トウロウ

安里 夜

トウロウ

 僕と妻には二人だけの秘密がある。


 あれはまだ僕と妻が付き合い始めた学生の頃で、虫の音が鳴り止まない秋の終わりの夜だった。

 彼女の部屋で何かの深夜番組が、川辺に燈籠を流し、死者を敬う儀式をやっていたのを二人で見ていると、彼女が突然言い出したのだ。

『ねぇ、私たちも川で何かを流しましょうよ』

 既に風呂にも入り寝巻きに着替えていた上、明日は朝早くからバイトもあったので僕はあまり気が進まなかったのだが、彼女がどうしてもやりたいと言ってきかないので僕らは夜中に川へと向かった。


 家から一番近い川は森林公園になっている山のふもとで、車で十分ほどの距離にある。

 渋々だが彼女の車に乗り込んだ僕は、流すものを何も持っていないことに気づいて取りに帰ろうとしたが彼女に止められた。

『そんなもの、何でもいいのよ。その場にある、虫でも草でも、何でも。流すことに意味があるの』

 彼女はそう言うとさっさとエンジンをかけ、山の方へと車を走らせた。 確かに、彼女の言うとおりだ。僕にとっては流すことすら意味がないのだから、流すものなんて何でもいい。

「君は何を持ってきたんだ?」

『秘密よ。秘密。知りたい?』

 僕は間を持たせるために質問しただけなので彼女が何を流そうとどうでもよかったが、曖昧に相槌を打った。こういうときに正直に別に知りたくないと言ったところでいいことが何もないのは明らかだ。


『鎌よ。鎌。後ろの席に載ってるでしょう?』

 僕は一瞬聞き間違えたかと思い、後ろの席を確認したが、そこには本当に錆びた「鎌」が載っていた。以前に僕が単位をもらえるボランティア活動に参加したとき、草刈をするのに必要だからと買って、そのまま彼女の家のベランダに置いていた「鎌」だ。

 一度使ったきりのその存在を僕はすっかり忘れていた。

 何で鎌なんだとか、どうしてそれを今わざわざ川に流しに行くんだとか、色々な疑問が頭に沸いたが、僕は何も尋ねなかった。

 大体において彼女のやることには脈絡がないし、今までにも僕がそういう質問をしても納得できる答えが返ってきたためしがないのだ。

『何で鎌だって思ってるでしょう?だって、邪魔だったのよ。私たち二人の近くにあるもので、どうしても邪魔だったのはその鎌しかなかったわ』

 聞いてもいないのに彼女が鎌を選んだわけを話すので、僕はこたえた。

「いらないものを川に流すのは儀式じゃない。それは不法投棄って言うんだぜ」

『あら?じゃあ、燈籠はいるものなのかしら?いらないものよ。生きている人間は死んだ人間に、いるものなんて絶対に流さないわ』

 僕はやっぱり何を言っても無駄だと思って黙って川に着くのを待った。


 駐車場は公園の入口にある。そこから川までは歩いて五分ぐらいだ。

 山ということもあるのだろう。外は想像以上に冷えており、僕は寝巻きで来たことを少し後悔した。

 彼女はまるで予定していたかのようにちゃっかり上着を着てはいたが、やはり冷えていたのだろう。

『トイレに行って来るからちょっと待ってて』

 そう言うと僕に鎌をあずけ、駐車場のすみにある公衆便所へと走って行った。

 真夜中に公園の駐車場の真ん中で鎌を持って立っているというのはどうかしてる。そんなことを思いながら、僕はタバコに火をつけた。

 ガサガサと後ろで小さな音がしたので僕は全身を硬直させた。振り返ると、街灯の傍に居た二匹のカマキリだった。暗闇の中の街灯の明かりというのはかえって不気味に感じさせる。それは神聖な光というよりも邪悪な光のように思われるから不思議だ。


 それでなくても僕は怖がりだ。幽霊なんていないと信じていてもただの暗闇でさえ苦手なのに、何だってこんな夜中にいかにもな場所に僕はいるんだろう。早く儀式を済まして帰りたい。

 僕は彼女が帰ってくるまで怖さを紛らすためにつがいのカマキリをジッと眺めた。一匹が何かを覚悟したかのようにもう一匹に身を寄せると、突然身を寄せられたカマキリが身を寄せたカマキリに襲い掛かる。

 カマキリは交尾のときメスがオスを食べる、本では読んだことがあるが実際に見るのは初めてだった。首筋から順番にたいらげていくメスの様子はどこか恍惚としており、それは食べられていくオスの方も同じに見えた。僕にはそれが燈籠流しよりもよっぽど神聖な何かの儀式であるように思えた。

