第2話 謎の報告書

 この年の東海岸は例年になく蒸し暑い日々が続く夏を迎えていた。渡米した私は留学当時借りていたアパートを寝倉に大学へ通うことにした。8年振りのアーカムの街は更に退廃的な雰囲気が増しており、住人達が忌み嫌っていた「インスマス面」の男達が少なからず見受けられるようになっていた。


 インスマスは2年前の大火で住宅の3分の2が焼け落ち住人の多くが死亡し、住まいを無くした孤児や住人が挙ってアーカムに越してきたのだ。街外れの一地域に纏まってはいるが、確実にインスマスの住人の殆どが居を移しつつあるらしい。老人達は頑強に反対しているが、人道的な問題として受け入れざるを得ず、元々のアーカムの住人がプロヴィデンスに移住して行くケースも増えてきているようだ。


 アパートの大家のヴァレリー夫人は七十歳を超える高齢だが言葉も体も確りしており私が離れていた8年間の出来事を事細かに話してくれた。


 お陰である程度事前に近況の知識を入れて大学に向かえた。図書館長はクレア=ドーン博士に替わっており、彼女とは初対面だったのだが、ブラウン大学で「統一場理論」の講演が行われた際に公聴にいったことがあり、顔は見知っていた。理論物理学の権威であるが最近は特に目新しい研究発表はなされていなかった。


 彼女がミスカトニック大学の付属図書館長に就任したのは1年前で、前任者の急死もあったのだが、思いもよらない人事だったらしく、ひととき話題になったらしい。


 左遷なのか本人の希望なのか、未だ噂は結論を出していない。私は日本とアメリカのそれぞれの恩師である橘教授と現コロンビア大学のフォレスター=ウイング教授の紹介状を携えて図書館へと赴いた。


 ドーン館長は最初快く迎えてくれたのだが、私が目的を話し出すと途端に態度を硬化させてしまった。


「そのお話はお断りするしかありませんね。そのような文書は当図書館にはございません。どこでお聞きになって来られたかは存じませんが、そのお話をされた方は何か勘違いをなさっているのではないでしょうか。遥々日本からお越しになられたのですから、どうぞごゆっくり観光でもなさってお帰りください。と云ってもこのアーカムにはあまり名所・旧跡の類はございませんけれども。」


 取り付く揣摩も無く椅子を少し斜めにして端末を叩き出した彼女の表情には私とこれ以上係わりを持ちたくない気持ちがありありとあらわれていて、平静を装うには無理があったのだが、私は特にそれ以上の追及をせずに館長室を辞した。


 文書があるととう確信を持てただけで今日の目的は達していたのだ。アーカム財団のマーク=シュリュズベリィにも図書館ではそんな文書は無いと云われるだろうことは前もって予測できたらしく聴かされていたので、逆に見せると云われた方が驚いただろう。文書は大学のスタッフが独自に解析しているらしいのだが、その中に日本人がいないようで、かなり手間取っているとのことだった。私は予想していたので特に落胆することも無く一旦帰路についた。


 それから数日は様々な準備に追われた。情報収集も重ね、必要な物を揃えて完璧に準備を終えてから、本来の目的の為に私は夜の図書館に再びやって来た。


 初夏なので7時でもまだ少し明るいのだが、意を決して私は図書館へと侵入していった。合鍵は留学当時のもので未だ使えるものが数個あった。相変わらずその手の管理は杜撰なようだ。留学当時はただ一つを除いて全ての扉の鍵を持っていたので、よく夜中に忍び込んで一晩中稀覯書を読み耽ったものだった。


 当時もそして今でもただひとつだけ私が開けられない扉がある。「ネクロノミコン」はその扉の向こうに保管されていた。私はバイト先の錠前屋で修行して大抵の鍵なら開けられる。電子ロックでもそう手間取ることはない。ただひとつこの扉だけは別物だった。脳波とかの作用と特別の呪術が鍵に施されているらしい。鍵そのものは普通なのだが、ここだけは無理な話だった。例の文書がその扉の向こうならお手挙げだ。


 私はアーカム財団から教えられた図書館員のIDとパスワードを打ち込んで図書館内からデータベースにアクセスし、例の文書の所在を確認した。まさか館内のコンピューターからのアクセスが不正なものとは誰も想わないので、比較的容易に極秘文書の個所も情報を引き出すことに成功した。文書は最近別棟に新しく作られた保管場所に在ることが判明した。


