木苺と少女

TKMR

木苺と少女


小鳥たちの囁くような囀り、緑が一面に広がる草陰では、野うさぎが駆けずり回る。自然の宝庫でもある森の奥にひっそりと佇む一軒の小屋からから、侘しげな音色のショパンのエチュード第3番ホ長調『別れの曲』が聞こえてくる。


甘い木苺の香りを漂わせた、ブロンドの、何の穢れもなき透き通った白い肌をした幼い小さな演奏者。何の感情も示さずに、辿々しく小さな指を鍵盤に優しく這わせる。演奏を終えても、拍手をして褒めてくれる人は誰もいない。一人寂しく森の奥にぽつんと佇む小屋の中で、今日も少女は眠りにつくのであった。そんな彼女が、いつも朝になると、家の前に何者かから届けられる焼きたての抵抗がないほど柔らかいパンに、木苺を挟んだらどんなに美味しいだろうかと想像し、行動に移すべく小屋を出た。今日も太陽の光が木の葉の間を通り抜け、少女のブロンドの髪を一層輝かせた。その瞬間、ふわりとしなやかな風が少女の耳元をすり抜ける。


((こっちだよ))


少女は確かに、風が耳元を通る時、彼女に語りかけた風の声を耳にした。何も恐れることなく、少女はその風の吹いた道のりを小走りで辿る。無我夢中で追いかけていると、小さな煉瓦で作られた建物に辿り着いた。こんな場所を今まで見たことがなかった少女は、眉をしかめる。手書きの看板には、((ようこそ、さぁ中へ))と書かれており、少女のことを待っていましたと言わんばかりに風が、看板をゆらゆらと揺らしている。少女は引き込まれるかのように、そっとドアを2回ほどノックし建物に足を踏み入れる。


「誰かいるの?」


部屋からは返事が返ってこなかった。暖炉で薪が燃える音と置き時計の針がチクタクと進む音、そしてオルゴールの優しい音色が少女に安堵をもたらす。怪しい場所ではないのだと分かった。少し奥に進むと、数え切れないほどの美しい女の子のドールが飾られている。少し埃をかぶっているが皆、綺麗な艶やかな髪をしていて、何処かの国のお姫様のようなドレスや髪飾りをつけている。青く透き通った瞳は、このドールが本物であるかのように思わせる。こんなに美しいドールを初めて目にした少女は、目を輝かせ口を開けたままドール達の虜になっていた。すると、一つの人形と目があったように感じた。ショートヘアの焦げ茶色の髪をした、少し頰にそばかすがある女の子のドールに釘付けになる。友達も家族もいない少女は、このドールと友達になれたらどんなに幸せか想像した。少し開いていたドアから隙間風がすぅっと吹き込む。


((彼女に口づけを))


その瞬間に、少女は操られたかのようにそばかすのドールと接吻を交わしていた。はっと気づいた時には、目の前のドールはゆっくりと瞬きをし少し口角を和らげた。少女は、驚きよりも願いが叶ったことに対しての喜びで涙を流した。ドールは、ゆっくりと立ち上がり少女に向かい、



「私はベラ、よろしくね」



と微笑み、少女を優しく抱きしめた。背丈は少女とほとんど変わらず抱きしてめくれた身体には生きている温かみがあった。彼女たちは、手を握り少女は自分の家にベラを招待した。帰り道に摘んだ木苺を、ふわふわのパンにサンドして一緒に甘酸っぱい味を楽しんだ。夜中、少女は興奮と友達ができた喜びで中々寝付くことができなかった。


それからベラと少女の奇妙な共同生活が始まる。彼女たちは、毎日一緒に外へ出かけ動物たちと戯れ、焼きたてのパンを頬張り、その後には心地よい日差しの中、柔らかな風に吹かれつつハンモックに揺られ静かに眠った。目を覚ますと、決まってベラは少女のピアノの演奏を聴きたがった。初めてベラが、少女の演奏を聴いた時


「貴方はなぜ、こんなに美しいものを弾くことができるの」


と尋ねた。少女は、少し悲しげな顔をして微笑み


「昔、一緒に住んでいたおばあちゃんが教えてくれたの」


と答える。少女は、昔祖母と暮らしていた。彼女の祖母が作る焼きたてのパンは、小麦粉の香ばしさをそのまま残し叶うものは他にはないほどだった。そして、毎日2人でピアノを演奏して幸せに暮らしていた。そんなある日、体調がここ最近よくなかった祖母は少女と最後の1日を過ごし、皺々の震える手で少女の小さな手を握りしめ、


