第2話 誰が為の創世記 (後)

 答えは、アブラハムをカルデラのウルから導き出した張本人です。


 **はその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。創世記十一章三十一節の主語である**こそが、カナンを目指していた当人だ。


 アブラハムは**に付き従い、カナンに向かったにすぎない。だから、**が死んだ後は、そのままハランで暮らしていた。**はハランに留まるアブラハムにカナンに行くよう告げ、カナン到着後にも、「あなたをカルデヤのウルから導き出した主です(創15:7)」と自分のしたことを告げた。


**とは誰のことだ?


 答えは、アブラハムの父、テラである。


 天の父はアブラハムの父だった。


 生前のテラは、息子アブラハムをウルから導き出した。テラの意識の中では、ハランでの啓示はウルからの長旅の途中にすぎないため、「父の家を離れ」と表現してしまった。第三者の場合だったら、「ここハランを離れて」という表現をとるはずだ。

 啓示を下した場所はウルという後世の誤解は、主がテラだったことで解決できる。主から啓示が下った時点では、テラはすでに死んでいる。それは、主の正体が亡くなる前のテラではなく、亡くなった後のテラだからだ。宇宙の創造主が、人間を民族で差別したわけではなく、テラが自分の子孫に肩入れしただけのことだ。


 ここまで長たらしく書いてきたが、創世記十一章三十一節と、十五章七節の二つの文だけで、主の正体は導き出せる。この二つの文をわかりやすくしてみる。


1 テラは、息子アブラハムを連れて、カルデアのウルを出発し、カナンに向かった。

2 主は、アブラハムをカルデアのウルからカナンに導き出した。


 アブラハムがウルを出てカナンに向かったのは一回限りと推測できる。この一度の出来事に対し、1と2から二つの異なる主体がアブラハムに働きかけたことがわかる。双方の働きかけが偶然一致したと思われないので、1と2の主語は同一人物と判断できる。従って主はテラである。

 このロジックには大きな欠陥がある。2の導き出された対象が複数の場合だ。主が導いた対象はアブラハム一人とは限らない。ロトやサラは、アブラハムに付随する要素と判断し、ここでは考慮に入れずにおく。残る唯一の可能性、主が当主テラとアブラハムの両者をウルから導き出したというケースをうち消さなければ、主がテラだとは断定できない。


 アブラハムの移住で考えられるのは四パターン。


A 主はウルでテラに働きかけ、間接的にアブラハムを導き出した。 

B 主はウルでアブラハムを導き出し、テラはアブラハムに従った。 

C 主がウルでアブラハムを導き出すのと、テラが連れ出すことが偶然重なった。

D 主はテラで、ウルからアブラハムを連れだし、ハランで催促した。


 さきほどアブラハムへの啓示はハランで下ったことを説明した。BとCはウルでアブラハムに啓示が下ることになるので、否定される。さらにBの場合、テラがアブラハムを連れて出発したとは表現しそうにない。

 主がウルでテラに啓示などで指示し、アブラハムがテラに連れ出されたAの場合、聖書にその記述がないことが問題になる。「テラは“主に従い”、その子アブラムと……」のように、数個の単語を追加するだけで充分なはずなのに。


 主がモーセの後継者ヨシュアに語ったと思われる言葉。

「あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていたが、わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、川の向こうから連れ出して(ヨシュア記24:2-3)」


 テラについて言及しているのに、連れ出したのはあくまでアブラハムだと主は語っている。アブラハム親子を連れ出したとか、アブラハムとその父を連れ出したなどと表現していない。

 その後も主は長きに渡り、預言者達に語り続けていくが、アブラハムの召命に関連して、その父を導いたという記録はない。それにもし主がテラを導き出したとしたら、テラは主に従ったはずであり、ほかの神々に仕えていたなどと、批判的な評価をするはずがない。