 私は早速その部屋に慎重に進入することにした。セキュリティシステムについては全て一旦クリアしたうえでだ。部屋に着いた私はすぐに問題の文書を探した。文書はあっけなく見つかった。部屋への侵入が不可能と判断していたのか、全く用心していないかのようにデスクのうえに無造作に放り出されていたのだ。


 私は文書を確認すると替わりに全く同じ物としか見えない偽の文書を置いた。アーカム財団が用意してくれたものだ。これで数週間は時間が稼げる筈だ。その間に解読し、また元に戻しておく。それが私に課せられた使命だった。財団としても貴重な文書を闇に葬ってしまうことまではしない。ただ、その内容を先に確認した上で、大学側に発表を控えるように迫ったりすることが目的と聴かされていた。そのまま信じている訳ではないのだが、多少のスリルもあって私は引き受けることにしたのだった。大学側としては逆に全く資料を公開しないことも考えられたからだ。


 判断する手駒は多い方がいいに決まっている。アーカム財団が判断することが人類にとって正しい道であることを信じているからこそ、その手助けをしたいと望んだのだ。私は侵入したときよりももっと細心の注意を払って形跡を消しつつ脱出に成功した。


 文書を持ちかえると私は早速解読にかかった。文書はラテン語で書かれてはいるが、そう古いものでもない。ただ、情報によると文書の内容自体はそれこそ人類の発祥前からの記録が言及されている、とのことだった。通常の解読方法を一通り試したが、当然そんなものでは解読できる筈も無かった。この手の文書の解読には勿論知識が必要だが、なりよりも必要なものはセンスだ。様々な解読方法のなかから、どれを或いはどれとどれを組み合わせて使うか。そこで解読者のセンスが問

われるという訳だ。私は悲観的ながらもジョン・ディー博士が「ネクロノミコン」を解読したときに使った方法を真似てみたが、やはり無駄だった。一旦文書自体を変換した上で何らかの解読法を使うような気がした。


 私は文書を一旦、日本の古文に変換してみた。これは案外簡単に変換できた。大学の研究員も似たようなことを考えてはいたらしく、一旦日本語や中国語に変換して解読しようと試みて日本語で多少齟齬があるが、文書として読めそうな所まで行ったことがあるらしい。


 私はそれを古文に変換してほぼ一次の変換は完成させた。そして、その古文を種々の解読法を試すことにした。最近ではかなり高度な暗号解読法がインターネットで無料配布されている時代だ。その手の才能には不自由しない。勿論ネット上での話だが。


 解読を始めて3日間、ほとんど不眠不休で作業を行ってやっと正解に辿りついた。と云うよりもたった3日間で、と云うべきか。図書館に侵入できること、日本語などの暗号解読に通じていること、クトゥルー関連の知識もあること、など考えれば考えるほど私は打って付けの存在だった。


 文書の表題は「ルルイエの所在に関する報告書」とある。まさか、あの「ルルイエ」なのか?


 文書を読み進んで行くと文書の前半は過去に「ルルイエ」が浮上した場所及びその時に付随して起こった出来事の報告だった。


 文書には「ルルイエ」が浮上するポイントは世界中に16ヶ所あると記されている。文書にはそのほぼ正確な位置もあった。そう、「ルルイエ」は各地に浮上している、と云うことは「ルルイエ」自体が移動している、と云うことになるのだ。


 「ルルイエ」は海中に留まらず、水に関係がある場所なら何処でも現れることができる、と云うことも記載されている。実際に移動しているわけではなく、次元の裂け目のようなものがあって、それが水に関連するところに繋がっている、と云うことらしい。そして、その内のひとつが、日本で一番大きい湖、琵琶湖であると記されていた。


 私の渡米前から連絡が取れず、「関西方面である情報を得たので調べてくる。」と言い残して行方不明になっている岡本優治も、もしかしたら何処か違うルートでこの情報を掴んだのかも知れない。


 私は解読したものを光ディスクに保存した。ただ、この文書には欠落した部分があるようだ。報告書としては完結しているような体裁は整っていなかった。私は取り敢えずあるだけの文書を4枚の光ディスクに入力した。


 1枚は日本の自宅へ郵送した。1枚はニューヨークのアーカム財団本部へ、1枚は日本のアーカム財団極東支部、そして最後の1枚は胸ポケットにしまいこんだ。あとは文書を元に戻すだけだ。


 深夜の図書館に改めて進入した。この間進入した通りの手順で再びあの部屋に入ると文書は同じように同じところに保管されている。気づかれてはいないようだ。私が偽の文書を手にしようとしたその時、急に部屋の電灯が点いた。部屋の入り口には図書館長クレア=ドーン博士が立っていた。


