時がたてば

『ねえ、事故を起こしてしまったの。どうしよう』

 出掛けに上着を羽織ると昼間には邪魔になるが、羽織らなければ夜には後悔する。

 直哉が恵美に相談されたのはそんな冬も間近な朝だった。

「やれやれ。いつか絶対にそうなると思ってたんだ」

 いい気味だと言わんばかりの台詞に恵美は唖然としていたが、それは口にした直哉も同じだった。

 しまったと思ったがもう手遅れだった。


『そんな言い方することないじゃない!』

 唇を噛み締めながらそう言うのが精一杯な恵美は泣き出してしまった。

 瞬発的に出てしまった自分の言葉に悪意が充ちていたことに直哉は戸惑っていた。

 傷付けようと意図して吐いた言葉を上手く謝ることなんてできない。

 恵美は自分を頼って相談してきたのに優しい言葉をかけたり状況を心配するより先に厭味を言ってしまう自分に対して酷く嫌な気持ちになった。


 直哉と恵美は同い年の地方の国立大学生で、共に親元を離れて一人暮しということもあり気が付くといつの間にか寮暮しの直哉が恵美の部屋に転がり込む形で同棲をしていた。

 直哉は恵美のことを確かに愛してはいたが、その何もかもが好きだというわけではなかった。

 貧しい家庭に育った直哉にとって恵美のいう『普通』というのが常に微妙に引っ掛かり上手く馴染まなかったのだ。

 地方の国立大生というのは田舎の比較的裕福な小金持ちの倅たちが流れてくる。

 その親たちの感覚はといえば、国立大は私大に比較すれば学費が安いので「私学に進んだことを考えれば」車ぐらいは安いものなのだそうだ。

 直哉には仮にそうだとしても国立大に進んだ時点で何故「私学に進んだことを考えれば」という観念が出てくるのかが理解できなかった。

 ともすれば子供に車を買い与える言い訳なのだろうが、たかが二流大学の合格祝いの対価に車というのは高過ぎる。

 そうやって依存症の馬鹿を生産していることに親たちは気付かないのだろうか。

 だけどそんな親たちが「軽自動車だから」とか「中古だから」とかわけのわからない言い訳にもならない理由を取ってつけていることに子供も気付かないで同調し、そのまま得意げに話しているのが日常だった。


 そんな輩が普通とされる中では直哉の感覚の方がズレているのだということは十分に承知していた。

 仕送りの金額自体からして三倍以上の開きがあったし、小遣いの為にバイトする奴はいても自分以外に誰も生活の為にバイトしてる奴なんていない。

 テレビを見ても大学生の一人暮しへの仕送りは十万円が平均であり、それでも国立大なら学費も安いとか伝えている。

 時々はもしかしたら自分がカスみたいだと思う感覚こそが本当に『普通』で別段恵まれているというわけではなく、自分が異常で貧しいだけなのかも知れないと思った。

 だけど直哉は親の手は出来るだけ借りない形で何もかもやるのをよしと考えていた。

 自分の家庭は親が病気で余裕がないのもわかっていたし、それがなくとも頼りたくなんてなかったので、他人を羨ましく思ったりしなかった。

 むしろ馬鹿にしか見えなかった。

 そういった自分の感覚が普通か普通じゃないかは別にして、そちらの方が「正しい」感覚なのだという自信もあった。

 そして恵美だけにはそれをわかってもらいたかったのだ。


 別に恵美にも苦労を強要するつもりなどなかったが、愛する人だからこそ、ただ認めてもらいたかった。

 そのせいで知らず知らずのうちに、どこかそういう価値観の強要を迫っていたのだ。

 まだ若かった直哉には、どれだけわかりあえたつもりの二人でも別々の価値観で育ち、そこに踏み入れる靴など持ち得ないということを上手く理解できないでいたからだ。


「夏休みにバイトをしてお金を貯めるから、秋から一緒に自動車学校へ通おう」

 そう約束して実家へと帰る恵美を見送った直哉は、自分は実家へ帰る電車賃も惜しんで夏休みをバイトに明け暮れた。

 休みも半ばを過ぎるとある程度まとまったお金を用意できるめどもたち、夏休み中の唯一の楽しみだった夜の電話の中で直哉は喜んで恵美にそのことを伝えた。

『なかなか言えなかったんだけど、実は父さんが勝手に自動車学校に申し込みしてて、免許を取りに行ってるの』

 恵美から電話でそう告げられた時に直哉は酷く裏切られた気持ちになった。

「なんだよ?今からでも断れよ」

 無理を言ってることはわかっていたが、それしか言葉が出なかった直哉に追い討ちをかけるように恵美がこたえる。

『そんなの無理よ。でも喜んで。そっちに戻るときには車に乗って戻るから』

 話によると実家に帰った時点で自動車学校の申し込みがされており、軽自動車までご丁寧に買ってあったらしい。

『もう仮免なんだけどね』

 嬉々として話す恵美がなんだかうざったく感じてしまい、そんな自分に気付いたことで直哉はさらに嫌な気持ちになった。

『ねえ、直哉。聞いてる?怒ってるの?』

 どうして愛している筈の彼女が嬉しそうなのにそれを受け止めて一緒に喜んでやれないのだろう?彼女は何も悪いことしてるわけじゃないのに。

 どうしてだろう?

