第36話
「はああああああ」
「何を盛大な溜息をついてるのよ。早く行きなさい」
「お母さん。私、腹痛と頭痛と胃痛と……痛くないところがないの」
「いってらっしゃい」
「……いってきます」
王子君のことがあり、学校に行きたくない私は小学生のように体調不良を工作しました。
でも悉く母に見破られ、結局遅い時間に登校することになりました。
最近は早く出ていたので静かな道を歩いていたのですが、今日はとても賑やかです。
ちょうど良かったかもしれません。
人が多いのは嫌ですが、王子君と顔を合わすよりは人に紛れた方がマシです。
『昨日のことは夢、夢だぞ一花!』と自分に言い聞かせているのですが、王子君の腕の温もりがリアルすぎて中々打ち消せません。
はああああ……。
「花ちゃん、おはよう」
校門を過ぎたところで、声を掛けられました。
振り返ると赤い髪のヒロインのような女の子がこちらへ駆けてきました。
「香奈ちゃん……お、おはようございます」
どうしよう、モヤモヤとした感情に飲み込まれそうです。
香奈ちゃんの顔を真っ直ぐ見ることが出来ません。
これは罪悪感というか、なんというか……。
屋上での出来事は私が原因じゃないかとか、あと……王子君に告白されてしまったこととか。
いや、あれは夢ですけどね!
「私、今日ね、ツカサに告白しようと思うの」
「え」
耳元でこっそりと伝えられた言葉に、頭が真っ白になりました。
香奈ちゃんはにっこりと笑っています。
「花ちゃん、応援してくれる?」
「……えっと」
昨日のことが蘇ります。
言った方がいいの?
いいえ、言えるわけがありません。
「あれ? 前みたいに『もちろん』って言ってくれないの?」
「そんなことは……」
どうしよう……応援しようと思うのに、何故か言葉が出ません。
応援したくないから?
『私のことが好きだと言っていたから、香奈ちゃんは断られてしまうかも』と思っているから?
どちらにしても、私って嫌な奴だな……。
「うわ、チャイム鳴っちゃった。急ごう」
「はいっ」
丁度いいタイミングでチャイムが鳴りました。
チャイムに救われました。
あのままチャイムが鳴っていなかったら、私は答えることが出来ていたのでしょうか。
※※※
教室に着くと、王子君はすでに席に着いていました。
「おはよう、今日は遅かったんだね」
「……はい」
顔を見てしまうと、叫んで逃げ出したくなりそうなので下を見ながら進みました。
視界の端に見えた王子君の顔は、凄く笑顔だった気がします。
何故なの、どういうことなのでしょう!?
「栞、持ってきたんだ」
ゆっくりと手元が見えるギリギリのところまで視線を動かすと、確かにあの栞を持っていました。
「……ごめんなさい、私は忘れました」
本当はわざと置いてきました。
また無くすわけにはいかないし、もしかしたら香奈ちゃんの機嫌を悪くした原因かもしれないと思ったからです。
「……そっか」
明らかに落胆した声でした。
うっ……こちらでもまた罪悪感が……。
大人しくなってしまった王子君に何かフォローした方がいいのか考えていると、担任が教室に入ってきました。
良かった、これで気を使わずに黙っていられます。
うわの空で、ほとんど聞いていなかった午前の授業が終わり、お昼の時間になりました。
「藤川さん、一緒に……」
王子君がこちらを見ています。
その隣には香奈ちゃんとひろ君がいます。
「ごめんなさい。私、用事があるから……」
パンの袋を手に持ち、教室を出ました。
今は王子君と香奈ちゃん、この二人と一緒の時間を過ごすのは無理です。
重い足取りで、いつも一人で食べていたお決まりの場所に向かいました。
お昼休憩を楽しんでいる明るい声が聞こえてきますが、私だけは暗い明日の無い世紀末のようです。
喧噪を離れ、私のお気に入りの定位置に辿りつきました。
あれだけ落ち着けていた場所なのに全く落ち着きません。
冷めても美味しいはずの我が家のパンが、あまり美味しくありません。
「ああ! あいつじゃん」
突如背後から大きな声が聞こえて、肩が震えました。
