夏休み①「ええ、彼ならいつかやってくれると信じてました」
僕は地べたを歩けるはずでした。この、何の面白味も無く凡庸な地べたを。
だけどどうしたことか、ただいま僕は地べたを歩くことさえ儘《まま》ならない有様です。そうです、僕はちょっとしたことから右足を骨折してしまったのです! フゥー、フィーファー! ファファファファファ、フィー、ファ――――!!
とまあ、精神錯乱はそこまでにしておいて。
そんなわけで移動する際は一苦労です。しかも折悪く夏季講習が始まってしまったので、僕は松葉杖をヒョコヒョコとみっともなく予備校に通う羽目になりました。
僕は予備校が嫌いです。何が悲しゅうて放課後や休日に予備校に行き勉学に励まなくてはならないのでしょう。何が悲しゅうて夏休みに無機質な虫籠に閉じ込められて勉強をしなければならないのでしょう(A.大学進学のため ← 黙らっしゃい)。
とにかく、元々予備校が嫌いな上、右足を骨折してしまったので、僕は大層憂鬱でしたから大教室の最後尾、一番出口に近い場所にひっそりと(ギプスと松葉杖が目立つためそれは叶いませんでしたが)席に着きました。
沈みます、沈みます、沈みます。僕は一人静かに講義が始まるのを待ちます。周りはともかく、僕は一人静かに講義が始まるのを待ちます。
嗚呼、やはり怪我にかこつけて休めば良かった。けれど出来なかった事無かれ主義にとって「さぞかし真面目な優等生」は便利な仮面ですが、今回はそれがあだとなりました。つまり、僕はレールを踏み外す勇気を持っていなかっただけなのです。情けないことに。そしてそれは進学希望も同じことです。
鬱屈した気分を振り払おうと「やれやれだぜ」と名台詞を呟きながら参考書を取り出そうとすると、
「いやあ、確かにそれはやれやれだねえ」
思わぬことに隣から相槌が返って来ました。
独り言を聞かれた恥ずかしさを覚えながら隣を見ると、そこには猫山田さんがいました。
彼女は興味深そうに僕の右足を指差します。
「足、どったの? 骨折?」
「ああ、うん。ちょっと」
「ちょっと、って何?」
「ちょっと、そこまで……」
「つまらん。真面目に答えろ」
えー、秘密は男を格好良くするのにー。僕にとって精一杯のパーティージョークにも関わらず、猫山田さんは実に白けた顔をしていましたので、仕方なく少しだけ真面目に答えました。
「……っと、ちょっと駅で転んじゃって」
「駅? 階段で?」
「そう、そんな感じで」
「ふうん」
猫山田さんは僕のことを
「山口ってさあ」
「お、おう」
何故か僕はちょっぴりワイルドに頷きましたよ。アイアム手負いの狼。
「馬鹿だったんだね。今まで全然気付かなかったよ」
そして猫山田さん、爆笑、すっごく良い笑顔です。破顔という表現がピッタシです。
「だって、この受験期に普通骨折とかする? しないよ、しない。絶対無い。しかも駅の階段で転ぶとか何それ? そんなことやるなんて山口って――、いやもうこの際、あたし山口のこと骨折って呼ぶわ、うけるし。で、骨折ってさ、ホントすっごい馬鹿だよね」
「う、うん……」
どうしてだか僕はちょっぴりしおらしく頷きましたよ。アイアム手負いの兎。
猫山田さんはきらりと親指を立てました。
「骨折、頑張れ!」
「うん、何に?」
「人生とかその他色々。あ、それとも左の方も思い切って骨折するってのはどう?」
「生きてけないよ、やってけないよ」
「そこを頑張るんだろー、骨折ー」
「……うん、頑張る」
「よし、頑張れ」
猫山田さんのサムズアップを見て、取り敢えず講義を頑張って真面目に受けようと思いました。
ちなみに猫山田さんは最初の講義開始五分後には、既に眠りの国へ旅立たれておりました。寝息が少し可愛らしかったです。
✚
さてさて、無事に最後の講義も終わり、僕はえっちらおっちらと駅まで歩を進めました。松葉杖というのはどうして中々力が必要なもので、普段の速度で移動しようとすると非常に体力を消耗します。
そんな亀の様な鈍足たる僕を、猫山田さんは
遠くなった猫山田さんの後ろ姿を追い駆ける心持ちで(そう、あくまで心持ち、現実は非情さ)、僕は杖を突きました。
世界は今日も退屈です。
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