第6話 不気味なヒトダマと商店街の噂
坂道を登りきると、響ノ町商店街と書いてある大きな正面ゲートが見えてきた。あれこそ商店街の入り口だ。
商店街の中は自転車は進入禁止なので、私は自転車を降りて押して歩いていく。
私がアルバイトしているのは、町の本屋さんと呼べるような、小さな本屋だ。売り場面積も、駅前の大手書店と比べるとずいぶん小さい。けれど、私はこの本屋が好きだった。チェーン店のような大きな本屋ではないけれど、昔からある本屋で、地元の人からも親しまれている。それゆえ、お客さんの顔も覚えられるし、顔の見える仕事ができるのだ。
単純に日々のお小遣いを稼ぐためにアルバイトを始めたが、今では、生活の一部として切っても切れないようなものになっている。
やがて、柚子屋書店と書かれた看板が見えてきた。
店の裏に自転車を止めて、戸を開ける。
店内に入ると、本が持つ、紙素材特有の独特の匂いが漂ってきて私の鼻腔を刺激する。
店の奥の方にある従業員室へ向かっていく。従業員服である青い前掛けを身に着けていると、初老の老人がひょこっと顔を出した。
「おや、れいちゃん。今日は早めに出てきてもらって、悪いね」
穏やかに笑うその人こそ柚子屋書店の店長である。
「いえいえ」
「それより、その怪我どうしたんだい?」
店長は私の肘を指さして言った。転んだ際に擦り傷ができていたらしく、痛々しい瘡蓋になっていた。
「あ、これは、ちょっと自転車で転んでしまいまして」
「そうかい。気を付けてね。れいちゃんはうちの店の貴重な働き手なんだから」
そう言うと、店長は店の方に戻っていった。
先程小さい店だと説明したが、柚子屋書店は本当に小規模な店なのだ。なにしろ、従業員は店長とパートの藤林さん、それに私を加えた三人経営なのだ。
とは言っても、お客さんもほとんど常連さんしか来ないから、大体店の中は閑散としている。レジの前に突っ立っていても暇なので、はたきで埃を掃って回るのがアルバイトの主な仕事である。
使い慣れたはたきを手にして従業員室を出る。
お客さんは……あんまりいないみたい。学校帰りに漫画雑誌を立ち読みしている中高生がほとんどだ。
と、私は中高生に混じって週刊誌を立ち読みしているネルを発見する。
すたすたと歩いて行って本を取り上げ、ネルを従業員室へと引っ張っていく。
「な、なんだよぉ~」
「あんたね……もうちょっと自覚しなさいよ。あなたの姿は今、私以外には見えないかもしれないけど、見えるこっちとしては気になるの! 思わず声とかかけたらどうなると思う? 私は何もない空間に話しかける、とっても怪しい人になっちゃうでしょうが!」
「あ、そっか」
「『あ、そっか』……じゃないわよ! ホントにわかってるの?」
「わかってるってば! じゃあボクはその辺散歩してるから」
「ちょっとネル。あなたには私の仕事を手伝ってもらうわ」
「え~! なんでよ~!」
「なんでも! レジの前に立って、お客さんが来そうだったら私を呼んで。その間、私は店内の掃除をしてるから」
「そんなのつまんないよう」
「……今日のご飯はカレーよ」
「やる!」
こうして、ネルは店番(仮)を、私はモップで店内の掃除をすることになった。店長は店の奥の方で小難しそうな書物を読みふけっているようだった。
お客さんが来ると、ネルが私の名前を呼ぶ。それを聞いた私は急いでレジに戻って会計をする。ネルの声は私しか聞こえないから不自然でもない。我ながらなかなかのアイデアである。
特にトラブルもなく、四時間のアルバイトが終わり、店長に挨拶をして店を後にする。
その頃にはすでに外は暗くなっていた。近くの肉屋、八百屋、魚屋はもう店じまいの準備をしているようだ。
私は肉屋と八百屋の主人にお願いしてカレーの材料を売ってもらって家路につく。
そんな時、ふとネルが私の袖を引っ張る。
「ねえ、麗華」
「何?」
振り返って私はぎょっとする。
私の見つめる先には、ほの青い、ゆらゆらとした火の玉が浮遊していた。火の玉はすうっと私たちの方に寄って来たかと思うと、突然人の顔に姿を変える。
見たこともない女の顔だった。気味が悪いくらい蒼白で、ゆらりゆらりと漂う顔だけ女は恐怖で青ざめた私の顔を見てニタリと不気味に笑ってから、煙か何かのように目の前からかき消えた。
足ががくがくと震えていた。思わず、おかずの入ったビニール袋を落としてしまう。
「ま、ままままま……さか、ね。ははは……」
「麗華? まあいいや、早く家帰ろうよ」
「そ、そそそそうね! さっさと帰るわよ!」
胃の奥がぐるぐると得体の知れないものが駆け回るような感じで、気持ちが悪い。これ以上この場にいたら、頭がどうにかなってしまいそうだったので、私はネルの手をむんずと掴み、後部座席に乗せると、一目散にその場から逃げ出した。
◆
家のドアを開けると、何だかどっと疲れた。あんなものを見るなんて、今日は付いてない。食欲はすっかり失せてしまった。むしろ吐き気がする。
私は鞄を置いて、すぐに浴室へ向かった。いつもより熱めのシャワーを浴びると、少しは気が楽になった。頭から降り注ぐシャワーは、疲労感や虚無感といった負の感情を洗い流してくれるようで、何とも言えず心地よい。
さっぱりして、今日はもう寝てしまおうか、と思って自分の部屋へ向かう。
部屋の前で私は足を止める。
ネルが神妙な顔つきで私の部屋の前に立っていたのだ。
「……どうしたの?」
私が尋ねると、ネルは亡霊のように青ざめた顔で言った。
「おなかすいた」
ずでっ。頭がガクンとなってしまった。あんなのを見た後だってのにこの子は……。
「あ、あんたねぇ……」
「おなかすいた! カレー食べたい!」
能天気っていうのはいいよなあ。あんなのを見た後だってのに、地団太を踏みながらカレーを懇願するネルを見ていると、不思議と私もいくぶん楽になっていた。
「はいはい、わかったわよ……。ちょっと待ってなさい」
「うわぁ、やったぁ~! ボク、ずっとお腹減ってるの我慢してたんだ! さっきも、麗華に催促しようとしたら、急に麗華が青い顔して驚いてるんだもんな。今日の晩御飯は抜きになっちゃうのかと思ったよ」
え……。どういうこと? まさか、さっきの思い出したくもない不気味なもの、ネルには見えてなかったっていうの?
