クトゥルーの復活

綾野祐介

第1話 プロローグ

 滋賀県立琵琶湖大学は法学部とか経済学部とかいったありふれた学部の無い一風変わった大学であった。その中でも私が席を置く伝承学部は特に変わっていたかも知れない。

 伝承学と云うのは平たく云えば民間伝承、つまり言い伝えなどを集めて、その中に含まれているかも知れない隠された歴史などを研究する学問である。私、綾野祐介は伝承学部アメリカ伝承学科の講師と云う肩書きを持っていた。


 私が国内で行った調査(!)で新聞にも掲載された最も有名なことは「墓場荒らし」と云う今の日本でもエキセントリックな出来事だった。当初地元の駐在によって通報され駆けつけた係員によって身柄を拘束されたのだが、アメリカ合衆国の外交ルートを飛び越えた介入によって釈放された。新聞の第一報は止められなかったが、その後の経過については内政干渉の疑いが強いことも含めて日本政府の徹底した報道管制によって一般の国民に知らされることはなかった。

 そのため私がこの「墓場荒らし」犯人であると云う認識を持っている人は数少ない。そして私が行ったことの本当の意味を知る者はもっと少数の人々だけだった。

 勿論もちろん所謂「墓場荒らし」を私が行ったことは事実であり、そのことについては何も弁明するつもりはない。ただ云えることは誰かがやらなければならなかった緊急避難的要素の強いケースだったと云うことだけであろう。

 そのことについては、おいおい説明することになるが、そこに辿り着くためには全ての発端であるあのアーカムの暑い夏の日に遡らなければならない。

 

 私は専攻しているアメリカ伝承学を研究するため留学中のミスカトニック大学に通うためアーカムに部屋を借りていた。例のラバン=シュリュズベリィ博士の炎上した後、けっして建て替えられることの無かった屋敷跡に近いことが、事の他気に入っていたのだが、本来借りたかったアンドリュー=フェランやエイベル=キーンが住んでいた下宿は今はもう大きなマンションに建て替わってしまっていた。


 ミスカトニック大学付属図書館は稀覯書収集で特に有名で、大英博物館に匹敵するものであると自他共に認めるところである。そして何にも増してその名を知らしめているのが、かの「ネクロノミコン」のオラウス=ウォルミウスによるラテン語版が所蔵されていることである。H・P・ラヴクラフト(1890年~1937年)によって想像上の魔道書として彼の小説で実に印象的に使われているものだが、本当に実在していることはあまり知られていない。小説では数冊確認されているように説明がなされているが、現実には不完全なラテン語版がここと大英博物館に現存するだけで、17世紀のスペイン語版は確認されていない。ジョン=ディー博士の英訳版はこのラテン語版をもとにしているので、更に不完全なものになってしまっている。現在一部の研究者が手に入れることができるものはこの英訳版のみであるが、それも非常に入手困難な状況は変わらない。


 ラテン語版を閲覧しようと思うとアメリカ合衆国大統領の署名入り閲覧証明書と身分証明書を提示した上、図書館長他5名の係員の立会いのもとでないと見ることが出来ない。

 コピーも取れないしメモも許可されていない。ただ閲覧することだけが許された全てだった。

 お陰で当時の私は現物の「ネクロノミコン」は閲覧が出来なかった。


 私がその「ネクロノミコン」に興味を持ったのは、栗本薫女史著の「魔界水滸伝」シリーズを読んだためだった。物語自体はかなりSF小説化されてしまっていたが、そのベースに使われているクトゥルー神話と呼ばれるものに初めて接して、その魅力と云うか世界観の広がりに圧倒されてしまった。中学生だった私は、勿論出来る範囲ではあるが神話関係の書物を買い漁ったものだ。当時はまさかそれが自分の仕事になろうとは夢にも思っていなかったのだが。


 アメリカ伝承学という大層な名前に隠されているが、その実やっていることと云えばクトゥルー神話の実証を研究しているのだった。勿論「アメリカ大陸における民間伝承の地域的分布に関する一考察」などと云う論文を書いたりして体裁を整えてはいるが、本当にやりたいことはクトゥルー神話に小説と云う形で隠されている「本当の地球の歴史」の解明と、そして今起こりつつあるクトゥルーなどの復活を阻止する目的を持った活動がしたくてこの学問を志したのだった。


