第12話 復讐
隆に教えてもらった、秘密の抜け道を通る。
夜の学校に忍び込むのは、ひどくどきどきすることだった。
夜美濃高校は、不気味なほど静まり返っていた。
「――?」
何か、血なまぐさいような、獣の臭いがした。臭い。ひどく不愉快な臭いだった。何の臭いだ?辺りを見回す。夜の校庭。風が吹く都度に、臭いはひどくなる。校舎内から漂っているようだった。
表玄関に回って、彼はぎょっとした。全ての扉が、開いているのだ。通常なら堅く閉じられて、朝まで誰も通さないのに。こっそり様子をうかがいに、近づく。徐々に強くなる血の臭い。鉄が錆びたような。誰かいるのだろうか、周囲に気を取られて、勝巳は足元の段差につまずいた。突如、その目の前を、青白く輝く火の玉がよぎる。空気を焼く、オゾンの臭い。つまずいていなければ、彼に命中していただろう。
「!」
彼は咄嗟に壁に身を寄せた。その壁が、いきなり彼を押し倒した。床の冷たさと、頭部に当たる、金属の感触。背筋が冷えて、思考が停止する。
だが――それ以上、何もされなかった。
「――君か!」
誰かがそう呟くと、彼は解放された。そこでやっと顔を見る。
Mr.フェンスターが、青白い顔をして、腹部を押さえて、立っていた。
「Mr.フェンスター、あんた何を――」
血の臭いは、彼から漂っている。
「独断専行の報いだ。私の目の前で少女がさらわれてね、黙って見てはいられなかったのだ。罠だとは知っていても」
ぐらりと魔術師の体が揺らぎ、その場に膝をついた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「何の。これぐらいで、魔術師はくたばらないものだ」
それより――と、勝巳に尋ねた。
「君はどうしてここに来た」
「見たんですよ」言葉を選びながら、勝巳は言った。「この高校の屋上で誰かが地獄へ引きずりこまれる光景を」
「そうか。君にも霊能が発現しているようだね」
霊能。それは天界や魔界などの異界の抗体であり、見えないものを見、聞こえないものを聞く能力。魔術方式の基礎であり、源でもある。
「霊能――でも、何かが邪魔して、その前の光景が見られなかったんですよ」
「術的に障害が色々と設けられているのだよ。おそらく術者が、この事件の犯人だ」
「おそらく?」
「私を襲ったのが――」
――GRORORROLLLOHN
低い唸り声と共に、夜の闇の中から、それらは這いずり出てきた。コールタールの沼から這い出た、人型のような。
「――
「既に、ここは半分魔界に近しい場所なのだ。強大な魔神だの天使だのを召喚する際に、その莫大な存在性は世界を歪める。この世を異界と等しくしようという作用のもとに。歪められた世界は、魂を歪めようとする。霊的抵抗、いわゆる霊能のないものは、真っ先に狂う――だからこそあれは禁書だったのだ」
杖から青白い火球が放たれる。それはグールを次々消し飛ばし、強烈なオゾン臭を漂わせた。獣の臭いがひどくなる。戦いなれているらしく、あっという間に片付いた。
「……待てよ」
勝巳は、呟いた。
戦いなれているMr.フェンスターが、たかがグール相手でここまで負傷するのだろうか。
「じゃあ、あんたに負傷させたのは、一体何なんだ?」
「あれだ」
Mr.フェンスターは杖で指し示した。
「狂った魂は、魔界に相応しい姿に体をも歪められる」
それは、周囲のグールの死体と比べると、巨大な類人猿のようだった。だが、巨大な体とは裏腹に、頭部は異様に小さい。人面を模した仮面を被っているが、それは既に人ではない。
「あ――」
勝巳がぼう然としたとき、Mr.フェンスターが動いた。
「逃げろ!」
巨体に似合わぬ俊敏な動作だった。瞬きする間に、それは勝巳の目前に迫る。勝巳はMr.フェンスターに突き飛ばされた。勝巳が寸前までいたところに、怪物の足がめり込む。
火球が、それをなぎ払った。バランスを崩した怪物は、Mr.フェンスターの方に倒れこみながら、拳を突き出した。杖でそれを受け止め、対峙する魔術師。
「あ、あんたはどうなるんだ――!」
「既に増援は呼んだ。後は持ちこたえていればいいだけだ!君は逃げろ。一般人は巻き込まない。それが私の主義だ!」
勝巳は、くちびるをかみ締めた。
「――屋上へ行って、召喚を止めてくる。そうすればいいでしょう」
