンを投影できれば可能だ。
「信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ(ヘブライ人への手紙11:29)」
幻によって、人々は紅海をとおるようにかわいた土地をとおり、同じことを企てたエジプト人は、紅海に自ら飛び込んで、おぼれ死んだ。
引き返して海辺に向かったということは、シナイ半島中央の荒野を抜け、カナン付近まで進んでいたが、主の思いつきで、エジプト軍をおびき寄せるためにアカバ湾付近まで引き返したのだろう。主の目論見通り、エジプト軍はイスラエルがそこで迷っていると判断した。
ファラオはエジプト軍を率い、イスラエルを追った。エジプト軍が迫ると、天使たちは陸地に海の幻を描き、そこを渡っているように両者を錯覚させた。エジプト軍にだけ割れたはずの海は迫り、反対方向に逃げると、そこには本物の海が待っていた。
敵に追われる心配のなくなったイスラエルは、そのまままっすぐ半島南部のシナイ山に向かい、律法が授けられた。偽アカバ湾を渡り、シナイ山で十戒を授かったので、出エジプト記ではシナイ山の位置を、アラビア半島北西部のミディアンと誤って記述してしまったのだ。
ある調査では、アカバ湾の海底に、チャリオットの車輪とおぼしきものなど、エジプト軍の遺物が見つかっている。シナイ山は、シナイ半島南部にある標高二、二八五メートルの山ジェベル・ムーサ、あるいはその百六十キロ北にあるラス・サラサファだとされる。シナイ山がどこであろうと、エジプト軍が沈んだ海はアカバ湾だった。
主の思いつきで引き返したと言うことは、シナイ山での契約「十戒」は、当初の予定に入っていなかったことになる。エジプト軍を倒した後、カナンの方向に向かわず、そのままシナイ山に物見遊山にでかけた。シナイ山の近くにはモーセの舅エテロが住んでいる。
モーセを訪れたエテロが、
「あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい(18:20)」
と助言したことに触発され、イスラエルの民の決まり事を山で公表する流れになったのだろう。イスラエルの民が山に着いてから二、三日待たされたのは、契約内容をまとめるための時間を稼ぐためだろう。モーセが授かった律法は、主の気まぐれによる急ごしらえの産物だった。
イスラエルはシナイ山にたどり着き、モーセは十戒を授かる。主は民が山に登ることを禁じ、モーセに山に登るよう告げた。この十戒で、神が唯一の神であることと、偶像崇拝が禁じられるが、モーセが山の上で啓示を授かっている間、山の下にいたイスラエルの民は、偶像を作っていた。山から戻ったモーセはそのことを知って激怒する。
十戒自体は短いが、実はこのとき十戒だけではなく、契約の書と呼ばれる多くの細かい律法も授けられた。出エジプト記ではこの様子がわかりにくく書かれている。聖書を読む限りでは、モーセが山に上がり、下山して主の言葉を民に告げたのが一度で済んだようには思えない。
二日間の準備の後、モーセは一人で山に上がり、そこで十戒と契約の書の内容を授かる。民のもとに降りて、「主のすべての言葉と、すべてのおきて(出24:4)」を民に語る。十戒の前文に、「神はこのすべての言葉を語って言われた(出20:1)」と記されているので、十戒が全ての言葉で、契約の書が全ての掟のようにとれる。
それからモーセは、契約の書を書き記し、山のふもとに祭壇を築く。そのあとで契約の書を手に取り民に語った。契約の書を書き記してから、その内容を語ったということは、契約の書を記す前に語った内容は、契約の書の内容ではなく、十戒だけということになる。つまり、十戒と契約の書を語ったのは別のタイミングということだ。聖書における文章の量では、十戒は十七節、契約の書は百五節。二回に分ける必要はあるのだろうか。
次に、アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。それはすぐ用件が済んだようで、その後また、二枚の石板を持ってヨシュアとともに山に行く。四十日後、山から降りてきたモーセは、民の偶像崇拝を知って激怒し、主自ら言葉を書き記された石板を割ってしまう。
モーセは、また主のもとに行き、自分が板を割ったことはさておいて、民の罪に対し許しを願った。モーセは宿営と離れた場所にテント(会見の幕屋)を設け、そこを主との会見場とした。そのテントにはモーセの従者ヌンの息子ヨシュアが常駐し、そこに近づくことは禁じられた。
主は再びモーセに、石板を持って山に登り、今度は自分で十戒をそこに記すことを命じた。モーセは二枚の石板を持って山に登る。四十日後、石板を持って民の前に立ったモーセは、顔から光を放っていた。神の栄光によるものとされる。
主から授かった石板を預言者が壊すのは、民が子牛の像を崇拝するより遥かに罪深いはずだ。それなのに、主はそのことをとがめない。これは、あらかじめ打ち合わせ済みの狂言だったからだ。
モーセは、エジプト王家で育ち、モーセ五書の作者とされるくらいだから、博識と思われがちだが、出生は創作で、職業は羊飼いだ。「モーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし(出24:4)」とあるが、文盲が当たり前の時代だ。モーセは読み書きができたのだろうか。モーセが文盲の場合、契約の書を読むことはできない。
最初に山に上がったモーセは、長い契約内容を暗記できず、そのうちの重要ポイント十戒だけを覚えて民のもとに帰った。モーセ本人は十戒だけを語り、後にモーセに化けた天使が契約の書(手にとった契約の書自体も幻)を語った。本物の契約の書を書き記したのは、文字を知る他の者だ。アロンは言葉に秀でているということだから、当然文字を知っているはずだ。