その声は、明らかに私に向けられていて……。
そして私は、この声に覚えがあります。
振り向かなくても分かります。
以前昇降口で王子君にぶつかった時にいた、私に言いがかりをつけてあの三人組です。
恐怖感からかこの声をはっきり覚えています。
怖い……今も敵意を感じています。
心臓が張り裂けそうです。
「あんなぼっちのどこがいいの」
「間違いでしょ」
「だよねー」
そう言って三人でクスクスと笑うと、どこかへ行ったようで気配がなくなりました。
「怖かった……」
言葉は辛かったけれど、何もされなくて良かった。
※※※
午前中より、更に憂鬱な気分で午後の授業を過ごしました。
心労のピークを越えたのか、逆に王子君のことは気にならなくなりました。
ちらちらとこちらを見ている気配はありますが、何とも思いません。
早く帰りたい、ただそれだけです。
やっと放課後になり、帰る準備を始めました。
昨日はそそくさと帰りましたが、今日はキビキビと動くのが辛くてのらりくらりと鞄にものを詰め込んでいると、王子君が私の隣に立ちました。
「藤川さ……」
「ツカサ」
王子君が何か言い掛けたところで、香奈ちゃんが王子君の元へと歩いて来ました。
「椿……何?」
「ごめん、ちょっといい?」
香奈ちゃんはこれから告白をするのだと思います。
王子君はどう応えるのでしょう。
「花ちゃん、バイバイ」
「はい。さようなら」
王子君と目が合いました。
私に何か言いたげな、切なそうな表情をしています。
そんな顔で見ないで欲しいです。
二人が連れ立って教室を出て行く姿を、黙って見送りました。
帰ろうとしていた私ですが、体が……何もかもが重くて動けません。
椅子におしりがくっついてしまったようで、立ち上がれずにいました。
すぐに帰らなくていいや……王子君と香奈ちゃんがいないのなら教室でゆっくりしよう。
机に置いた鞄に手を乗せ、ボーッとすることにしました。
※※※
「あっ」
気がつけば時間が経っていました。
時計を見ると、予想以上に針が進んでいて驚きました。
教室には誰もいなくなっていました。
ボーッとし過ぎました、私も早く帰らなきゃ。
廊下の方は、疎らですがまだ人の姿がありました。
窓の向こうでは運動部の人達が頑張っている姿が見えます。
いいなあ、私もああやって人の輪に入って青春の汗を流してみたいです。
部活に入ろうかと思った時期もありましたが、入ってもぼっちになるだけだと考え直しました。
「はあ……」
溜息をつきながら昇降口に辿りつきました。
早く帰ろう。
帰って録画している『検事・夜明』を見て癒やされよう。
そんなことを考えながら開けた、自分の下駄箱を見て絶句しました。
「なに……これ……」
私の靴が、真っ黒でした。
自然に出来た汚れではありません。
明らかに故意に汚されたものです。
ペンキ?
絵の具?
墨汁?
黒い液体に浸したようにベトベトでした。
下駄箱の中もぐちゃぐちゃで、下まで黒い液が垂れていました。
「……」
私は動けません。
頭に真っ白で、目の前は真っ暗になるような……。
どうしてこんなことに?
感じるのは悪意、敵意。
人の気配がして、ハッと振り向きました。
昼間に見かけたあの三人でした。
すぐに悟りました。
これは彼女達がやったのだと。
「昨日、王子と手を繋いでるところを見たって子がいるんだけど」
「外でまで迷惑かけてるって、どういうこと?」
今までで一番鋭くて冷たい視線が私に集中しました。
『見られてた』
一瞬で体が氷りました。
恐れていたことが起こりました。
可能性は考えていたのに、どう対処すればいいのか分かりません。
怖くて何も言えません。
後退った私を追いかけるように、彼女達が詰めよってきました。
「逃げる気? 黙ってないで何か言いなさいよ!」
「私は……」
どうしよう、どう言えば納得してくれるのでしょう。
必死に考えましたが何も出てきません。
そんな私に三人組は、更に苛々を募らせているのが分かります。
何かひどいことをされたらどうしよう!
