第12話 ネルの疑問
商店街のアーチの前まで戻って来た私は、ぜえぜえ息を切らしながらその場にへたれこんだ。箒に乗っていたネルは平気な顔をしていたが、バンチョーも疲労困憊の表情だ。
「はぁはぁ……まさか、ほんとに出てくるなんてね……」
「にゃ、ふーごろ!」
バンチョーが興奮気味に騒ぐ。
「『だから言っただろ!』ってバンチョーさんが。それにしてもあれは……」
ネルは箒に乗りながら、口元に人差し指をあてがい、何やら考え込んでいる。
昔、何かの本で読んだことがある。
――ヒトダマ。鬼火や狐火とも呼ばれることもある。古来から伝わる、超常的な怪奇現象。昔の人は、何らかの要因によって肉体から抜け出た魂、と考えていたらしい。空中に生じたプラズマが発行したもの、リンの同素体である黄リンが自然発火したもの、など諸説あるが、未だに科学では説明できない部分も多く、その正体はよくわかっていない。
私も、実際に見るまでは、存在など信じていなかった。び、ビビっていたわけじゃあない! そんなあやふやな存在、考えるだけ無駄だと思っていたんだ。
しかし、この目で見てしまったからには……。昨日の顔だけ女の幻覚とは違って、今回はネルも、バンチョーも見てしまっている。商店街で流れている黒い噂も信憑性を増してきた。
――ヒトダマを見た者は不幸な目に遭う――
ネルが話した噂の一フレーズを思い出す。不幸な目……。これから私たちに何が起ころうとしているのだろう……。
不安が胸の内で増長し、頭の中で奇妙な不協和音を奏で始める。
ヒトダマを目にして思ったことが一つ。それは、昨日の顔だけ女とは明らかに違うこと。上手く説明しづらいのだが……、ヒトダマには昨日の顔だけ女には無い、ある種の寒さのようなものを感じたのだ。どっちも不気味なことには大差ないけど。
しかし、実際に目にして思う。あんなの相手に自分は何ができる? 先程のバンチョーの攻撃から察するに、奴――ヒトダマには物理的な攻撃は通用しないだろう。感覚的に、念仏でも唱えれば少しは効果がありそうな気はするが……あいにく、お経の類の知識は私にはない。もちろん、ネルにも。さて、どうしたものやら。
私が悩んでいると、傍らで同じように考え事をしていたネルがつぶやいた。
「あれを……あのヒトダマを……ボクは知っているかもしれない」
「どういうこと?」
虚空を見つめながら、ネルは箒から降り立った。
「確信があるわけじゃないけど……あのヒトダマからはボクと同じ力――魔力波を感じた」
「……は?」
「つまりね、あのヒトダマはレイスなんかじゃない、何者かが発動させた魔法じゃないかってこと。基本的に、レイスには言葉を話す力なんてないはずだ」
「…………。でも、そんなことって有り得るの? この世界では魔法が発動できないってあんた前に言ってたじゃない」
そう。以前彼女は言っていた。私たちの世界には魔力の源となる『マナ』という物質がほとんど存在しないらしい。そのため、魔法を発動することができないのだと。彼女が乗っていた箒は、もとから内部にマナを貯蔵していたので魔法を発動できたに過ぎないのだ。
ネルはなおも虚空を見つめ続けている。
「だからボクも確信が持てないんだ。この世界にいる魔法使いが魔法を発動できるわけがない。もしできるのなら、とっくにボクは転移魔法陣を発動して、元いた場所に帰っている。あれから何度も試したけど無理だったんだ。マナが無い以上、魔法を発動させることは不可能。だけど、あのヒトダマから魔力を感じたのは本当なんだ」
「私だって、あんたが嘘をついてるとは思わない。けど、それだけにおかしいでしょ?」
私がそう返すと、ネルは再び口元に指をあてがって黙り込んだ。
アーケードが不気味な静けさに包まれる。
やがて、ネルが思いついたように再び話し始めた。
「さっきのヒトダマ……ボクは不自然なほどの寒さを感じたんだけど……麗華は何も感じなかった?」
不気味な冷たさを感じていたのは私だけではなく、どうやらネルも同じように感じていたらしい。足元のバンチョーを見ると、彼もこくりと頷いていた。
「うん。思わず背筋がぞくりとするようなものを感じたわ」
「そうか、あの感覚がボクの勘違いでなかったとするならば……読めてきたぞ、ヒトダマの正体」
「本当に!」
「あれは恐らく、魔力によって具現化された物質、意思を持った魔導球体ゾアノタクト。発動者の命令でのみ動き、目標を捉える優れた術さ。ボクはあれとよく似た術式を以前目にしたことがあってね。もしもボクの予想通りだとすれば……相当な厄介な相手だよ」
そうつぶやく、ネルの顔からは不安が感じられない。
「……ネルは、あれが怖くないの……?」
「フフッ……そりゃあ、怖くないと言えば嘘になる。けどね、あのヒトダマは恐怖と同時にボクの希望でもあるのさ」
「希望?」
「そう。だって、マナが無い現状で何故か発動し続けている唯一の魔法。発動のしくみを突き止めることが出来れば、ボクも帰れるかもしれない」