「ね、ねえネル! あなたもさっき見たでしょ! あんなの見たら、私だって驚くわよ!」
ネルはきょとんとした顔で私を見上げている。
「見た、って何を? ボクはただ早く家帰ろうよって言おうとしただけだよ?」
そんな……嘘でしょ?
背筋がぞっと寒くなった。どくんどくんと心臓の鼓動が早くなるのを感じる。額から出た冷や汗が頬をつーっと伝っていく。
ネルにはアレが見えてなかった。見えていたのは、私だけ。
持っていたタオルがパサリと落ちる。私はどこともつかない場所を見つめ、呆然とした顔でその場に立ち尽くしていた。
「麗華、麗華ってば!」
私は高鳴る不安をどうにか胸の内に押し殺し、無理やり笑顔を作る。
「あはは……そうね、もうご飯にしましょうか」
まるで何かに取りつかれたかのように淡々と作業を進め、食卓に二人分のカレーが並んだ。ネルは待ってましたとばかりにがっついたが、私はそんな気分にはなれず、一口二口食べただけでお腹いっぱいになってしまった。
「いやぁ、カレーってやっぱり素晴らしいね~麗華」
「……うん」
「なんか元気ないねえ。それよりね、ボクね、今日聞いたんだ」
「何を……?」
あっと言う間にカレーを食べ終えたネルは、おかわりを皿によそいながらつぶやく。
「……噂だよ。商店街の噂」
「商店街の……噂……?」
私はゴクリと唾を飲んで彼女の話に耳を傾ける。
「あくまで噂話だけどね……最近、夜になると商店街にレイスが現れるんだってさ。麗華たちの言葉でいうところのヒトダマがね。そして、ヒトダマを見た人は、やがて不幸な目に遭って死んでしまうんだ、とか」
「ネル……それ……どこで聞いたの……?」
「んとね、今日お店に来た学生さんたちが話しているのを聞いたんだ。なんか面白そうな噂だなあって思ってさ」
スプーンを落としてしまい、カランという音が響く。
冷や汗が先にもましてどっと噴き出した。私は明らかに動揺していた。呼吸が少し荒い。
単なる都市伝説だろう。いつもの私ならそう一蹴するに違いない。だが……実際に私は見てしまったのだ。生者にあるまじき蒼白さで、空中を浮遊する不気味な女の顔を。
「……私はもう疲れたから寝るわ。おやすみ」
そう言ってまだ残っているカレーを冷蔵庫にしまうと、フラフラという足取りで居間を後にする。
「麗華……?」
私の様子にネルも驚いたようで、彼女の視線が背中に刺さる。しかし、私は一言もくれず、自分の部屋に向かう。
部屋の戸を閉め、布団にぼさっと飛び込んだ。
枕に顔を埋めていると、あの時の女の顔が浮かんできて、辺りを見回す。しかしそこに何かがいるわけでもなく、再び横になって目を閉じる。すると、ネルの言葉が蘇ってくる。
『あくまで噂話だけどね……最近、夜になると商店街にレイスが現れるんだってさ。麗華たちの言葉でいうところのヒトダマがね。そして、ヒトダマを見た人は、やがて不幸な目に遭って死んでしまうんだ、とか』
死んでしまうのか、私は。いやいや落ち着け。そんなのあるわけない。だいたい、ネルが言っていたのは単なる噂話に過ぎないじゃないか。
でも……現に私は不気味なヒトダマ、というか女の顔を見てしまった。
思わずびくりと体が震えてしまう。思い出しただけでも寒々しい。
そうだ……きっとあれは幻覚だ。初めてネルを学校に連れて行ったので、思いのほか疲れてしまったのだ。それであんな不気味な幻覚を見たのだ。
うん。きっとそうだろう。
そう思うことにしたのだが、あの女の不気味な笑いが脳裏にちらちらと霞んでしまう。
真っ暗な部屋で一人、私は不安と格闘していた。
その夜はなかなか眠れなかった。
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