思わず体に力が入りました。
「やめなさいよ」
彼女達の後ろから、聞いたことのある凜とした声が聞こえました。
以前絡まれたときと同じ状況です。
現れたのは香奈ちゃんでした。
王子君への告白は、もう済んだのでしょうか……どうなったのでしょう。
表情はいつも通りです。
香奈ちゃんを見ていると、目が合い……にこりと微笑んでくれました。
以前同じ状況の時、香奈ちゃんが助けてくれました。
この微笑みを見てあの時の安心感が蘇り、とても心強くなりました。
「あんた達は何をやっても無駄なのよ。ツカサはその子のことが好きなんだから」
そう言った香奈ちゃんの声は、とても無機質でした。
恐ろしい予感に襲われ、ハッともう一度香奈ちゃんに目を向けると、さっきの微笑みは消えていました。
私を見る目つきも変わっています。
その目は、あの日の屋上のようにとても冷たいものでした。
私は一瞬で全身の血の気が引きました。
「は? 何言って……」
さっきまでは怒り一色だった彼女達の雰囲気が変わりました。
頭の上に大きなハテナを浮かべて、きょとんとしています。
「本当よ。私はツカサに告白したけれど『好きな子がいる』ってフラれたわ。『花ちゃんでしょう?』って聞いたら『そうだ』と言ってたわ」
香奈ちゃんの言葉を聞くと、彼女達の頭上のハテナは消えました。
今は困惑に満ちた顔を、私と香奈ちゃんに向けています。
「え、でも……こいつ、王子に嫌われて……」
「嫌ってたんじゃなかったのよ。その子はツカサにとって『特別』だから。特別すぎて話が出来なかったのよ。……笑っちゃうわよね」
言い終わると、香奈ちゃんは俯いてしまいました。
泣いているのでしょうか。
それとも怒っている?
また体調が悪いのなら心配……。
「香奈ちゃ……」
「触らないで!」
腕に触れようとした私の手は、たたき落とされてしまいました。
驚きとショックで固まっている私を、香奈ちゃんが見ました。
私を真っ直ぐに見た香奈ちゃんの顔は悲しみに歪んで……泣いていました。
「良い気分でしょ? 皆に好かれてるツカサに好かれて! さぞ鼻が高いでしょうね!」
「私はそんな!」
涙ながらに向けられる厳しい言葉が、私の胸を刺します。
香奈ちゃんはそんな風に私を思っていたの?
声を荒げたせいか、香奈ちゃんはどんどんヒートアップしていきます。
「こんな目に遭ったって……虐められたってツカサに好かれてるんだから、あなたは勝ち組よねえ!? あなたが泣きつけば慰めて貰えるわよねえ!? 味方して貰えるわよねえ!? ツカサに貰った栞だって、私に自慢したかったんでしょ!!」
「違います! 私は……!」
香奈ちゃんの目からは涙が零れ続けています。
それを見ていると胸が締め付けられます。
自分の想いを分かって欲しいのにちゃんとしたことを言えず、『違う』としか言えない私はなんて馬鹿なのでしょう。
「椿? ……藤川さん?」
言い争いをしている私達に目を向けている人達が増え始めたところで、更に注目度を上げてしまう人が現れてしまいました。
なんで来ちゃうの……。
「何だこれ……誰がこんな……」
王子君は、私の真っ黒な靴を見て顔を顰めました。
犯人を探しているのか、周りに鋭い目を向けています。
まるで私のために怒っているようです。
やめて……そんなことをされたら、また私は誰かに……皆に嫌われてします。
私が何をしたのでしょう。
私は何もしていません。
何かしているのは王子君です。
彼が起こした波が、私を掻き乱していくのです。
香奈ちゃんだって、お友達になりたいのに……。
……もうやだ。
「藤王君のせいですから」
気がつけば声を出していた。
頭はもう、正常に動いていません。
それでもいいや、今はそう思っています。
王子君を見ると、彼は驚いた顔で私を見ていました。
全く気がついていなかったの?