アロンは、本当にモーセの兄だったのだろうか。文盲のモーセでは預言者として不安なので、補佐役として、天使たちが以前から知識人として信頼していたアロンが選ばれたのではないだろうか。モーセの兄という設定にするなら、せめてアロンもナイル川に捨てられたというくだりが欲しかった。
紙に記された契約の書だけでは保存性に劣るので、モーセは、石版を持って山に上がる。ヨシュアと一緒だ。二人とも文字を知らなかったが、天使が示す文字の幻影を見て、あるいはアロンの記した契約の書を開いて、がんばって石板に主の言葉を刻んだ。素人のすることだ。かなり出来が悪かったはずだ。おそらく最初のうちは慣れないので文字が大きく、最後のほうは余白が足りなくなるので、大変小さくなっていたことだろう。
天使は出来上がりをみてあきれはて、もう一度最初から作り直させることにした。天使は民のもとへ行き、彼らの偶像崇拝を知った。モーセに山から下りて、偶像崇拝に対し怒り、その板を割るように指示した。後世、イスラエルに災いが起こる度に、主は偶像崇拝のせいにするが、それはこのとき始まった。もし偶像崇拝が行われていなければ、別の理由でモーセは激怒したはずだ。
季節についての記述はないが、小屋もない山の上では、身体的精神的に負担が大きいだけでなく、作業がはかどらない。それでモーセは会見の幕屋を作り、ヨシュアをそこに入れる。ヨシュアの役割は板に文字を刻むことだ。
「モーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった(出33:11)」
モーセは、新しく用意した石板を持って山に上がるふりをして、幕屋に入った。
「だれもあなたと共に登ってはならない。また、だれも山の中にいてはならない(出34:3)」 のは、モーセが幕屋に入るのを見られてはいけないからだ。
四十日に渡り、ヨシュアとモーセは板に文字を刻んだ。二度目はうまくいった。しかし、モーセは律法について民に語ることは無理だとごねる。そこで天使は、ヨシュアの顔をモーセに変え、民の前に立たせることにした。服は光っていたという記述はないので、本物の服だと思われる。ということは生身の人間ということになり、顔だけが天使の描く幻でモーセに見せかけられていた。
ヨシュアは文字の刻まれた二枚の石板を持って、山から下りてきたモーセのふりをする。契約の書の時のように、天使がモーセに化けなかったのは、物理的に石版を運ぶ必要性があるからだ。石板はプレゼンテーションにも使う。ヨシュアの仕事は石板を掲げるくらいしかなく、モーセの声は天使が出す。律法を作り出した天使自ら、律法を民に授けるので効率的だ。
モーセ本人が民の前に立ち、天使の朗読する律法に合わせて口を動かせばいいと思えるが、口の動きがおかしいことがすぐにばれる。モーセ本人の顔にモーセの顔のイメージを投影することは、さすがの天使にも難しい。モーセ本人もやる気がなく、非協力的だ。ヨシュアが選ばれたのも、モーセと背格好が似ていたからだろう。
顔が光っていたのは、照度が強かったからだ。夜ならいいが、日中に幻をはっきり描くのは、かなり強く照らすことになる。天使自身が化ける分にはさほど光らないようだが、天使が外部に映像を投影するとき、問題になるようだ。
「モーセは彼らと語り終えた時、顔おおいを顔に当てた(出34:33)」
「モーセは行って主と語るまで、また顔おおいを顔に当てた(出34:35)」
ヨシュアはモーセの役をつとめるとき、幕屋から民の前までの移動中も顔を隠していた。動く対象物に幻影を投影することは難易度が高かったのだろう。わかりやすく言うと、ヨシュアの顔とそこに投影されるモーセの顔がずれてしまうのだ。
ある人物の顔に別の人物の顔を投影する手法は、後々にも応用されるので覚えておいていただきたい。たとえば、本人の代わりに替え玉が処刑される場合など。
十戒とは、文盲かつ高齢のモーセが記憶できる限界だった。十個くらいなら覚えられると、天使は判断したのだ。十戒を覚えたくらいで、モーセはあまり役に立たなかった。彼がいなくても、アロンとヨシュアだけで事足りたようだ。
シナイ山での契約が終わると、モーセはイスラエルを率いてカナンに向かう。途中、食糧不足と水不足に悩まされる。天使達はマナ(甘露)と水源を見つけだし、民は命をつないだ。民がマナに食べ飽き、モーセに苦情が及ぶと、もともと預言者になりたくてなったわけではない彼は、指導者の仕事は荷が重いので、いっそのこと殺してくれと主に訴えるまでになる。そこで主は鶏肉を用意した。
「さて、主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した(民数記11:31)」
天使が声を出せるということは、空気を振動させる能力があることを意味し、風を吹かせることも可能なのだろう。クルアーン二十一章でも、アラーはソロモン王に風の起こし方を授けたそうだが、後世、ソロモン王は魔術師とされたので嘘ではなさそうだ。
残念ながらモーセはカナンに到着する前に亡くなった。主がヨルダン川を渡らせなかったからだ。聖書の数字はそのまま信用するわけにはいかないが、数ヶ月もあれば到着する距離を、四十年もかけて移動したのは、主のモーセに対する嫌がらせだったのだろう。
生前、カナンの地を見ることなく亡くなったテラは、以前から態度が悪く、肝心の十戒であまり役に立たなかったモーセに、自分と同じ悔しさを味会わせようとしたのかもしれない。だが、主はモーセが亡くなる前に、彼をネボ山に登らせ、カナンの地を眺めさせた。
「それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない(申命記32:52)」
主はモーセが亡くなると、後継者ヨシュアにヨルダン川を渡るように命じた。
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