「おばあちゃんには、もうすぐお空からお迎えがくるの。でも、あなたなら大丈夫、私の孫だもの。少しの間、1人で寂しい思いさせてしまうかもしれないけど、悲しみに負けず、あなたを迎えにきてくれる人を待つのよ。ごめんね」



その時も風が少女の耳元を掠めた。それから少女は、毎日言われた通り1人でピアノの演奏も欠かさず誰かの迎えが来るのを待ち続けていた。そこで少女は、待ちきれなくなってしまったのかもしれない。


「私の迎えが来る前に、私があなたを迎えに行ったのかもしれないね。ベラ、私には貴方しかいないの」



少女には、祖母の最後の別れの日から弱みを見せる相手がいなかった。その日から、時が経ち今、ようやく甘えられる相手を見つけたのだ。少女の涙を人差し指で拭い、ベラはそっと少女の額に口づけをした。


そして、とある日ベラと2人で作ったキノコのスープを啜りながら少女は問いかけた。


「ベラの他にもいたドールたちも、あなたのように動けるの?」


「動けたとしたら、貴方はどうするの。私を捨ててしまうかもしれないわ。」


不安げな蚊の鳴くような声でベラは答えた。


「そんなことないわ。私には貴方だけ。ずっと側にいるわ。」


少女は、ベラの瞳をじっと見て答えた。まだ幼い少女は、この後の結末を少し足りとも想像はしていなかった。


朝、ベラといつものように少女は木苺や花を摘みに出掛けた。お互い収穫することに夢中になり、距離が自然と離れていった。少女は、気づいた時にはベラと出会った煉瓦の建物の近くまで来ていた。無意識だったので、どうやって辿り着いたのかは覚えていない。しかし、他のドールのことが気になってしまい、扉を開け立ち入った。前回と全く変わらない暖炉や時計の針やオルゴールの音。変わったことと言えば、ドールが飾ってあった棚からベラがなくなっていることくらいだ。しかし、ベラのように生気を感じられず何の反応も見せない。ベラが心配すると思い、建物から去ろうとすると扉の前に彼女が立っていた。吹き込む隙間風が少し冷たい。


「ベラ、違うの。たまたまここへ辿り着いたから...ごめんなさい。」


これは真実だ、嘘偽りはない。


「いいの、謝らないで。貴方は何も悪くないわ。」



隙間風は、ベラの短い髪の毛をくすぐる。悲しげな表情をしたベラは、そっと少女に歩み寄る。


「私は、何故ここにいたか覚えていない。けれどここには近寄らないほうがいい気がするの。私は何か大切なことを忘れている気がするわ」


風はベラの香りをふわりと運ぶ。時が静止したように感じた、時計の針は秒針を進める。


「あなたと共に生きていきたい。2人でここから、この森から逃げ出そう」


少女は、この瞬間ベラがいればもう他には何もいらない。一生彼女のためにこの身を捧げようと誓った。通り抜ける風が耳元で囁く。


((彼女に誓いの口づけを))


少女は、あの時と同じ感覚に誘われベラを見つめゆっくりと、少し触れるくらいの口づけを交わした。ベラの睫毛が少女の瞼をくすぐる。彼女は、その瞬間全ての記憶を取り戻し絶句した。時は既に遅かった。


ぱたん。


ゆっくりと、少女の身体が崩れ落ちる。目を開いたまま動かない。少女の表情は、どこか儚げで微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見えた。少女はドールのように、ピクリとも動かなかった。


ベラは、もの悲しげに少女を見下ろす。ゆっくりと跪き、少女の手の甲に唇をつける。そして、そっと抱き抱え、一つだけ空いていた場所に少女を並べる。他のドール達よりも一段と少女は美しかった。


「ごめんね」


ベラと名乗る少女は56年前に同じ出来事を経験していた。小屋で暮らす彼女は、同じようにドールに唇を落とし、命を吹き込んだ。そして幸せな日々を2人で過ごそうと誓ったのだ。この森は迷いし少女を導き、呪いをかける。一時的な幸せと代償に、少女たちの魂を貪るのだ。



何かよくわからない黒い大きな影がベラを覆う。彼女は、震える足を引きずり後退る。風が悪魔のような笑い声を上げていた。繰り返される悲劇に目を背けるようにきつく目を閉じ、黒い影はそばかすの少女を一瞬にして飲み込んだ。床には、ブロンドの少女のために編んだ草冠がぽつんと転がっていた。

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