確かにネルの言う通りだ。ヒトダマ発生の原因を突き止めれば、それはネルが帰る方法を探ることにつながる。ネルにとっては希望へと続く一筋の光にも思えることだろう。
だが、私にとっては……。
――もしかしたら、この事件が終わったとき、ネルは元いた世界へと帰ってしまうのかもしれない。不思議とそんなことが頭をよぎる。
帰ろうとするネルを止めるつもりはない。もともと私と彼女は済む世界が違うのだから。けれど……いざ別れのシーンを想像すると、涙がこみ上げそうになる。
正直な話、私はネルとの暮らしがけっこう心地よかった。
両親は家にいないし、兄も仕事で出かけっぱなし。
広い家に私はいつもひとりぼっちだった。
そんな時、ネルがやってきた。
はじめはうるさいばかりの彼女が面倒くさくもあった。しかし、しだいに彼女の作りだす喧騒が心地よくなっていったのだ。
いつの間にか、私はネルのことを本当の友達のように思っていた。だから、別れるのは……寂しい。
しかし、それらの感情は決して顔には出さない。
ぽつりと一滴の雫が頭に落ちる。やがて、雫は数を増し、音もだんだん激しくなる。私の足元は黒々とした色に変化していって、真っ黒になる。傘は……持っていない。
バンチョーが急に声をあげた。
見ると、知らぬ間に先程のヒトダマがユラユラとこちらに近づいてきているではないか。
すると、頭の中に声が響く。
「……タチサレ。ここから……タチサレ」
頭の中に浸み渡っていくような声。
ネルはユラユラ揺れているヒトダマだけをじっと見据えていた。
先刻、ヒトダマを目にした時の、恐怖や不安といった感情は、いつしか私の内からすっかり消え失せていた。青い焔に焦点を定めて声の限り叫ぶ。
「あなたは何でこんなことをしているの? 答えなさいよ!」
ネルと目が合った。彼女は目を丸めて私を見ていた。あんなにヒトダマにビビっていた私が、こんなことを言い出したもんだから面食らったんだろう。
私の声を聞いてか、ヒトダマは先刻までのゆっくりとした動きから一変して、めまぐるしいスピードで空を飛び回る。あまりの速さに私は目で追うことができなかった。
すると次の瞬間、ヒトダマが淡く発光したかと思うと、突然、鋭く尖った氷柱針がネルに向かって放たれた!
「ネル!」
ネルは器用に箒を操り難なく刃をかわす。しかし、ヒトダマの攻撃は止まらない。どういう原理なのかは不明だが、次々と空気中で氷柱針を生成し、ネルに向かって放つ。
ネルの卓越した箒さばきのおかげで、まだ一発も命中していないが……あの氷柱針、かすりでもしたら大変だ。氷柱針が当たった壁にはひびが入っており、その威力を物語っている。
だが何故だろう。ブローチを身に着けているネルの姿は、私とバンチョー以外には認識できないはずなのに、ヒトダマが放つ氷柱針の軌道は実に正確だ。それに、ヒトダマは一度も私やバンチョーに氷柱針を放たない。ただ一人ネルのみに狙いを定めている。いや、私を狙われても困るんだけれども。
不意にどこからか声が聞こえてきた。
「ネ……ル……?」
私は確かにその声を聞いた。
とても澄んだ、清流のように透き通った可憐な声。
だがその直後、ひどく不快な不協和音が頭の中にこだまする。
「ここから……タチサレ!」
突如荒々しく動き始めたヒトダマが、勢いのままにネルに突撃を仕掛ける。間一髪のところで彼女はヒトダマの突進をかわした。
「くっ! ……一体、どうなってる!? なんでアイツの声が――」
ネルには柄にもなく焦りの表情を浮かべ、必死にヒトダマの猛追をかわしている。
「ネル! もっと高く! 高く飛ぶのよ!」
「わかった!」
私の言葉に頷いたネルは、箒を上空へと急加速させた。立ち並ぶ店の屋根よりも高く飛びあがったネルは猛スピードで空を翔る。ネルを追ってヒトダマも上空へと飛び上がった。
雨脚は徐々に強まっている。遠くの方からゴロゴロと雷の鳴る音も聞こえてくる。今、二者の壮絶な空中追いかけっこが始まった。
……なんて暢気なこと言ってる場合じゃない。私に何かできることは……。
その時、頭の中でパズルのピースが組み合わさるように、一つの考えを思いつく。
上空にいるネルに向かって叫ぶ。
「いったん商店街を抜けるわよ! 私の考えが正しければ……そいつは商店街の外までは追ってこれないはず!」
凄まじい速さでの攻防が上空で繰り広げられる。ネルが帽子を押さえながら言った。
「麗華が何を閃いたのかわからないけど、わかったよ。正面入り口のところで落ち合おう!」
その言葉を皮切りに、箒は一層速度を増した。溜めていた力を解放するかのように、疾風のごとき速さでヒトダマと共に夜の彼方へと消えて行った。
私はネルの無事を信じ、バンチョーと一緒に正面ゲートへ向かって走り始めた。
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