ネバーランド
夏野
ネバーランド
はーちゃん、と、愛しい人を呼ぶ史子さんの声が好きだ。
呼ばれた矢代さんは嬉しそうに「ただいま」と返事をして、史子さんの首に手を回す。
細くて長いすらりとした、矢代さんの指。
見つめ合う二人の距離が少しずつ近くなり、史子さんが瞼をそっと閉じた。
長いまつげがきらりと光に透ける。
そして。
「……玄関先でキスってどうなんでしょう」
思わずそう口にすると、矢代さんはようやく私に気がついて、悪戯がばれた子供のような顔で笑った。
「お?見られちゃったなー」
「あ、ごめんね、千春ちゃん」
史子さんはそう言うけれど、私が居ることを知りながらも瞼を閉じた彼女のことだ。
不意に遭遇した甘いやり取りに困る私を気遣ってくれただけで、そういう行為を他人に見せること自体はあまり気にしていないのだろう。
ふたりにとって、それはひどく自然なことなのだと思う。
呼吸をしたり瞬きをしたり心臓が脈打つのと同じように、矢代さんと史子さんは手を繋ぎ、頬を合わせ、キスをする。
もしかしたら恋愛感情を伴う人間同士のスキンシップとは広く一般的にそうなのかもしれないけれど、生まれてから十七年、一度も恋人が居たことのない私には未だわかりかねることだった。
二月の夕方、外は相変わらず寒いらしく、矢代さんの鼻の頭は赤く染まっている。
コートの上にぐるぐると大胆に巻いたカラフルなマフラーが、なんとも矢代さんらしい。
「遊びに来てたんだねー。いらっしゃい」
「お邪魔してます」
先日借りたCDを返しに来て、史子さんの言葉に甘えてそのまま炬燵でお茶を頂いていたら、ちょうど矢代さんが仕事から帰って来たという次第。
おかえりのキス、というわけだ。
「……いつもですけど、仲良しですよね……」
なんとなく照れくさく、言葉が見つからなくてそんなことを言うと、矢代さんは満足げに頷いた。
「ありがとう。そう、仲良しなんだよー」
「やめてよ、はーちゃん。恥ずかしいでしょ」
史子さんは矢代さんのスーツをハンガーにかけながら、けらけらと笑う。
「外、寒いよ。雪が降りそう。はぁー、炬燵あったかいなぁ」
矢代さんは手早く部屋着に着替えると、私の向かい側に座ってもぞもぞと胸まで炬燵にもぐった。
比較的小柄な身体をそうして丸め、じんわりと暖まる手足の感覚に頬を緩める姿は、まるで大きい猫のようだ。
「よしよし、お疲れ様」
史子さんは矢代さんの短くてふわふわした黒髪を通りすがりに優しく撫でて、キッチンへ向かい、コーヒーポットとマグカップを持って戻って来た。
「千春ちゃんももう一杯どうぞ。みんなでおやつにしよう」
「いいんですか?」
「もちろん。二人じゃ食べきれないし、みんな一緒の方が楽しいでしょ」
そう言った史子さんの手には、矢代さんがお土産に買って来た焼き菓子の箱が握られている。
二人と私が出会ったのは、丁度去年の今頃のことだ。
あの日もとても寒い日で、私は学校からの帰り道、足下を見つめながらひたすら家へと足を運んでいた。
マンションの階段を上りながらその日の夕飯のことを考えていると、不意に大きな音がして、廊下の奥で扉が開き、今にも泣きそうな顔をした女性が飛び出して来た。
後に聞くと私の母は、同じマンションの住人である二人、特に史子さんとは面識があり、史子さんも矢代さんも私のことを知っていたそうだ。
私も何度となく顔を見たような気はしていたけれど、はっきりと会話をしたのはあの冬の日が初めてだったように思う。
だから、私にとって、あの日が私たちの始まり。
学校や仕事先であったことや、私の家族の話、昨日の夕飯、近所に出来た新しいスーパーの話。
そんな他愛無い話に花を咲かせていると、不意にコール音が鳴って史子さんが携帯を手にとった。
電話の邪魔にならない様にと、小声で矢代さんと話を続ける。
話題は、二月半ばに迫ったバレンタインデーの予定だ。
「やっぱり、千春ちゃんも作るの?友チョコ。女の子はいっぱい作るもんね」
「はい。大量に作って、クラスで配るつもりです」
「はは、色気が無いなー」
矢代さんはそう言いながらクッキーを齧って、会話の切れ目にと、携帯を握っている史子さんの様子を伺う。
二人の視線が絡み、そして離れる。
そのさまに、人の目とはこんなに物事を雄弁に語るものなのだと、私はひとりで感心してしまう。
一瞬のやりとりのあと、矢代さんは肩をすくめて、炬燵にずるりと潜り込んでしまった。
拗ねてしまった様にも見える矢代さんと、困った顔の史子さん。
私には理由のわからない沈黙。
「ちょっとごめんね」
史子さんは苦笑いでそう一言断わって、隣の部屋へと消えた。
途端、矢代さんの顔が露骨に険しくなる。
ずるずると炬燵から這い出して、ぼやく様に一言。
「……あれはお義母さんからだな……」
「史子さんのお母さんですか?」
「ん、そう。まぁ……娘が心配なんだろうね」
そう言った矢代さんの顔は、もはやあからさまに拗ねていた。
鼻筋の通った端正な顔立ちには似合わない、子供の様な表情の作り方がどこか微笑ましくもある。
私は無理に言葉を選ぶのをやめて、沈黙を埋める為にクッキーを一枚口に入れた。
軽い音がして、優しい甘みが広がる。
牛乳とバターの香るどこか懐かしい味。
「ちょっと聞いてよー、千春ちゃん」
「はい、なんでしょう?」
わざとらしく駄々をこねる矢代さんに付き合って、私も仰々しく小首をかしげてみる。
矢代さんは、ありがと、と笑ってから、呟く。
「あれ、結婚はまだかっていう電話なんだ。早く孫の顔が見たいんだろうなぁ……」
「結婚、ですか」
「そう。結婚ですよー、千春ちゃん。私も、史子も、今度の夏で二十五だからね」
そう言って矢代さんは、一口コーヒーをすすり、カップについた口紅をそっと親指で拭う。
薄く紅に染まる指先。
「あ、降って来たね」
彼女に言われて窓の外を見ると、ちらちらと雪が舞いはじめていた。
ネバーランド 夏野 @nn_akari
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