第157話 客観についての雑考(現象学批判)
フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」を読んだのだが、
その内容は、カントの提唱した物自体の概念を根拠に、あらゆる認知機能が主観的なものであり、客観は存在しないというものであった。
数学ですら虚構であるとフッサールは断言している。
客観についての哲学者の見解に興味をもったぼくは、カントの「実践理性批判」でカントが実際に客観を何といっているのか確認してみた。
カントは「すべての理性的な存在者の意志に妥当するもの」を客観と呼び、
さらには、完全性、神の意志を客観とする。しかし、やがて、
「自然に客観的な実在性を与える」として、自然を客観とするに至る。
1996年の哲学者マクダウェルの「心と世界」を読んだのだが、その内容はひどく失望させられるものだった。内容は特に記述するようなものはないのだが、ようやくぼくは現代の最先端哲学に追いつくことができたようだ。
マクダウェルもカントは客観を認めていたとしているし、マクダウェル自身も客観を否定するようなことは書いていない。
つまり、現代哲学の最先端における客観の認識とは、フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」であるということになる。
ぼくは客観が存在するとは思っていない。
フッサールの見解は、慎重に読むとただの一か所も客観の存在を認めていないのであるが、
物自体の表象という存在は認めている。
我々の主観の中で従来の客観的といわれるような状況に判断がなされることをフッサールは「存在妥当」だと読んでいる。
フッサールは物自体の表象についての記述で大きなまちがいをおかしている。
物自体の表象は、神の啓示であり、世界の目的であり、統覚であり、客観であると述べている。
これは大きな誤謬である。
ぼくの主張であるが、物自体の表象は普通に我々の主観となって表れていて、デカルトの「我思う故に我あり」によって確認することができる。
物自体の表象は我々の主観のことであり、それは神の啓示でも、世界の目的でも、統覚でも、客観でもない。
客観は存在しない。
物自体の表象はプラトンが「国家」で語った洞窟の比喩とも異なり、概念の本質を意味しない。
なぜなら、変化し進化しつづける我々の認知機能が同じ概念の本質をもちうることはないのだし、宇宙人が存在するとして、その主観が我々の認知機能と共有できる概念の本質をもちうるとはまったく限らないわけである。
ゆえに、イデア論も否定する。
物自体の表象は我々の主観であり、客観は存在しない。
ちなみに、物理学や工学において客観を否定して論理を構築するのはまったくの徒労であり、客観を存在妥当とでも呼びかえるだけで、現在行われているように数学と実験を根拠に進歩していった方がおそらく社会はよくなるであろう。
哲学の本質を技術者が求める必要はまったくなく、そんな作業は千年でも時がたって人類に暇ができてから行っても充分損はしないと思われる。
追記。
今日、覚えた雑学。
数学がアプリオリだと初めていったのは紀元前三世紀のエウクレイデス(ユークリッド)がユークリッド原論において。ラテン語文献。
追追記。
ショーペンハウエルへの反駁。
ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を読みました。感想としては、これはカントからフッサールへ至る過程としての未熟な果実ではるけども、その内容を是とするわけにはいかない内容でした。
ショーペンハウエルは、物自体を前提に世界観を築く時、主観と客観の関係に異変をもたらすことに気づいた。
ここまではよい。
だが、主観と客観を意志と表象に置き換える作業は、主観を表象として、その根拠となる客観を物自体=意志であるとしたのは誤謬であるといえる。 物自体を前提に、主観と客観を再構成することに成功していない。
ショーペンハウエルは、カントへの反駁としては不適切との判断を下す。フッサールはカントの反駁として適切である。
なお、ハイデガーの「存在と時間」も不適切である。
ハイデガーの「存在と時間」は世界=内=存在が主観を内包するのか物自体だけに対応するのかあいまいに揺らいでる記述だから、 不適切だよ。
主観と客観は。フッサールがいうように、物自体を想定すると、客観は一切認めることができないものとなる。
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