「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた(イザヤ51:2)」

 サラのことも眼中にないようだ。家族四人でカナンを目指したのに、あくまで主はアブラハムただひとりだけを召した。

 それでも、まだ主がテラを導いた可能性は残っている。アブラハムは決して父には逆らわない孝行息子だった。一方、テラは他の神々に絶対忠誠を誓い、主の言うことを頑迷に拒否した。そこで主は一計を巡らし、他の神と偽ってテラを導いた。それは主にとっては消し去りたい苦い記憶となり、そのやりとりを預言者に語ることは憚られた。


 その場合でも、ヤコブとラバンとの駆け引きをくどくどと書くくらいなら、一言、テラにも召命があったと記して欲しかった。もちろんそれだけでは説明不足だ。家長である父テラが他の神々に仕えている状況で、主はウルにおいて、どのようにアブラハムを導きだしたのか、創世記に記されていないのは不自然である。


「ナホルは二十九歳になってテラを生んだ。ナホルはテラを生んで後、百十九年生きて、男子と女子を生んだ。テラは七十歳になってアブラム、ナホルおよびハランを生んだ(創11:24-26)」


 アブラハムとモーセの時代の聖書の登場人物は、通常の倍程度の長寿である。創世記6章3節でも、人の寿命が百二十歳になったとあるので、二で割ると六十歳。幼児死亡率が高いので、平均寿命はもっと短かっただろうが、天寿を全うして死ぬ年齢はそのくらいだろう。


 テラの父ナホルより古い世代は、皆二百年以上生きている。ナホルが二で割った七十四歳で亡くなったのなら、信憑性が高い。しかし、テラは二百五歳と、二で割っても百歳以上生きていた。

 テラの先祖は三十(十五)歳前後で子供ができているが、テラは七十(三十五)歳で三人目の子供ができている。創世記は主が後世の預言者に語った内容が基本になっていると思われる。主は、テラの父が亡くなった年齢とテラに三人目の子供ができたときの年齢を知っていた。

 その主がテラの寿命を知らないということはないので、主本人が嘘を吐いたか、後世の人間が改竄した。テラの世代になって急にリアルな数字になってはまずいからだ。さらに全員の年齢を二倍にすることで、テラ世代からのリアリティを消し去った。


 以上から、主がテラだとは証明できたわけではないが、蓋然性が高いことがおわかりいただけたと思う。ここまでの結論。


『主がテラを導いていない場合、主はテラである。主がテラを導いた場合、聖書にその記述がない理由は神のみぞ知る』


 果たして、テラは自分の意志でカナンに向かったのか、それとも主に導かれて向かったのだろうか。


 もし主がテラなら、神を名乗ったのにはそれなりの理由があるはずだ。病に倒れたテラは、アブラハムへの遺言として、自分の死後にカナンに行くように命じたが、息子はハランでの小さな成功に満足し、ここに留まると言い張った。家長の言うことも聞かないようなら、神を名乗るしかない。アブラハムの宗教の誕生の瞬間であるが、この時点ではとても宗教とは呼べない。アブラハムもテラも多神教徒だった。


 カナンに移住した後のテラは、時間の大半を一族の観察に費やすようになった。

 アブラハムと一族は啓示に従い、カナンに移住した。そして、ハランを出てから二十四年後、アブラハムにまたも神から啓示が下る。名前をアブラムからアブラハムにすること。妻の名をサライからサラにすること。カナンの地を与える代わりに、一族の男子に割礼をすること。


 神からの啓示とはいえ、人類全体にとって何の意味もなさそうな内容だ。赤の他人の名前を変えたいなどと、普通は思わない。長年一緒にすごした家族だから、二人の名前が気になり、改名させたのだ。割礼の必要性は彼の人生から学んだ子孫に是非伝えたい重要事項だったが、父親の立場からは言いづらく、神になって初めて告げることができた。


 契約の報酬としてカナンの地を与えると、神は本当に約束したのだろうか。これは、後世の預言者に主が嘘を語ったのだろう。カナンの支配は、イスラエル人口が増えた出エジプト時点で決めたと思われる。

 アブラハムの子孫にカナンを与えると告げてしまうのは、イシュマエルやエサウ、側女ケトラとの間の五人の子供の子孫もその権利を持つことになる。カナンがイスラエルのものとするのなら、ヤコブに啓示を告げなければおかしい。辻褄を合わせるため、

「イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです(創21:12)」とされ、イシュマエルやケトラに産ませた五人の子供はカナンの相続権を失い、エサウは主に憎まれることになった。


 カナンを与える啓示をヤコブに最初に下したと、主が預言者に語ったとしたら、アブラハムのカナン移住の意味がなくなる。イスラエル民族のための啓示ならヤコブに下すべきで、子孫の対象が広がるアブラハムにカナン移住が命じられたのは、それがアブラハム個人の利益のためだったからだ。


 本当にアブラハムにカナンを与えると啓示が下り、それが一族に伝承されたのなら、ヤコブ一家はのこのことエジプトに移住したりしないし、その子孫が何百年もエジプトに留まることなどありえない。主に言われるまでもなく、帰還運動が起こったはずである。

 たかが数十年のバビロン捕囚(捕囚といっても、比較的自由で、それほどひどい目には遭っていなかった。学者も研究ができ、ユダヤ教が生まれた)でさえ、ユダヤ人はエルサレム帰還を待ち望んだではないか。


 もし、ヤコブ一家がエジプトに移住せずにカナンの地に留まったら歴史はどうなっていただろうか。イスラエルは、周辺の部族と交わり、民族としては残らなかった可能性が高い。エジプトに移り、ファラオに重用されたことで、異邦人の名門一家としての自覚が生まれ、それがイスラエル民族としてのまとまりにつながったのだろう。

 主のアブラハムへの召命より、ミディアン人がヨセフを隊商に売り飛ばしたことのほうが、民族の歴史にとって重要だった。



         

 創世記十八章。カナン移住後のアブラハムの家に三人の客が訪れた。三人は神と二人の天使ということになっているが、普通に食事をしたことからただの客だったと思われる。

三人はアブラハムとの雑談で、アブラハムから妾の子はいるが妻との間に子供がないと愚痴をきくと、来年生まれるよと冗談を言った。妻もそれを聞いて笑った。こっそりそれを聞いていたテラは、事の重大性に思い至り、二人の間に正式な子供が必要だと考えた。


 かつてアブラハムの妻が、アブラハムの長男をみごもった女奴隷につらく当たると、女奴隷は逃亡した。神は女奴隷にアブラハムのもとへ帰るよう説得した。この時点では、女奴隷が産む子供イシュマエルを後継者にしようと思っていたのだろう。それが、アブラハムと客とのなにげない会話から、正妻との間の子供が必要だと気づいたのだ。


 創世記では、この客のうち二人(天使)が、アブラハムの家を出てから、甥のロトの住むソドムに向かうことになっている。実際は、テラが一人で、孫のロトのもとに向かったのだろう。ロトがソドムに住んでいたかどうかはわからない。ソドムとゴモラの滅亡は、その前後に起きた自然災害で、物語の展開がうまくいくようにひとつづきの話としてまとめたと思われる。


 ロトはアブラハムの兄弟の息子だ。何故、二人の客がロトのもとに向かったことになっているのか。客を歓待したときに出た、アブラハム夫婦の間に子供がいないことを懸念したテラが、夫婦に養子をとらせるため、数少ない身内のロトの娘に子供を産ませようとしたのではないだろうか。


 ロトと二人の娘は、洞窟に住み、親子の間に子供が生まれた。姉との間の子供はモアブ人の先祖で名前もモアブ、妹の子供はアンモン人の先祖とされているが、名前はアンモンではなくベン・アミ(わたしの肉親の子という意味)だ。そのわたしとはテラのことかもしれない。

 テラは、自分のひ孫が産んだベン・アミを、アブラハムと妻サラの間に生まれたイサクとしたのだろう。近親相姦そのものだが、テラの孫とひ孫の間の子供なので血統的には優れている。親子の間に子供をもうけさせるため、アブラハム同様に啓示を下し、親子を洞窟に住まわせたのだ。