 僕はふと我に返り自分の手に持った鎌を見て、ゾっとした。まさかな。

 そう考えているうちにもみるみるカマキリのメスはオスを自分の中に取り込み、気付けばもう鎌の部分ぐらいしか残っていない。

 人間がこういう交尾の仕方しか出来なかったら犯罪なんてなくなるんだろうなと僕は思った。メスがオスを食べる分、メスが得であるようにも感じるが、きっとメスだって相方を食べるのには相当な覚悟がいるだろう。 それに、遅いか早いかの違いで、卵を産んだらメスだって死んでしまうのだ。

 たった一度の性交しかできないカマキリにとって、それは生命としての最終目的であり直接的に死に繋がっているのだ。そりゃ神聖に見えて当然である。人間には到底真似できない。


 僕はそっと手を伸ばし、オスの亡骸である鎌を拾った。僕はこれを流そう。死に繋がる鎌。ひょっとしたらカマキリこそが死神の化身なのかも知れない。

 これから真夜中の川で大きい鎌と小さい鎌を流そうとしている男女の未来に、果たして何が待っているのか僕には想像できなかった。そういえばカマキリも蟷螂(トウロウ)と呼ばれる。

 彼女の身に何かあったのだと気付いたのは、そんな風に未来や死について思いを巡らせながら、もう一本タバコを吸い終わってからだった。おかしい。用を足すだけにしてはあまりにも遅い。

 僕が公衆便所へ駆けつけたとき、そこには人気がなかった。二つある扉をノックして彼女の名前を呼んだが返事はない。建物の外で何か物音がする気がして裏側へまわってみると、その草むらで彼女は拳銃を持った男に強姦されている最中だった。


 口をガムテープで塞がれた彼女は最初、男の下で虚ろな目をしていたが、視界の端に僕の姿を確認すると生気を取り戻し、早く助けてと目で必死に哀願した。僕は手にしていた鎌をギュッと握った。

 それに気付いたのか男は振り返り無言でコチラを見たが、手にしていた拳銃で思いっ切り彼女の顔を殴ると、何ごともなかったかのように視線を戻し、再び行為を続けた。

 寒いのに汗が滴り、口が渇く。足はみっともないぐらいに震えていた。

 彼女はジッとコチラを見ている。助けて。早く助けてと。

 男の身長は僕より少し大きいぐらいか、無視して舐めやがって。このまま背中から鎌で襲い掛かったら負けようがない。大体あの拳銃だってただの玩具かも知れない。そうだ玩具に違いない。

 僕は思いっきり鎌を振りかぶり、男の背中から飛び掛った。


 つもりだった。


 実際の僕は足がもつれてその場にへたりこみ、その後は身動き一つ取れなかった。目の前で彼女がレイプされているのを、ただ夢でも見ているように眺めているだけだった。

 それでも彼女の目はコチラを見ていた。僕は辛くなって目を逸らした。

 どうしてこんなことになったんだ?だからこんなところに最初からきたくなかったんだ。僕は悪くない。誰だって拳銃の前では動けるはずがない。

 必死に心の中で自分を肯定し、理解を求めるように再び視線を戻すと、彼女の視線は宙を彷徨いどこも見ていなかった。それは最初に見たときよりもずっと虚ろな目で深い闇を凝視しているようだった。


 その悪夢のような時間は、実際は僅か一分程度の出来事だったのか、それとも感覚どおりに一時間くらいの出来事だったのかはわからない。

 長い長い時間、僕も彼女も動かないまま、男の腰だけが動いていて、それは僕と彼女だけが夢の中に取り残されており、男だけが現実の世界で動いているような気にさせた。

 突然、その夢と現実の境がなくなったかのように小刻みな痙攣をさかいに男の動きも止まった。

 そうして射精を終えた男は、皮パンのファスナーを上げ、まるで何事もなかったかのように駐車場の方へと歩き去っていった。

 ようやく金縛りが解けた僕は、男を追うべきなのか、彼女を慰めるべきなのか、どうすればいいのかわからなかった。慰めるといっても、彼女に一体どんな声を掛ければいいのだろう。そう考えながら、彼女に嫌われずにすむ、自分を肯定できる言い訳を必死で探していた。