 日本に戻ってからは東京の帝都大学で臨時講師をしていたのだが、その合間に国内のクトゥルー関連の会合に数回参加しており、どちらかと云うとクトゥルー神話のファンクラブ的要素の濃い「日本クトゥルー学会」には会員の一人として登録されていた。同僚で同じ興味をもって会員になっている地球物理学科の講師、岡本優治と会合に出席した後に、散々議論を交わして遅くなってしまった帰り道、アパートの近くまで来たところで不意にアメリカ人らしい二人の男に呼び止められた。


「帝都大学の綾野祐介さんですね?」


 人違いだよ、と惚けてもよかったのだが、嫌に流暢な日本語とその口調がそれを許さなかった。


「そうですけど、お宅は?」


「私達はアーカム財団の者です。お聞きになったことがお有りだと思いますが。」


 アーカム財団とはクトゥルーなど古き神々の復活を阻止するために設立されたアメリカ合衆国ニューヨークに本部がある組織で、最近は南太平洋よりも極東アジア、中でも日本に関心を寄せていると噂には聞いていた。


 国防総省もCIAでも例え大統領であっても口出しできない独自の活動を行っている。勿論そんなことは一般市民やマスコミには知らされてはいないことだが、私は独自のルート探りを入れ出した矢先のことだったので、拙い事になったな、と思ってもどうしようもなかった。


「そのアーカム財団の方が私のような者に何の用ですか?」


 出来るだけ丁重に落ち着いて話したつもりだったが声は上擦ってしまった。だが、いきなり非紳士的な行動に出そうな様子も無かったのでとりあえずは安心していた。


「実はあなたに是非引き受けて戴きたいお願いがあって参りました。あなたの部屋には盗聴器が仕掛けられていますので、どこか近くのファミリーレストランでお話を聴いて下さいませんか?」


「盗聴器だって、いったい誰が。」


「大きな声を出さないで下さい。星の智慧派と云えばご理解頂けると思いますが。」


「星の智慧派といったらあのナイ。」


 背の低い方の男が慌てて私の口を塞いだ。


「不用意にその名前を仰らないように。よくご存知だとは思いますが、(彼)の名前を口にしたとき(彼)が聞く気になっていれば、それは(彼)を呼び寄せているのと同じ事なのですから。」


 男は直ぐに力を緩めた。よく判っていることだ。こんなところで口に出せば、必ず声は届くだろう。地球の裏側に居ても同じ事だ。

 私はすぐにその男に従った。この男達がアーカム財団の者だと云う確証は無かったが、逆らってもそのまま拉致されるだけだと諦めて従うことにしたのだ。暴力沙汰は苦手なの方だ。


「是非お願いしたいことがあってお伺いしました。」


 深夜も営業しているレストランに着くとさっきの背の低い方のマーク=シュリュズベリィと名乗った男が早速話し出した。


「あなたに合衆国に飛んで頂きたいのです。勿論費用などは全てこちらの負担と云うことで。」


 そんな話より私には男の名前が引っかかった。


「それより先に聴きたいのですが、あなた、シュリュズベリィさんと仰いましたね、まさかあのラバン=シュリュズベリィ博士の?」


「博士から見ますと父方の従弟の孫に当たります。ただ、生まれてからずっと日本で暮らしておりますので、合衆国には行ったことがありません。」


 多少信用できるような気になってマークの話を聴くと合衆国アーカムのミスカトニック大学で、ある文書の解読をして欲しいとのことだった。特に日本に関係の有る文書らしい。


本来日本のその道の権威である帝都大学の橘教授に依頼したかったのだが、私の恩師でも有る教授は高齢もあって体調を崩しており、夏までの授業も私が代行することになっていた位だ。そこで私に白羽の矢が立ったらしいのだが、私は私で授業を受け持っており、たちまちそう云う訳にもいかなかった。ただ、本来やりたかったことでもあり、何時かはアーカム財団に入りたいとさえ思っていた私は、それでも夏期休暇まで待ってもらうことだけを条件に引き受けてしまった。


 相談をしようと岡本優治に連絡を取ってみたのだが何故か電話にも携帯にも出ない。そして、優治とは結局その後も連絡が取れなかった。私は仕方無しに一人で判断し、夏休みを待つことにした。


 それは平成も十数年が過ぎた7月の半ば過ぎのことだった。

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