 イサクの妻リベカは、アブラハムの僕が偶然見つけたことになっているが、主が手回しした結果だ。テラは、自分の血が薄まらないように、イサクをロトとその娘の間に産ませ、イサクの妻を自分のひ孫リベカにしたのだ。さらにイサクの子ヤコブには自分の玄孫ラケルとレアをあてがった。

 イスラエル人は、アブラハムの名義上の子孫で、その兄弟ハランとナホルの血のつながった子孫だった。テラは生前から近親婚を進めており、リベカはハランとナホル、兄弟二人の血を引く。

 当時としては近親婚は普通なのだろうが、一族の血を濃く保とうなどとは、神の発想ではなく人の発想である。しかも召命を受けたアブラハムの実子イシュマエルを排除し、その兄弟ハランとナホルの子孫を選民とした。


 神は、アブラハムにイサクを捧げるように命じる。アブラハムがイサクを縛って、刃物を突き刺そうとすると、神はやめるように告げた。最初から殺させるつもりなどない。神になったばかりのテラが神の気分を味わおうとしたのだ。


 古代中東で信仰されていたモロク神。モロクの名は王を意味するヘブライ語に起因する。生け贄を好み、王権を持つ者は長男を捧げることでモロクを供養する。

「あなたの子どもをモレクにささげてはならない。またあなたの神の名を汚してはならない(レビ記18:21)」

 と、主はモロクへの人身供養を禁じた。

 ソロモン王がモロクを崇拝したため、イスラエルは没落していったとされる。ユダヤ人が忌み嫌う異教の神モロク。だが、なんと主自らモロクを真似て、モロクの気分を味わっていた。


 アブラハムの次男イサクは、テラの孫であり、ひ孫であり、玄孫である。言い換えれば、神の孫であり、ひ孫であり、玄孫である。それからテラは、アブラハムの長男イシュマエルについては子供の数を数える程度にしか関心がないのに、次男イサクの家族につきっきりでその生活を観察していた。

 イサクの長男エサウについては、その孫の世代まで名前がわかっているが、あくまで名前だけである。アブラハムとその子孫を見守るといっても、テラの身体はひとつしかない。子孫の人数が増えるにつれ、全員を観察できなくなるので、

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ(マラキ1:2-3)」というように、女奴隷の子供イシュマエルやイサクの長男エサウを切り捨て、イサクとヤコブに観察保護対象を絞った。

双子のうちヤコブを選んだのは、ヤコブが叔父のもとに逃げたとき、そちらに付いていったからで、ヨセフが誘拐されたときもエジプトくんだりまで同行した。

 つまり、選民主義の基本となった観察対象の選択は、珍しいイベントが起きたほうを優先した結果だった。


 聖書ではヤコブが煮物を譲ったことで長子の権利を得たことになっているが、もちろん作り話だろう。「イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛した(創25:28)」ことから、エサウは長子としてイサクの財産を引き継ぎ、エジプト・メソポタミヤの交通の要衝エドムの地で栄えた。


 テラは啓示の際には姿を見せず、もっぱら声だけで語った。そこには宇宙の摂理を説こうとか、人類を救済しようなどといった大それた志はなく、ただ子供や孫の行く末を見守りたいという動機だけで動いていた。ラバンの家の守り神について気にしていないのも、自分のしていることが宗教活動などという自覚が微塵もなかったからだ。

 ヨシュア記に記されているように、テラもアブラハムも多神教徒だった。カルデアのウルでは月神礼拝が行われていたという。創世記自体に偶像崇拝や多神教を禁じる記述がない。出エジプトでエジプトに災いが起きたのも、彼らが偶像崇拝をしていたからではなく、イスラエル人を解放しなかったからで、神が唯一であることと偶像崇拝禁止はエジプトを出た後のシナイ山における十戒から始まる。


 創世記全五十章のうち最後から二番目の第四十九章でヤコブは死に、最終章ではヤコブの埋葬からその子ヨセフの死まで一気に進む。神はヤコブより後の世代に関心が薄かったようで、創世記が終わると、次の出エジプトまでの数百年間が省略されている。

