青空

「可哀相って何だよ!」

 普段は温厚な俊にしては珍しく語気を荒くして弘美に詰め寄った。

『何よ。そんなに怒ることないじゃない』

 弘美は俊の勢いに気圧されて、そう言い返すのが精一杯だった。

「一生懸命に生きてる人間に対して可哀相だなんて言葉は使うもんじゃないんだ!」

 そう吐き捨てるように言うと、俊は一人で立ち去ってしまった。

 弘美は呆気にとられたままその背中を見送るしかなかった。

 その日以来、俊と二人で会うことはなくなってしまった。

 学校で会った時でもうまく会話もできず、ぎこちない空気が流れてしまう。

 どうしてこうなってしまったのだろう?


 ことの発端はたいして意図したわけじゃない弘美の一言だった。

 いつものように日曜日の昼下がりに俊と裏通りを歩いていたときだ。

 二人はさっき見たばかりの戦争映画の話をしていた。

「オチが見え見えだし、感動を強要されているようでつまらなかったよ」

『そうかしら?』

「そうさ」

『あたしは普通に感動して泣けたわよ。あなたが分析的過ぎるんじゃないかしら?』

「さあ泣けと言われてるような気がしては涙なんて出ないよ。それに、まるであの時代を否定するかのようだ」

『戦争のない時代に生まれてよかったとあなたは思わないの?』

「幸福は比較するもんじゃないし、その考え方は違うと思う」


 また理屈っぽい話になっちゃったなと思っていたちょうどその時だ。

 自動販売機の前で車椅子の少年が小銭を落としてうまく拾えないでいる。

 話題をすり替えようと思った弘美はその自動販売機に近付くと小銭を拾って少年に渡して言った。

『もう大丈夫よ。足が不自由なのね。可哀相に』

 少しいいことをした気分に浸りながら、どう?見直したでしょという気持ちで俊の方を振り返ったそのときだ。

「可哀相?」

 大声で言うと、俊は驚く弘美を押し退けて少年の方へ近付くとこう言った。

「ごめんな。足が動かないだけなのに可哀相だなんて。あいつバカだから気にすんなよ」

『バカって何よ!』

 そう怒ってみせた弘美の腕を掴むと、俊はもう一度少年に「ごめんな」と言い、足早にそこを離れた。

 そして、何が何だかわからないままにああいう展開になってしまったのだった。


 弘美の方から謝るつもりはなかった。

 それは確かに自分にも落ち度があったかも知れない。

 だけど俊のあの態度やバカという発言はあんまりだ。絶対に自分からなんて言い寄るもんか。

 それでも弘美は俊のことを好きだった。

 弘美も成績は優秀な部類だったが俊は飛び抜けて優秀だった。

 ルックスはそれほどでもないし運動も中の上というところなので特に女子に人気があるわけではないのだが、知的で器用で明るい性格の俊の周りはいつも大勢の男子が取り囲み賑やかだった。

 それに俊は差別が嫌いだった。

 決して相手を見て分け隔てしなかった。

 先生に対しても上級生の不良に対しても悪くないと思えば弱いくせに突っ掛かって行ったし、他の男子のように一部の女子に対して菌だとか言うような最低な悪ふざけは絶対にしなかったばかりか度々止めに入っていた。

 しつこい男子達も俊が「つまらないだろ。やめようぜ」と言えばあっさりとやめた。

 まだ引越してきたばかりで方言のきつかった弘美がクラスで虐められていた時に救ってくれたのも俊だった。

 弘美にとってそんな俊は自慢だった。

 少し理屈っぽいところや会話が難しくて理解しがたいところもあるが、そういう部分も含めて好きだった。


 俊は普段は殆ど自分のことは語らなかった。

 そんな俊が一度だけ、「将来は医学的な立場から介護や養護の世界に進みたい」と、まだ夢でありながら確実に叶えられるであろう未来を語ったことが忘れられず、尊敬してもいた。