 彼女は半裸のまま、ゆっくりと立ち上がろうとしている。手に握っていた鎌を捨て、とにかく僕は彼女の元へと駆け寄った。

『触らないでっ!』

 焦点の定まらないままの目を剥き出しにして吊り上げ、彼女は叫んだ。 僕は何も言えなかったし、その場から動けなくなった。そんな僕を押しのけるようにして歩き出した彼女は、さっき僕が捨てた鎌を拾い上げると、聞こえない小さな声で何かをブツブツと呟いている。

 僕は怖くなって、ますますどうしたらいいのかわからなかった。彼女は男の去った方へ走り出した。

「やめろ、殺される」

 僕は咄嗟に叫んだ。彼女は走り出した足を止め、僕の方を振り返ると彼女が発したとは思えないほど低い声で吐き捨てるように言った。

『もう、死んでるのも同じよ』

 再び走り出した彼女を、追いつかない程度の速度で追う素振りだけ見せた僕は、気付けば足を止めて呆然と成りゆきを見ているだけだった。さっきまでの夢の続きを見るかのように。


 遠くで呻き声が聞こえる。彼女が男の肩越しに何度も鎌を振り下ろすのが見えた。

 暗闇の中、スポットライトのように街灯が照らす部分だけ、血飛沫が舞っているのが見える。

 僕は男が倒れこむのを確認してから、彼女の傍まで歩いて近付いた。

「それ以上やったら死んでしまう」

 僕は泣きながら彼女を止めたが、彼女はさっきまで自分がそうされていたように男に馬乗りになると、何かに憑りつかれたかのように手を止めることなく何度も何度も倒れた男を切り刻んでいた。

「もういい。もうやめてくれ!」

 男が死んでるかどうかよりも、彼女の身がどうかよりも、僕へのあてつけのように振りかざされる鎌を見ていると、僕は我慢できなかった。


 手を止めた彼女はこちらを向くと、何かブツブツ呟きながら立ち上がった。半裸で手には血まみれの鎌。目の焦点は相変わらず定まっていないが、何かを呟く口元は、よく見ると薄ら笑いを浮かべているようにさえ見える。異様過ぎるその光景は僕に失神させる余裕すら与えなかった。

 思わず後ずさりする僕の横を彼女が通り過ぎるとき、確かに僕の耳にはこう聞こえた。

『オマエガ・シネバ・ヨカッタノニ』

 あまりもの恐怖に涙すら止まってしまった僕は、彼女がどこかへ消えてしまう気がした。

「どこへ行くんだ?」

『決まっているでしょう。流すのよ』

 振り返りもせずそう言うと、彼女は川へと続く道へとそのまま歩いていった。

 我に返った僕は、男の様子を確認した。男はおびただしい流血をしていたが、まだ息をしていた。

 僕は一瞬よかったと思ったが、死にかけの男が目だけをこちらへ向け何か言おうとしているのがわかると急激に怖くなり、彼女の行った方へと走って逃げた。


 川に着くと、彼女は放心状態でそこにしゃがみこんでいた。僕は何も言わず、それをただ見つめているしかなかった。

 目が慣れてくると、水面に黒い色が流れていくのがわかる。

 彼女が手にしている鎌についた血が川の水で洗われて流れているようだ。

 よく見ると、背中が小さく震えている。肩で息をしているのではなく、泣いているのだ。

 僕は何も言わず彼女の隣にしゃがみ肩を抱き、寝巻きのポケットから小さな鎌を取り出すと、そっと水面に浮かべてそれを流した。

 段々とさっきまでのことが現実味を帯び始め、心に決めた僕は彼女に言った。

「僕が殺ったことにして、自首しよう」

『いやよ。あたしに何があったか警察に一部始終を話せって言うの?そうやって罪を背負うことで自分だけ楽になろうとするのはやめて!あなたはいつもそう。あなたはいつも・・・』