 たいした問題じゃないだろう。笑って流せる程度の約束だ。

 そんな自問自答とは意を反するように直哉は無言のまま電話を切った。わざと音が立つように激しく受話器を置いた。


 そしてその日から夏休みが終わるまで夜の電話をやめてしまった。直哉からかけるのは勿論、かかってきても取らなかった。

 我ながら子供じみていると思った。なんでそんなことを頑なにやるのかわからなかった。自分で自分を制御できていない感覚が心地悪かった。


 夏休みが終わると、恵美は真新しい軽自動車に乗って戻ってきた。

 うまく言葉を切り出せないでいる直哉に恵美は唇を噛みながら『ごめんね』と呟いた。

 哀しいと唇を噛むのが彼女の癖だった。

 続けざまに夏休み中のことを話し、精一杯に明るく振る舞う恵美の姿を見ると直哉は怒っていたこと自体の馬鹿馬鹿しさを感じずにはいられなかったし、謝らせている自分に対して腹も立った。

「こっちこそごめん」

 そう言って抱き合ってしまうと幾分心の重荷は降りたし、ようやくもうこれまで通りで大丈夫だという気がした。


 しかしその後もくだらないきっかけで度々直哉はあのわだかまりがどこか引っ掛かりを残していることを痛感させられた。

 それはふとした時に沸き上がる感覚で、自分でも止めようがなかった。

 一緒に車の助手席に乗っている時に、急に「自分は彼女に車に乗せてもらっている」という妙な劣等感や嫉妬感のようなもので締め付けられ彼女に冷たくしてしまう。

 それが下世話でつまらない感情であることがわかるだけに余計自己嫌悪になる。

 直哉はそれが嫌で「祭は混んでいるから」「恵美の運転は下手だから恐いよ」などと理由をつけ、なるだけ恵美と一緒に出掛けるときは車を避けるようになった。

 そしてあの朝、またも直哉は恵美に対して冷たい仕打ちをしてしまったのだ。


 恵美は幸い無傷だった。

 事故といっても狭い道で停車していた車に対してすれ違い際に低速で一方的にぶつかったもので、物損だけで済むものだったからだ。

 相手方の車両に対しては保険がきくし、こちらの修理も板金屋で五万円も出せば充分な程度だ。

 本当はまず彼女の身体を心配していたにも関わらず、厭味が口を突いてしまったことが情けなかった。

 直哉はそれ以来、出来るだけありのままの恵美を理解しようと心掛けたが上手くはいかなかった。

 恵美が『価値観の違い』という言葉を頻繁に口にし始めたのはそれからだ。

 結局直哉が自分を上手くコントロールでき始めたのは自分も免許を取り、ボロボロの軽自動車を買って形の上での「対等」を気持ちに変換してからだった。


 考えれば考えるほどに恵美は素直なだけであったし、直哉はそんな恵美を愛していた筈なのに、酷くつまらない理由が二人に溝をつくり影を落とした。

 しかし、それは、であるように思えた。

 世の中は何が普通で正しいかということではなく、それぞれの正しい価値観というエゴで動いている。

 それを互いに強要することも受け入れることも本当の意味では酷く困難なことだ。

 簡単なことだが理解するまでに随分と時間がかかるものだ。

 だから恵美が他の男の元へ行ってしまうのを今度は直哉が受け入れるしかなかったし、その男が恵美と遊びでしかないことがわかっていても引き止める言葉なんてなかった。

 そして二人は別れた。


 時がたち、直哉には、はっきりとわかったことがある。

 それは二人がしっかりと見つめ合っていたということだ。

 二人は互いを全力で否定して傷付けてしまえるぐらいに見つめ合っていた。

 自分は本当は免許や車やそんなものが理由ではなく、それをオブラートにして、本当はもっと奥底の致命的で決定的な核心を素手でわしづかみにしていたのだ。

 恵美が「価値観の違い」と呼んだそれは、絶対に受け入れられない、譲れない、別々に歩んだ人生の重みそのもので、誰とも交われない線なのだ。

 掛値なしでエゴを振りかざし、免許や車や何かを身代わりにしては二人の違いを責めることで確認する。

 そんな日々に疲れ果て別れたけれど、それほどまでに見つめ合っていなければ、今も尚、断片的に台詞までカラーな思い出とはならなかっただろう。

 幼いやり方だけれど、あれは本当に愛し合うということを教えてくれた季節だったのだ。

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