博士を乱した数式
博士は今では自分の仕事に誇りを持っていた。
最初はその仕事が嫌で嫌で仕方がなかったのだが、次第に好きなだけ研究をしてお金を貰えるなら悪くはないと思うようになった。
そしてそのうちに博士は研究に、つまりはその仕事に熱中するようになった。
元が器用貧乏なのだ。
成績は満遍なく優秀だったが特に飛び抜けた才能や興味がある分野があるわけではない。
どんなスポーツをやっても努力せずに普通の人より飛び抜けてできるが、できる人間の集まりの中では努力と熱意という要素の不足から普通のできる人間として埋もれてしまう。
大成しないプロスポーツの選手がそうであるように、博士もまたそれがスポーツではなく勉強であるだけの話だった。何かの役に立つわけではないただの勉強である。
中の下ならば上を見て暮らせばいいが、最上の下という位置は何処にも行き場がなく何かを眺めることすら困難な位置だった。
日本のトップと呼ばれる大学に何の苦労もなく入り、何となく大学院へ進み、修士課程を終えてからも勉強以外に取り柄はないからとさらに博士課程へと進み、助手、助教授となって気付いた頃には人生の半分を大学で過ごしていた。
助教授より先は上昇志向のかたまりでなければ上がっていけない領域なので、周りの助教授連中には常に謀がうごめいていた。
そういった要素が決定的に欠けている博士は出世争いには無頓着だったが、このまま大学に残って研究を続けていてもきっと教授になれるのは引退の寸前に数年だけのお情けだろうということにはさすがに気付いていた。
博士が今の仕事に出会ったのはちょうどそんな時である。
ある日、博士と白井は教授に呼び出された。
『君達、民間で研究職につく気はないかね?』
やんわりとした口調とは言え、それはこの世界における博士と白井にとっては世間で言うところの「リストラ」のようなものであった。
白井は博士より一つ年下の助教授である。
出世争いに無頓着なのは博士と同じであったが、彼は機を見て敏な性格である上に好戦的で頭も抜群に切れた。
実際、白井の論文は彼の名前ではなく教授の名前で発表されていたが、学会でその評価はすこぶる高く、彼がその気になれば簡単に教授の座は奪えただろう。
博士は出世に対する意欲がなかったが、白井の場合は出世争いという次元の低い闘いに興味がなかったのだと思われる。
だから、二人同時のリストラとは言っても博士の場合は文字通りのクビであるが、白井の場合は教授にとって自分より優れた奴に見下されているような居心地悪さが少なからず手伝ったと噂されている。
『ええ、わかりました。今までありがとうございました』
先に口を開いた白井は仕事の内容も確認せず何のためらいもなくそう返事した。
『で、君はどうするんだね?』
教授がそう目配せしてきたが、博士は戸惑っていた。そんなもの条件による。当たり前である。
「その、民間の研究というのは一体何の?」
博士がそう尋ねると、教授は『心配はいらん。その業界では世界トップの企業じゃよ』とだけ答え、こちらの返答を待っているようだった。
『少なくともここでマンネリな日々をじゃれあって暮らすより、よっぽど面白そうじゃないですか。ねぇ?』
白井は考えている博士をそう促すと、教授にその就職先の案内をコピーさせてくれと頼み、部屋を出て行ってしまった。
博士もここに残され、捨て台詞の漂う気まずい空気はたまらないと、教授に何の返答もしないまま白井の後に続いて部屋を出た。
就職先はゴキブリ駆除をメインとした殺虫剤メーカーの研究所だった。
『では、合否を連絡しますのでしばらくお待ち下さい』
待合室の目の前には○と×の札が掛かった扉がある。
生まれて始めて就職活動をした博士は緊張で面接時に声が上擦ったが、白井はそんな様子を微塵も見せていなかった。
名前が呼ばれ博士は×の札の部屋へ、白井は○の札の部屋へ通された。
『ああ、×の札なんてあからさまに不合格だ、明日から無職でどうやって男手一つで娘を育てればいいのか』
憂鬱な気持ちだった博士だが、結果は意外にも合格で即採用ということだった。
『成る程、外からでは誰が合格で誰が落ちたかをわからなくするカモフラージュの札なのか』
そのように考えた博士は、少しばかり白井の行く末を哀れんだ。
待合室ではあんな顔をしていたが、白井だって失敗することはあるのだ。今まで大学のぬるま湯で純粋培養されてきたのだからしかたあるまいと。
それからの博士は毎日毎日大量のゴキブリを殺した。
最初は金のために嫌々だったが、次第にゴキブリをいかに効率よく殺す薬品を調合するかの研究にのめり込んでいった。
博士には他界した妻との間に一人娘がいた。
ある日、博士は家で娘と食事をしている時にポツリと呟いた。