 僕らはそのまま一言もしゃべらず、空が薄紫に色を変える頃、ようやく家路に着くため立ち上がった。

 彼女は半裸のまま、左手には鎌を握り締めていた。僕らは結局その鎌を流さなかった。

 駐車場に着いた僕らは驚いた。

 男が消えていたからだ。正確には、そこにあるはずの男の死体がなくなっていたからだ。

 血の跡も何もかもが消えて、まるで何事もなかったかのように駐車場には僕らの車だけがあった。

 その時は、実は本当に何か悪い夢でも見ていたのかと僕は思った。

 そして彼女とはその日以来、無言のまま別れた。

 何日たっても男の死体があがったようなニュースもなく、僕はあの出来事は夢だと信じて記憶から消しそうになっていた。

 しかし、忘れかけた数ヵ月後、それは夢などではなかったことが判明する。

 最悪なことに、彼女があの日、あの男の子供を身ごもっていたと連絡してきたからだ。

 確かにあの男の子供に違いなかった。何故なら、あの日まで彼女は生理で、僕らはSEXをしていなかったし、あの日以来、僕と彼女は会っていないからだ。

 あの日以降に彼女がすぐ誰かと関係を持ったというのはいくらなんでも考え辛い。あの出来事の後でそれは在り得ない話だろう。

「僕が責任を取ればいいんだろう?産めよ」

 僕が諦めたようにそう言うと、彼女はあの日と同じように半狂乱で泣きながら言った。

『なんでそういう自分勝手なことばかり言うの?あんな犯罪者の子供を産めるわけも育てられるわけもないじゃない!ちゃんと考えてよ』


 僕が金を工面して、彼女は子供を堕ろした。一体どういう気持ちだったのか僕にはわからない。

 そして、僕は妻と離れられず、そのまま結婚してずっと一緒に居る。男の姿は発見されない。

 それが僕と妻の二人だけの秘密だ。

 子供を堕ろす日まで、妻は何かにつけて僕を罵り、責任を感じていた僕は何かあるごとに妻に気を使い謝っていたが、それも終わった。

『もういいわ。あのことは口にしないで。全部忘れて』

 堕胎手術の後そう言うと、妻はすっかり気を取り戻したようだ。以前よりも随分と穏やかになったような気がする。僕を責めることもなくなった。僕はようやく赦されたのだと思った。

 それ以来、部屋の鎌と、ある一点を除いては、何も不思議なことはない。

 学校を卒業してあの頃住んでいた場所から引越しはしたが、今でも部屋の隅には、僕に対してのあてつけであるかのようにあの「鎌」が無造作に置かれてある。

 最初の頃、時々僕はその鎌を見えない場所へとしまってみたが、気がつけば妻がその場所へと持ってきているのだ。寝室の隅、枕元にある燈籠の形をしたインテリアランプの隣。

 僕はそれについて何も言わなかった。妻の様子は普通なのだから、いちいちそのことに触れて蒸し返す必要はないように思えた。

 僕は妻と交わるとき、気がつくと燈籠ランプの光の中に浮かぶその鎌をジッと見ていることがある。

 そして、ふとした時に、部屋の隅からその鎌にジッと見られているように思うことがある。


 この鎌は僕と妻の秘密の全てを知っているのだ。


 もう一つの、ある一点というのは、妻が以前より激しく身体を求めて僕と交わってくるのに、中で出すのを拒むということだ。

 結婚しても最初の頃はそんなものかとあまり気にしなかったが、最近では僕や妻の年齢を考えたときに夫婦なのに避妊し続けているのは不自然な気がする。

 それに、妻が基礎体温をキッチリとつけていることを僕は知っているのだ。彼女は学生の頃からそうしていたし、今もそれを変わらずに続けている。

 妻はあのような忌まわしい出来事があり、堕胎も経験したが、幸い子供をつくれる身体であるということはあのときの医者から聞いている。

 では一体、基礎体温までつけておきながら子供を拒否する理由は何なのだと僕は思う。だけど、僕はそれも言ってはいけないことのような気がしてずっと黙っていた。


 しかし、ある日、酔った勢いも手伝って、交わっている最中に思わず口走ってしまったのだ。

「なあ、僕の子供をそんなに欲しくないのか?」

 妻はそれには答えず何かがのりうつったかのようにあえぎながら、僕の上で腰を振り続けている。

 異様に激しいその動きに、僕は眩暈のような快感と同時に怖さを感じていた。

 悦楽に呑み込まれていきそうになったその時、妻は突然動きを止めて耳元で言った。

『人殺しの子がそんなに欲しいのなら、今夜は中に頂戴』

 そして僕の首筋に力一杯噛み付いた。


 一際大きくうねる妻の腰の動きにあわせて恍惚の波が押し寄せてくる。

 そうだ。赦されるわけがなかったのだ。妻は何も赦してはいないのだ。

 ようやく全てを悟った僕は、襲い来る絶頂のきわで、いつものように部屋の隅を見ていた。

 思ったとおり、そこに鎌はなかった。

 壁一面、燈籠の光に映し出された重なり合う僕らの影に、それは映っていた。

 それはまるであの日の蟷螂のようだった。

 ようやく赦されたのだという安堵に包まれ、僕の意識は快楽に溺れ、何処までも堕ちていった。

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