「余計な真似をするんじゃない、小僧!」
怪力に押されながらも、魔術師は叫んだ。
「君の安全など誰も保証できないのだぞ!」
「いい。僕は行く!」
「待て!」
「嫌だね!」勝巳は走り出した。
怪物が彼を追おうとしたが、火球がそれを阻んだ。一発が仮面に命中した。怪物はのけ反り、仮面が床に落ちた。あらわになった顔は――かつて図書館長と呼ばれていた人間のものだった。
『邪魔ヲスルナ!』
精神に響く声で、それは叫んだ。
「待ちたまえ。君の相手は私だ」
仮面を無くした怪物は、ぶつぶつと、呪文のように繰り返した。タガが外れたのだろう。段々悦に入っていくようで、繰り返すごとに声の調子がどんどん上ずっていく。
『男ノ子ノ成分ハ――タンパク質ト可愛イ泣キ声。タンパク質ト可愛イ泣キ声。タンパク質ト可愛イ泣キ声』
Mr.フェンスターは青白い顔であったが、しっかりと杖を握った。
「彼の後を追うのだ。ぐだぐだ抜かすのは結構だが、邪魔しないでもらいたい」
階段を駆け上る。Mr.フェンスターの所にグールが集結していたのが幸いして、ほとんどグールとはすれ違わなかった。
屋上への扉は、開いていた。
グールの足跡がべったりと辺りを汚している。
ここから、邪魔者を葬るべく召喚されたのだろう。
フェンスに囲まれて、グールの足跡の内側で魔法陣が明々と輝き、その中央で何かが光っていた。
うごめく、膨れた赤い肉の塊。
それが何であるか直感で悟った途端、勝巳はその場に嘔吐した。
子宮。
本来ならば赤ん坊を生むための臓器が、おぞましい食屍鬼どもを産む『門』として使われたのだ。
そして今、魔神をこの世に具現するべく、孕んでいる。
彼の脳裏に、腹を捌かれて死んだ相羽つづみの姿が思い浮かぶ。彼女は、子宮を抉り出されたのだ。
「あ、ああ、何てことを、何てことを――!」
だが、その瞬間、彼は更におそろしい予感に震えた。
それは何の脈絡もなく、不意に脳裏に浮かび上がったのだ。
『月』、『悪魔』、『塔』が全て正位置で出た――と、園原まゆみは言った。それは中々良いことなのだと。
愛好会の部長であるにも関わらず、アルカナの意味を無視するかのような発言が、ずっと気になっていた。
――だが、もしADAMASTORでそのアルカナが当たっていたのだとしたら?
「アンタが真犯人だったのか」
「そうよ、私が図書館長も巻き込んで、やったのよ」
背後からの声。
どん、と――続けて彼を襲った衝撃に、勝巳は意識を手放した。
……気が付けば、椅子に縛り付けられていた。
気絶したのはほんのわずかな間なのだろう。縛られた手足に、しびれはない。だが、痛い。手首が切り裂かれて、そこから血が滴り落ちていた。
「起きた?最後の生贄君」
聞きなれた、とがめだてする様な声。やや金属的な。
魔女の黒いローブに身を包んだ、園原まゆみが、彼を睨みつけていた。
「起きたよ。このクソ女」
頬を張られた。血の味。
「そのうるさい口も、今日までね――」
「今日が僕の最後の日か。まったくバカバカしい。こんなことに付き合わされるなんて、実にいい迷惑だね」
「私がどうしてこうするのか――あなたには絶対に分からないでしょうね」
はははは、とそれを聞いて勝巳は笑い出した。嘲笑だった。
「ああ、動機はよく分かるよ、僕だって術は知っていた。知れば実践したくなるのが人間さ――
でも、と勝巳は憎々しげに続けた。かろうじて憎しみはこらえていた。彼女を何よりも恨み、憎むべきなのは彼ではなかった。彼女ごときに、大事な存在を奪われた、アイツだった。
「お前じゃ無駄だ」
「どうしてよ?」
まゆみは、椅子に縛られている勝巳を蹴り倒した。ことごとく自分に逆らう彼の態度に、苛立しさが頂点に達したようだった。
「こんなのじゃ、足りない、全然足りない、もっともっともっともっと欲しい!――ここじゃない世界に行きたい!」
両手を天にかざして、魂の奥底から噴出したような、彼女のそれは絶叫だった。
だが、勝巳は、冷め切った心地でそれを聞いていた。憎しみより、哀れみが募るようだった。
「だから私は知識を求めた、努力もした、障害も乗り越えた!儀式を行い、邪魔者は潰した!力を得た、権利も剥奪した!彼岸へ行くために!到達するために!もう私だけのものだ!私でなければならない!私だけでなければならない!私だけが彼岸へ到る!此岸から泳ぎ渡ってみせる!土くれから生まれた身のままで!私はここではないどこかに行ってみせる!」