私はこんなにも振り回されているのに。
段々怒りが込み上げてきました。
腹が立ちすぎて、綺麗な顔を見ていると涙が出てきました。
「私は透明だったのに。誰にも見えていない空気だったのに。だから友達はいなくても、何事もなく静かにいられたのに。藤王君が私に冷たくするようになってから、私は『あの藤王君に冷たくされてる奴』って周りから冷ややかな目で見られるようになりました!」
「え……」
ショックを受けている王子君の顔が見えます。
でも私の怒りは収まりません。
涙も止まりません。
「冷たくされるのが終わったと思ったら、今度は妬まれて! もう嫌……もうたくさんです! 私に関わらないで! 私は空気でいたいんです! 私は……」
人が沢山見ているし、皆驚いている顔をしているけれど……もういいや。
もう我慢の限界です。
私は息を吸い込み、全力で……心の叫びとしてぶつけました。
「私は、藤王君なんて大嫌いです! 構わないでください!!」
私の叫びは辺りに響きました。
本当に大嫌いかどうかなんて分かりません。
でも、そんなことも今はどうでもいいです。
こんなに泣きわめいて恥ずかしいと思う反面、『すっきりした』と思っている自分がいます。
王子君は目を見開いて固まっていました。
「……あ」
気がつけば、ギャラリーが予想以上に増えていました。
私の後ろにも人の目がたくさん!
すっきりしたところで少し冷静になると……これは恥ずかしい。
ああ、恥ずかしい!
今までこんなに注目されたことはありません!
はわああ、私……とんでもないことをしてしまったのでは!?
逃げよう……もう誰も私を見ないで!
「待って!!」
ギャラリーの目を抜け、帰ろうとする私を王子君の大きな声が止めました。
「ごめん、頭が追いついていないんだけど……これは俺のせい? 藤川さんが泣いてるのは俺のせい?」
大きな声に驚き、一瞬足を止めましたが……王子君と話をしたくありません。
このまま帰ろう……。
「俺が藤川さんを好きだから、迷惑かけてるってことですか!!」
「!?」
さっきよりも一際大きな声が、私を止めました。
あまりにも大きな声で、遠くまで聞こえていそうです。
うわああああ何を言うの!!?
こんな大勢の前で!!
「……ごめん。だからって、『藤川さんが好き』っていうのを我慢するのは無理だから! こういうこと無くなるようにするから! 守るから!」
「もうやめてっ」
ざわつき始めた周囲を見て、居たたまれなくなりました。
慌てて止めようと振り向くと、王子君と目が合いました。
彼は私を意志の強い真っ直ぐな目で見据えています。
「待ってよ王子……嘘でしょ? こんな地味でぼっちな奴!」
三人組の一人が王子君に詰めよりました。
ああああ、その話を私の目の前でしないで!
辛すぎます!
「ぼっち?」
「友達いないような、どうしようもない奴よ!」
ハハ……これには涙は出ません。
乾いた笑いしか出ません。
その通りだけど、こんな公衆の面前で公開処刑しなくてもいいじゃいですか!
王子君は、私がぼっちだと知らなかったのでしょうか。
『好き』と告白した人がぼっちだなんて、恥ずかしいと思います。
さっきは大嫌いと言ってしまったけど、少し申し訳なくなりました。
「それって……最高なんですけど」
「え?」
周りの声が重なりました。
皆の頭にハテナが乗っています。
でも多分、私の頭上のハテナが一番大きいです。
皆の視線を受けながらも、王子君は普段通りの感じで口を開きました。
「それって、誰にも邪魔されないってことだろう? 藤川さんを俺が独占出来るってことだろう?」
……あれ、不思議だな。
こんなに人がいるのに、凄い静かだ。
誰一人口を開きません。
『絶句』という状態でしょう。
王子君は周りが見えていないのか、私が弱い『あの微笑み』を浮かべ、言いました。
「ずっと俺と一緒にいよう」
まだ誰一人口を開きません。
皆はどう思ったのでしょうか。
私は……。
はあ、もうやだ。
こんなのずるい……ずるいよ。
ぼっちの私とずっと一緒にいたいだなんて、変な人だなあ。
収まっていた涙が、またじんわりと込み上げてきました。
何の涙かは分からないけど、これ以上人前で泣くわけにはいきません。
「藤川さん?」
「やだっ!」
もう知らない!
くるりと回れ右をして、呼吸を整えると……上履きのまま全力で走って逃げました。
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