 それを思い出すたびに弘美はその夢を心から『偉いわねぇ』と言ったものだ。

 だけどいつもその言葉に対して少しも嬉しそうな顔をしない俊を見て、そんなクールな部分も彼の魅力だと思っていた。

 その一方で弘美はいつも自分だけが俊を好きで、俊は自分を好きではいてくれないのではないかと不安に襲われていた。

 弘美はそんな俊の気を引くためにできるだけ人に親切にしようと心がけた。

 知らず知らずのうちに差別もしないように気をつけた。

 そうすることで滅多に笑わない俊が時折見せてくれる笑顔だけが弘美にとっては二人の愛の証だった。


 恋人にまで発展したせいで友達未満になり、すぐ傍にいながら遠く、すれ違う日々。

 きっと別れのきっかけを俊はどこかで待っていたんだ。

 それがあのタイミングの変な形で爆発しただけなんだ。

 いつしか弘美はそう思っていた。そう思うしかなかった。


 そして二人は話すこともないままに卒業式を迎えた。

 式が終わり、みんな口々に談笑しながら親や先生も交えて記念写真を撮影したりしている。

 俊の周りは相変わらず男子が囲んでいて近付けそうにもない。

 どうせ近付けたって写真どころか言葉が出ないんだけど。結局は最後まで話せなかったな。俊の第二ボタンはもう誰かにあげてなくなってるのかしら。

 そんなことをぼんやり思いながら、弘美も一通りの仲の良い友人と上の空のまま記念撮影をすませると母親と家路に着こうとした。

 まだざわついている人だかりの輪を離れ、校門のあたりまで来たところで誰かに名前を呼ばれた気がして後ろを振り返ったが誰もいなかった。

 気のせいか。そう思い門を出たところでふともう一度振り返った。

『ごめん。母さん、忘れ物した。先に帰ってて』

 そう母親に告げると弘美はロータリーの方へと走った。

 遠くからこちらへと人ごみを避けるようにゆっくり歩いてくる俊が見えたのだ。

 実際に前まで行っても何を話せばいいのかはわからない。それでも弘美は走っていた。


 息を切らせて目の前に現れた弘美に一瞬驚いた俊は言った。

「どうした?何か忘れ物か?」

 無意識に制服の第二ボタンを確認している自分が恥ずかしかった。

『あなたに、だ、第二ボタンを貰い忘れたのよ』

 弘美はどうしていいかわからず不意に出た言葉に自分で最悪の気分になった。ようやくの会話がどうしてこうなるのだろう。

 少しの沈黙。お互いに言葉という氷の中からその溶けてゆく意味を探しているようだった。

「別に貰い手がいなかったわけじゃなくて、弘美にとっておいたんだよ」

 俊はボタンを外しそう言うと、あの頃に時折見せてくれたのと同じ顔で笑った。

 そして俊はカバンの中からCDを取り出すと弘美に渡した。

 それはまだ付き合う前に貸したTHEBLUEHEARTSのCDで、弘美自身が貸したことをもうすっかり忘れていた。

「ずっと返そうと思って持ってたんだけど渡せなくて。仕方がないから郵送しようと思ってたんだ。ありがとう」

『ううん。第二ボタンより忘れてたから』

 そう答えた弘美に俊はまた微笑むと、隣の杖を持った女性の手を取り自分の母だと紹介した。


 俊にばかり気をとられて全然気付かなかった自分が情けなかった。だから俊はゆっくりと歩いてきていたのだ。

「目が見えないだけで後は普通さ」

 そう言ってから、弘美の耳元でゆっくり優しい口調で囁いた。

「ねぇ、僕の母は可哀相かい?」

 色んなことを一気に想い理解した弘美は、溢れ出す瞼の滴を止めようもなかった。

『そんな、、こと・・』

 俊が自分のことをあまり話さなかったのも、俊の夢も、偉いわねぇという言葉に無表情だったのも、差別が嫌いなのも、あの日のことも全部。

『ごめん、なさい。ありがとう』

 必死にそう呟くのが精一杯の弘美に、俊は最後にもう一度微笑んだ。

「ありがとう」

 そう言い残し母の手を取り去っていく俊の背中を、弘美はあの日と同じように見送るしかなかった。

 もう二度とは見送れないだろうと思いながら。こぼれ続ける涙を拭いながら。


 返ってきたCDには青空という曲の歌詞のページに付箋がついていて、小さく丁寧な文字でこう記してあった。

「誰かを可哀相だと蔑む気持ちが一番可哀相だよ。君は必ずこの意味がわかる子だと思います。バカって言ってごめん。あれは嘘です。本当に大好きでした」

 曲を聴きながら本当の別れを再確認させるその文字に弘美はもう一度泣いた。


 そんな弘美も三十路を迎えて母となったが、未だにあの曲をたまに聴きたくなることがある。

 介護や養護を偉いということや戦争のない時代で良かったと思うのはおかしいと、今なら色んなことも少しはわかるのになと思いながら。

 あの頃にもう少し成熟していたならば、自分の人生は違うものになっていたのかなと思いながら。

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