「どれだけ強力な新しい薬品を開発してもすぐにゴキブリは耐性を身につける。まったくあの生命力というか進化には恐れ入るよ」
『あら?当たり前じゃないの』
娘はテレビを見ながらこともなげにそう言う。
「何が当たり前なんだい?」
博士は正直に疑問を口にするが、娘は相手にしないという感じでこう言った。
『あなたは結局、何もわかっていないのよ』
妻にも同じ台詞を言われた気がする。娘は十代でまだ幼いが、この頃は生きていた頃の妻に非常に似てきたようだ。
テレビを見終わると、娘は食べ終わった皿を台所に運びながら言う。
『さっきのニュースを見て、あなたは何も思わないの?』
さっきのニュースというと、警察官が凶悪犯罪を犯していた事件だ。
「最近は警察官も信用できないね」
博士がそう言うと、
『もう、違うわよ。ソニー・タイマーって、あなた知らない?調べてみれば?』
娘はそう言うと溜息をついて台所へ消えてしまった。
まだ娘が幼い頃に妻は亡くなったのに、細かい仕草の一つ一つや台詞まわしまでこんなに似てくるものなのかと博士は感心した。
ある夜、遅くまで新薬の研究に没頭していた博士は、帰宅してからうっかり研究所の鍵をかけ忘れたことに気付き会社に戻った。
研究所の入口にカードを読み込ませ、ロックをする。
博士の研究所の隣にはもう一棟同じ造りのこの会社の研究所があるが、まだあかりが漏れていた。
そういえば、博士は会社の中で自分に与えられた役割をこなしてはいたが、隣の研究所では何が研究されているのかを知らない。
相互の研究には干渉しないように、というのが会社の命令なのだ。
『あなたは結局、何もわかっていないのよ』
妻に似た娘の言葉が脳裏に甦る。
フェンス越しに隣の研究を覗き見ようとしたが、ゴキブリと薬品が見えるだけで何をやっているかまではわからなかった。
きっと同じような研究をさせてこちらと競合させているに違いない。その方が効率がいいのだろう。近頃では効率効率とどこの業界でもうるさいものだ。
そんなことを考えながら、博士がフェンスを離れようとしたところ、近くの草村でガサガサと音がした。
手にしていた懐中電灯で照らすと、酷く焦りながら何かを隠す我社の研究用の制服を着た人間がいた。意外な人物との再会だった。
「白井!」
『ああ、先輩ですか。久しぶりです』
安堵した表情を見せた白井は、何かを必死で隠すのを諦めた。それは大群のゴキブリだった。
成る程、わかったぞと思った博士は諭すように言った。
「なあ白井、お前がこの会社に落ちて恨みがあるのはわかる。どこで制服を手に入れたのか知らないが、その制服でネタをまいてわざと見つかることで会社の評判を落とす気なんだろう?悪いことは言わない、誰にも秘密にしといてやるから馬鹿な真似はやめて帰るんだ」
ポカンと口をあけたまま話を聞いていた白井は、博士が話し終わると笑いながら言った。
『先輩、違いますよ。あの日に面接に落ちたのはてっきり先輩の方だと思ってました。だって○と×の札ならどう考えたって・・』
博士は真っ赤に頬がほてるのがわかった。これが昼じゃなく夜でよかったと思いながら、取り繕うように言う。
「そ、そうか。そりゃそうだ。じゃあ、君はそこで何をやっていたんだね?」
『やだなぁ。決まってるじゃないですか。先輩の食いぶちをばらまいてるんですよ』
「?!」
『ああ、そうか。知らないはずですよね殺虫班の方は。だから会社が相互研究を禁止しているんだし。今の話は忘れてください』
白井はそう言うと隣の研究所に帰ろうとした。
「ちょっ、待て、じゃあ次々にゴキブリが増えて進化してるのは・・・」
博士がそう言うと、白井は振り返り『その通り。ゴキブリがいなくなったら殺虫剤はいらなくなるでしょう』と言い残し隣の棟へ消えた。
『私は結局、何もわかっていなかった』
博士はそう呟いたが、ゴキブリが闇に消えるように言葉も闇に溶けていった。
犯罪者を生み出す警察、病人を生み出す病院、感動や怒りを捏造するテレビ、外気をより暑くするエアコン、茶番でしかない戦争と政治、生きていくためのサイクル。
『あなたは結局、何もわかっていないのよ』
ソニー・タイマーという言葉を調べてみると、ソニーの家電製品がある一定期間で壊れ易いことを示すとある。
あたかもタイマーが仕込まれていて、買い替えの時期を報せるかのように。
そういえば博士は大学で助教授をしていた時に、壊れない車を製造する技術は以前からあるが、それは実現しないだろうと聞いたことがあった。
一体この世の何処までが本当の自然なのかが博士にはもうわからない。
だけど博士は今日も隣の研究所で新しく改良された強靭なゴキブリに効く、強力な殺虫剤を開発している。
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