第13話 イヌ

 ペコが飛び出す原因となった子犬は、生後二ヶ月ほどの雑種だった。


 千葉県の谷津干潟と言えば、鳥見バードウォッチングのメッカで、カモ類、サギ類、ウ、カモメ類、シギ類、チドリ類などが見られる。

 そういうサークルに入っていた俺は、その日メンバー数人とそこへ行ったのだ。

 もともと見るだけで手に取れない鳥よりも、トビハゼや貝類などを期待していたのだが、谷津干潟は防波堤のような場所。水面までの高さがけっこうあって、あまり生物観察は出来なかった。

 セイタカシギだかアカエリヒレアシシギだかという、けっこう珍しい鳥が来ていて、それを見ることの出来た先輩たちはご満悦。

 目的を達成したことで、割と早めに切り上げ、俺達は先輩の車に乗り込んだ。腹も減ったし、大学近辺まで戻ってから晩飯でも食おう、と相談していた時のことだった。

 初夏にはまだ早い時期だったと思う。夕方の四時は回っていたと思うが、日は高かった。

 歩道のない狭い道を、小学生の列が並んで歩いているのが見えた。


「おや。あれ、何だ?」


 運転している先輩が呟く。

 小学生たちが、足元に何かじゃれつかせながら歩いているのだ。

 それは、ころころ太った子犬だった。

 千切れるほど尻尾を振り、転がるように駆けながら、小学生に踏まれそうになりつつ、子犬は走っている。


「あっぶねえなあ……」


 夕方であるから、車通りは多い。

 渋滞の列が続く中、子供たちは完全に子犬に気を取られていて、時折車道にはみ出しつつ、なんとか車に接触しないで歩いている様子だ。

 その時。わずかに渋滞が解消し、前を走る車が速度を上げた。

 子供たちは、すっと道の端に避けたが、子犬はそんなこと分かりはしない。

 天然のオフサイドトラップだ。前の車は、子犬の下半身を、ぷちっと踏み、そのまま走り去った。

 踏まれた衝撃でもんどり打って、子犬は道路脇の用水路へと落ちていく。


「止めてください!!」


 思わず口をついて出たのは、何故だったか、俺にもよく分からない。


「え? お、おう」


 先輩は横道に車を入れて停めてくれた。助手席に座っていた俺は飛び降りると、子犬の元へ駆けた。

 たぶん、助からない。そう思った。

 腰から下を間違いなく踏みつけ、乗り越えていった車。

 悪くすれば即死。いや、運が良ければ、か。あれで生きていた方がつらいかも知れない。場合によってはとどめを刺さなければならないか……そんなことを思いつつ、水のない用水路をのぞき込むと……子犬はきょとんとした顔で、こちらを見ていた。