 省略されているだけで、この間にヤコブとラバンの近所の人とののどかな会話よりも深刻かつ重要な物語はいくらでもあったはずである。


 アダムからアブラハムの父テラまでは、一人数百年も生きたことになっている系図でごまかし、アブラハムの晩年から話が始まり、孫のヤコブは異常に詳しく語られているが、ひ孫のヨセフの後の世代はまた名前だけになる。

 そのヤコブのしたことといえば、兄と仲違いして叔父のもとでこきつかわれ、故郷に帰り、息子のヨセフがエジプトで出世したので、一家でエジプトに移りすんだという程度だ。息子のヨセフは兄弟たちから疎まれ、エジプトに誘拐され、そこで大成功を収め、偶然兄弟たちに再会、身分を明かさず接し、やがて兄弟だと打ち明け和解、一族をエジプトに呼び寄せる。

 どう考えても、息子のヨセフの人生のほうが波瀾万丈で、一族の運命にとって重要ではないか。ドラマにするならヨセフが主人公で、ヤコブはその父という脇役のはずだ。


 そのヨセフに神がエジプトまで付いていったのも、誘拐という突発的なイベントが起きたからで、それがなければユダのほうが関心を集めたと思われる。兄弟たちがヨセフと再会し、カナンに戻るとき神も同行した。すでにヤコブもエジプトに向かう手はずになっていたので必要はないのだが、神はたまらずにヤコブにエジプトに行くことを恐れてはならないと啓示を下した。しかし、

「わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう(創46:4)」 とあることから、神はヤコブ一家をまたカナンに戻す計画だったようだ。


 ファラオのヨセフへの寵愛は厚く、ヤコブ一家はエジプトから帰ろうとしなかった。ヤコブはエジプトで亡くなった。カナンの地にこだわったテラも、経済的に潤うヤコブ一家を見て、それで満足したのだろう。


 ユダヤの伝承によると、テラという人物はかなりのやり手で、貨幣鋳造を最初に行ったとされている。ちょうどこの頃、メソポタミヤでシュメール人が銀貨幣を使い出した。貨幣鋳造の真偽はわからないが、あれだけのことをしたのだから、テラがやり手というのは確かだろう。


 カナン行きの動機も、エジプトとの交易で儲けるためではないだろうか。息子アブラハムには恵まれた場所で大きな商売をして欲しい。しかし、せっかく彼のためにカナンに向かったのに、息子はハランでの小さな成功で満足している。自身の老齢が原因でハランにとどまったとしたら、自責の念もあったことだろう。やり手のテラは我慢できず、嘘を吐いてでも、アブラハムを当初の目的地カナンに向かわせようとした。


 アブラハムは豪商や遊牧民だったと言われている。

「アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた(創13:2)」ことから、家畜を飼う一方で、交易の仕事も手がけたのではないだろうか。もちろん、家畜自体も重要な交易商品である。飢饉が理由でエジプトに行ったとしても、商売をしたからこそ、多くの金銀を持つことになったのだろう。


 カナンに移住すれば、間に他の業者を挟まずに、エジプトと直接取引きでき、利幅も大きい。エジプト、メソポタミアという二大文明の中継貿易という商業チャンスは、やり手の商人なら喉から手が出るほどものにしたいはずだ。

 ヤコブのエジプト行きを大目に見たのも、エジプトとの経済交流が目的でアブラハムを移住させたからだ。イサクがロトの子供なのも、もともとロトにアブラハムの商売を継がせる予定だったから、当初の計画通りである。


 アブラハム召命の理由はビジネスで、イサクの誕生を予告した三人の客は、アブラハムに接待された取引先の商人だった。イエスはエルサレム神殿が汚れるといって商人を追い払ったが、天の父自身が商人だった。現代でも、仕事が理由で引っ越しをすることが多い。それは昔も同じことだ。だが、神聖なる創世記に、テラは息子に商売をさせるためにウルを出てカナンに旅立ったとは、記すわけにはいかない。


 アブラハムの父テラこそ、神であり、最初の御使いであり、多神教徒でありながら、一神教のもととなるアブラハムの宗教の開祖である。しかも、驚くべきことに悪魔である可能性もある。

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