「堂々とやって来たかと思ったら実は泥棒だったと云う訳?ミスター綾野。」


 彼女の手には拳銃が握られている。幸い他に誰かが潜んでいる気配はなかった。彼女一人のようだ。私のすり替えに気づいて私がまた戻ってくるのを待っていたとしたら、考えられる理由は一つしかない。彼女も大学側とは違う理由で文書の解読を望んでいるということだ。


「なぜ、一人で来られたんですか?ドーン博士。」


 私は様子を窺いながら少し立っていた場所を移動した。彼女には気づかれないように。銃の持ち方から彼女が一度も撃ったことがない素人だと判断した。一通りの護身術を身に付けていたこともあって私は一か八かの賭けに出ることにしたのだ。


「何か、他の職員や警備員に連絡できない理由でもあったのですか?」


 私の狙いは功を奏したようだ。明らかに彼女は動揺していた。私が飛びかかれる位置まで移動したことにも気づいていない。


「何を云うの、そんな訳ないじゃないの。直ぐに警備員を呼びますよ。」


 そんなことを考えていないことは明白だった。彼女は解析の結果を知りたいだけなのだ。


「そんなことより、解読した内容が知りたいんじゃないのですか?」


「成功したの?大学のスタッフがまる2年かかって数ページも進まなかったというの

に。」


 かかった、と思った私はさらに大胆に近づいていった。


「そうですよ、これをちょっと非合法的にお預かりした数日の間にね。聞きたいですか?」


「勿論よ、そのために私はここの館長にまでなったのですから。」


 云ってから博士はしまったという顔をした。云うつもりのなかったことまで口を滑らせてしまったようだ。


「それほど執着するのには何か理由があるのですか?その返答によっては内容をお教えしてもよいのですが。」


「本当に?」


 ドーン博士は既に拳銃を下ろしていた。余程知りたい訳があるのだろう。


「判ったわ、理由は簡単なこと。その文書は夫の遺留品の中から見つかったの。遺留品といっても夫の遺体が確認された訳ではないのだけれど。探検家だったロルカが最後に向かったアマゾンの奥地で数人用のベースキャンプを残してそのまま行方不明になってしまったの。そのベースキャンプの荷物の中に文書はあったのよ。」


 彼女には文書は夫の形見でもあった訳だ。


「遺留品の中でその文書だけが、ミスカトニック大学の係員がきて持って行ってしまったの。それで、もしかしたらその文書にこそ夫の消息を探す手掛かりがあると思って、無理を云ってここの館長に赴任してきた訳。そんなことでもなければ、こんな所に来たくはなかったわ。薄気味悪いし、職員は陰気だし、私でさえ入れない部屋もあるし。」


「ちょっと待ってください、あなたでも入れない部屋があるのですか?」


「そんなことは知ったことではないわ。私はその文書が解読されるのを待っていただけ。何故だか大学側は秘密にしたがっていたから、あなたが来た時もあんな態度をとってしまったけれど、本当は誰が解読してくれても良かったのよ。」


 博士は単なる寂しい妻だった。ただそれだけの理由だったのだ。国家がどうとか、人類がどうとかの問題ではない。私は素直に内容を話して聞かせた。予備知識なしに聞くには難解すぎ、到底信じられない話ではあったが。内容は博士には何の価値もなかった。私が思うには彼女の夫、ロルカ=ドーンは多分深きものどもかその手下にでも襲われたのだろう。


「判ったわ、ありがとう。何か手掛かりになるとしたら、この文書しかなかったのだけれど。あなたはその文書に書かれていることで、例えば何処かに調査に行くつもりなの?」


「そうですね、多分。」


「もしそこで何か私の夫の消息に関する情報が得られたりしたら私に直ぐ連絡をしてくれると約束できる?それなら今回のことは見逃してあげてもいいわ。」


 私に異存はなかった。


「わかりました、必ず連絡すると約束しましょう。それとこの文書は本物ですからお返ししておきます。」


 差し出した文書を受け取ると博士はいとおしそうに抱いた。


「何故かこの文書だけがあの人を感じられるものになってしまったの。だから偽の文書が置かれているのは直ぐに気づいたわ。でも多分あなただろうと思っていたから黙っていたの。大学の解読スタッフは無能の寄せ集まりだから。」


「ご主人の消息が早く判ればいいですね。私が見つけたら直ぐに連絡しますから。」


 博士は本当に夫の消息を知りたいだけなのだ。悲しい人だった。私は博士を励ましてから図書館を出た。直ぐに帰国して琵琶湖へ行こう、私の友人のためにも、そして新しい友人であるドーン博士のためにも。

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