 水はほとんど無かったが、泥が堆積していてクッションになったのか、見た目何もケガしているようには見えない。ただ、歩けはしないようで泥の中にうずくまったままだ。

 温和しく俺の腕の中におさまった子犬は、白と茶色、黒の混ざった、毛足の長い雑種犬だった。アニメのタヌキっぽい模様だが、あんなにコロコロしてはいない。

 だが、妙に愛嬌があった。


「おじさん、それどうすんの?」


 見上げると、用水路の縁に、さっきの小学生たちが並んでこちらを見ている。


「これ、誰かの犬?」


 と聞くが、誰も返事はしない。


「車に踏まれちゃったの、見てたんだろ? なんでこんなとこ歩かせたの?」


 思わず責めるような口調になってしまったせいか、小学生たちはさらに神妙な顔になって、誰も口を開こうとしなくなってしまった。


「君らも、危ないから帰んな」


 車から降りてきた先輩が、優しい口調で言うと、子供たちはクモの子を散らすように走り去ってしまった。もちろん子犬は置いたまま。薄情なモンだ。


「おい、その子犬……どうする?」


「放ってはおけんでしょう。動物病院まで、送っていただけませんか」


 先輩は少し戸惑い気味だったが、俺の覚悟は既に完了していた。

 どうなっても、コイツの面倒は最後まで見よう、と。

 『縁』ってヤツがある。

 縁のない相手とは、どんなに思い合っていても金輪際会えはしないが、縁のある相手とは、どんなに嫌っていても、何かとどこかで顔を合わせる、あの縁だ。

 生き物と人間の間にも縁がある、と俺は実感している。

 関わり合いたい生き物とは別に、べつに求めてもいないのになにかと出会ってしまう生き物ってのがいて、不思議とこちらのふところに飛び込んでくるのだ。

 俺にとって、『ペコ』がそうだったし、この子犬もそうだった。いや、このエッセイに紹介している生き物の大半がそうなのかも知れない。

 中には『縁』というより『呪い』に近い巡り会いもあるが、それも人生。

 当時そこまで達観していたわけではないが、何故か心の奥底の部分で、この子犬とは縁があったのだと感じていた。


 レントゲンを撮った獣医師は、少し困惑していたように思う。


「本当に車に轢かれたの?」


 と、何度か聞かれた。内臓に、少しの損傷もなかったのだ。

 だが、よく画像を調べると、腰骨にいくつものヒビが入っている。とはいえ、足の骨にも異常はなく、損傷はそれだけだった。

 獣医師の説明はこうだった。

 おそらく、タイヤはうまいこと腰骨だけを踏んでいったに違いない。一瞬タイヤに押されて、腸などの大事な器官は移動したかも知れないが、損傷はしなかった。

 子犬の骨というのはまだ完成しておらず、腰骨も柔らかく隙間があった。だから、アコーディオンが元に戻るように、元の形に戻ったのだろう、と。


「子犬だったのが幸いしたんだねえ……」


「で……あの? 治療は?」


「なるべく動かさないことだね。後足で立ち上がったりしないように、天井の低いケージに入れて、歩かせないように。二ヶ月もしたら完治するだろう」


 大手術と、それに伴うとんでもない出費を覚悟していたのだが、なんとも肩すかしな結果となった。

 そして自室に連れ帰った直後、俺はペコと悲しい別れをするわけだが、この子犬のおかげで寂しさは無かった。

 それどころではない。イヌとネコではパワーが違う。食欲が違う。うるささが違う。

 実家でイヌは飼っていて、大丈夫なつもりだったが、この子犬にはかなり圧倒された。獣医師の言う通り、自由に動けないように段ボールとガムテープでケージを作ったのだが、作っても作っても、翌朝には脱出して外にいる。

 これは、ケージを破るために暴れる方が腰に悪かろうと、結局数日で子犬は野放し状態になった。

 トイレはなんとか覚えてくれたものの、正直、ペコよりは覚えが悪かった。

 というより、明るすぎ、フレンドリーすぎて、他のことが目に入らなくなる感じか。頭が悪いのではなく、集中力がないのだ。

 そうそう。子イヌはメスだったので、当時大好きだったAV女優、森村あすかから名前をいただいて『アスカ』と名付けた。

 一ヶ月も経って、ほぼ自由に走り回れるようになると、アスカは本領を発揮し始めた。畳は掘るわ、何でも囓るわで、室内は酷い有様。

 もちろん、キュンキュン鳴くだけでなく、吠えるようにもなってきて、大家にばれるのも時間の問題である。それでも、縁あって引き取った以上、決して放り出すわけにはいかない。ならば、飼い主を募集するしかない、と考えた。それが、誰にも迷惑を掛けない責任のとり方だろうと思ったわけだ。

 だが、ペコの子ネコたちと違って、イヌとなると気軽に引き取ってくれる人はいなかった。

 子ネコたちは先輩や先生のつてで、あっさり貰われていったわけだが、イヌはスペースもいるし散歩も必要だから、そう簡単に飼おうという人はいないのだ。

だが、子イヌのうちに探さなければ、どんどんもらい手は減っていく。やったことはなかったもののスーパーの掲示板やタウン誌の情報欄を使ってみることにした。

 そうとなれば、できるだけ可愛い写真を撮って掲載しなくてはならない。

 幸いにも、アスカはどう撮っても可愛い、と言える器量よしであったが、背景バックがいけない。もともと散らかっている上に、得体の知れない水槽やら、イヌが掘り返した畳やらが写っていては、可愛さ半減である。

 といって外に連れ出して撮影しようとすれば、大家に見つかって即日追い出される可能性がある。仕方なく、とにかくアスカの顔や姿をアップで撮影し、背景がほとんど写らないように工夫した。

 デジカメとかの無い時代だから、現像して焼き増しして配りまくるのも大変だったが、いくつかの情報誌に載せることが出来た。

 そして、連絡は一週間と経たずに来た。

 希望してきてくださったのは、隣町の家具屋さんで、写真を見て気に入ってくれたらしく、すぐに迎えに来てくれた。

 渡す時は、寂しさよりも達成感というか、ほっとした気持ちの方が強かったことを覚えている。死ぬ運命だったアスカを、とにもかくにも終生飼ってもらえそうな相手に渡せたのだから。


 だが、いきなりネコもイヌもいなくなった部屋は、まさに火が消えたようであり、何度か彼等が帰ってくる夢まで見た。

 家具屋さんは、いつでも様子を見に来ていいような事を言ってくださっていたので、すぐにもアスカに会いに行きたかったが、向こうに馴染まないうちに里心を出させては、と自粛した。

 数ヶ月後、当時、自転車が唯一の移動手段だった俺は、二時間の道程を隣町まで飛ばし、アスカの様子を見に行った。

 建物の裏をそっと覗くと、非常階段の下にふて寝をしているアスカがいる。

 もう子イヌといっては失礼なくらい大きくなり、立派な若イヌとなっていた。

 家具屋のおじさんは俺のことをすっかり忘れているようで、俺はただイヌに興味があるので触らせて貰いに来たような振りをして、近づいた。

 アスカは最初、俺が分からないようで少し唸ったが、手の匂いを嗅ぐと、すぐに俺だと分かったようで、尻尾を振って飛びついてきた。

 三十分ほども遊んだろうか。

 元気そうなアスカに安心して、俺はまた二時間の距離を帰っていったのであった。

 それからもう二十年以上経つ。元気で暮らしたとしても、とっくに寿命を迎えてしまったはずだが、縁があればまた会える、と思っていた。

 今、ウチには二匹の雑種犬の姉妹、「サクラ」と「モモ」がいる。

 がさつで明るい黒茶のサクラは性格が、白茶の長毛ですらっとしたモモは見た目が、アスカにそっくりなのだ。

 彼等を撫でてやる時、こっそり「よくうちに来てくれたな。ありがとう」と言っているのを、誰も知らない。

 生まれ変わりもあの世も信じちゃいないが、いつかアスカのような子イヌに巡り会えると信じていたから、こうして彼等がここにいるのだと、そう思っているのだ。


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