第5話 スカした黒猫、バンチョー


 ~キーンコーンカーンコーン~


 鐘の音と共に、今日の授業が終わり、皆鞄を手に教室を出ていく。

 私は横にいたネルにそっと耳打ちする。

「ネル、早く行くわよ」

「え、もう帰るの? もうちょっといようよ~。学校楽しいよ~」

「今日はバイト。最近、店の方が忙しくてね……、いつもより一時間早く来てって言われてるのよ」

 商店街の近くにアミューズメント施設が建ったとかで、観光客が多くなったのだ。しかし……人の流れってのはわからないもんだなあ。なんにせよ、早くしないと間に合わない。

 私は昇降口を出て、自転車の前カゴに鞄を入れると、ペダルを勢いよく漕ぎ始めた。

「まってよ~!」

 ネルも後ろから箒に乗って追いかけてくる。


 眼前には真っ赤な夕焼け空がどこまでも広がっている。夕焼けは日常のあれこれを忘れてしまう程に壮大で美しい。

 綺麗な夕焼けをこの目に焼き付けたことで、ペダルを漕ぐ足にも自然と力が入る。前方は下り坂。私は加速していく自転車に乗りながら、自分が風になったかのような疾走感に駆られていた。


 その時である。突然、一匹の黒猫が目の前を横切った。


 時間がとてもゆっくりと進んでいるような感覚。タイヤの動き、感じる風、猫の挙動、耳に聞こえるネルの叫び声、そのどれもがスローモーションになる。


 耳を劈くような急ブレーキの音を立て、衝撃で軽いドリフトを起こしながら自転車は横転し、私は勢いよく吹っ飛ばされた。

 横転した自転車のタイヤがカラカラと回っている。

 慌てて駆け寄って来たネルが心配そうに私を見つめている。


「れ、麗華! 大丈夫?」


 着地の時に地面に激突した腰と肘がずきずきと痛む。だが、折れてはいないようだ。

 神経から伝達される激しい痛みを我慢して、私はよろよろと体を起こす。


「いてて……あんのバカネコ!」


 不幸中の幸いか、あれ程の衝撃で叩きつけられたのにも関わらず、軽い打撲程度で済んだらしい。痛いことは、すごく痛いけど。

 愛用自転車の前カゴはへにゃんとした情けない形になってしまった。

 私が痛む腰をさすりながら、投げ出された鞄を取りに行こうとしている時、唐突にネルがつぶやき始めた。


「えっ……そうだったんですか。……はい。どうもすみませんでした」


 独り言……だろうか? それにしては、誰かと会話しているような口ぶりだった。でもこの場にいるのは私とネルだけだ。


「ネル……急にどうしたの?」

「あっ、麗華。怪我は大丈夫? それより、ボク達は謝らなければいけないみたいだよ」

「……誰に?」


 辺りを見回しても私たち以外に人はいない。この子にはもしかして、もしかするとユーレイの類のオカルト的何かが見えているのだろうか……?

 ふと、生温かい風が吹いてきた気がする。


 私はなんだか寒気がして、背筋をブルっと震わせる。

 ネルはそんな私の様子を見て一言。

「誰って……、バンチョーさんだよ」

 ネルはそう言うと、あの、私に轢かれそうになった黒猫を指さした。

 ほ……? 猫が何だっていうんだ?

「……は?」

「だから、この人がバンチョーさんだよ」

 人……? ネルが指差しているのは人ではない。猫である。

「人って……、それ猫じゃない」

 ネルは首をかしげて、

「猫? 猫って何?」

「あなたの目の前にいる黒い奴よ。もしかして見たことないの、猫?」

「うん。初めて見たよ。そうか……バンチョーさんは獣人じゃなくて、猫って言う種族なのかあ……」

 獣人の方がよっぽど珍しいというか、インパクトがあると思うのだが……。

 それよりも、私には気になることがあった。

「で、何なのよ? その……バンチョーって」

 ネルは口を尖らせて言う。

「だから、この猫さんの名前だよ。さっきからずっと言ってるじゃない!」

 ……猫の……名前……? 知り合いの家の飼い猫ならいざ知らず、なぜネルには会ったこともない野良猫の名前がわかるのだろう……?

「あなた……まさかとは思うけど、動物と話せたりするの……?」

 ネルはきょとんとした瞳で私を見つめている。


「何言ってるの? そんなの普通のことでしょ?」


 ネルの返事に私は絶句する。


 動物と話せる……だって? そんなの胡散臭いテレビのバラエティーでしか見たことないし、どうせ嘘っぱちだと思ってた。そりゃあ、話せれば楽しいのかもしれないけど……、そんなの有り得ない。

 向こうの世界、ネルが居た世界では普通のことらしい。だが、私のいる日本では、それは常識ではない。動物と話せるなんて、どこのテレビ局からも引っ張りだこだ。


「少なくとも、こっちの世界では普通のことではないわよ。動物と話せる、なんてことは」

 ネルは私の顔をまじまじと見つめて、黒猫の方に向き直って言った。

「ふーん。とりあえず、バンチョーさんは麗華に激おこプンプン丸だよ」

 な、なぜそんな言葉を知っている!? いつの間に覚えたのだろうか……。

 ネルに言われて猫に視線を移す。黒猫は両の眼で私を睨み付け、フーッフーッ! と息を荒げている。しかし、私が黒猫に怒られる筋合いは毛頭ない。


「……謝るのはそっちでしょ!」


 そう叫ぶとともに、強烈なげんこつを繰り出した。

 咄嗟の私の攻撃に、哀れ、黒猫は反応できず脳天に重い一撃をくらった。ひどく痛そうに悶えていたが、やがて、すっくとその四本の足で起き上がった。さすが、バンチョーというだけあって、根性はそれなりにあるらしい。

 ネルが黒猫の言葉を代弁する。

「わーお。すっごいげんこつ。バンチョーさんが泣きそうな声で『ごめんなさい、すみません!』って謝ってるよ」

 私はフン、と鼻息をならして黒猫に言う。

「わかればいいのよ。わかれば」

 バンチョーは今やむしろおびえたような目を私に向けている。

 だって、しょうがないじゃない。飛び出してきたのはバンチョーの方なんだから。私が咄嗟にブレーキを掛けたからよかったものの、一歩間違えばあわや大惨事だったんだから。衝突の衝撃でバンチョーが、ぐちゃぐちゃのメタメタになっていたかもしれないんだ。

 でも、おびえたようなバンチョーの瞳を見ていると少しだけ、可哀想な気持ちにもなってくる。

「う……もう、別にもう何もしないからさっさと行きなさい。今度は跳びだすんじゃないわよ!」

 私の言うことを理解したのか、バンチョーはコクリと首肯して、夕闇の中へと消えて行った。

 まだ肘と腰が痛むが、倒れた自転車を起こして、私はペダルを漕ぎ始めた。


「さ、行くわよ。遅れると店長に怒られちゃうから」

「もう。ちょっとくらい待ってもいいじゃないかぁ」

 へにゃんとした前カゴが何とも情けない。今度、修理してもらおうっと。


 目の前にはそれなりに長い上り坂。ここを登りきればようやく商店街だ。アルバイト先の本屋は商店街の一角に店を構えている。


 自転車は進んでいく。長い上り坂をゆっくり、ゆっくりと力強く進んでいく。


 片や、箒に乗った少女は欠伸をしながらぼんやりとした顔で悠々、坂を上っている。


 不思議と二人のスピードは同じだった。

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