絶叫が終わった瞬間、あたりは静まりかえった。誰もものを言わず、闇でさえも息づくのをひそめている様だった。
まゆみは上気した顔で、闇に覆われた天井を見すえていた。その姿は美しかった。極めつくしたものだけが至ることができる世界に、彼女は足を踏み入れていた。いや、その一部に成り果ててさえいた。混じりけの無い金属同士がぶつかって、澄んだ音を奏でているようだった。
その余韻は永遠に続くかに思われた。
――だが、小さな、体をひくひくとよじらせる様な笑いが、徐々に広がっていった。
「私だけ?私だけでなければならない?――なんて道化だ、バカバカしい」
勝巳は、もう蔑んだあざ笑いを隠そうとさえしなかった。
「違うんだろう?お前は自分だけ特別でなきゃ耐えられない惨めなヤツ、それだけだろう?所詮は土くれから作られた身の上だろう?本当は誰からも相手にされないのが怖いだけ、たったそれだけだろう?ええ、そうだろう?」
「違う!私は本当に成し遂げたのよ!」
悲痛な、絶叫だった。だが、勝利の雄叫びでもあった。
「ほら――具現している!」
血で描かれた円陣の中央――膨れ上がった子宮から、それは這い出していた。
肉と金属がねじれて絡み合い、中途半端に溶け合っている、人間と爬虫類と金属のあいの子のような姿。何の生物を象ったのかも不明である、角の生えた奇妙な金属製のヘルムをかぶっていた。勝巳が生と死の狭間の悪夢の中で見た姿とほぼ同じだった――胸の中央部分に穴が空いていないのを除けば。
その異形の姿を、惚れ惚れと、まるで神々しい天使が光臨したのを目の当たりにしたかのような恍惚とした眼差しで、まゆみは見つめた。
「地獄の――強大な力を持つ悪魔ね、間違いない。何て化物じみた魔力、存在感、邪悪さ、素晴らしい!欲しい!私はこれが欲しかったの!これで私は超越できる!人間を超克できるのよ!」それから、まるで卑しい虫けらでも見るかのような目で、勝巳を睨んだ。「どうせ人間ごときには、私なんて、理解不能なんでしょうけどね」
「その逆だね」
勝巳は断言した。
「お前なんかに、人間を無理やりに辞めさせられたやつの気持ちなんか、わかってやれるかよ」
「何を今更――」
まゆみは円陣からそびえ立つ、異形の化身を見上げた。それは蛇のような下半身を、すっかり地面から浮かせていた。
「さあ、魔神よ、私の願いを叶えるのよ!」
『――ァ』
辛うじて人間らしいその口元が、大きく、獲物を食むかのように開いた。わずかに吐き出される、地獄の炎。そして、低い、周りの空気を静かに震わせる第一声が――。
『名を――我を名づけよ!』
「な――」あまりのことに、まゆみは絶句した。「これだけ強大な悪魔が!? どうして、名無しなのよ!?」
異形は、ただ吼えた。
『我を名づけよ!』
すぐに彼女は冷静さを取り戻した。
「秘められた名を知られた悪魔は、召喚主の絶対的な奴隷になるというわ――つまり、あなたは名前を白状したくないのね」
『我を名づけよ!』
まゆみはグラン・グリモアを手に、静かに呪文を唱えた。
「イム・ウラスラ・テトラグラトマン、その秘名を我に明かせ!」
円陣がまばゆい光を放った、と、円陣の模様が網となって、異形の体にまとわり付いた。途端に煙が立ち込める。じゅうじゅうと体を焼かれ、異形は狭い空間でのた打ち回った。それでも、異形は叫んだ。
『我を名づけよ!』
「強情なヤツね――!」
まゆみは凄絶な表情を浮かべると、グラン・グリモアの頁を数枚引きちぎった。それに怪しげな燭台から火を移し、円陣内に投げ込む。それは円陣内で爆発的に燃え上がり、異形を猛炎で包んだ。聞くに堪えない、絶叫と苦悶が上がる――。
「天界の炎に焼かれし者よ!その魂まで焼き消されたいか!」
だが、それでも、異形は、ただ一言、
『我を名づけよ!』
と叫んだ。
その時だった。まゆみの背後で、ふらふらと勝巳が立ち上がった。椅子ごと蹴り倒されたときに、手の中に滑り落ちたナイフで、束縛を切ることができたのだ。隆にもらったナイフだった。血を抜かれているために、真っ青な死人のような顔で、危うい足取りだった。それでも、ほとんど倒れこむように、まゆみに体当たりした。まゆみは予想外の勝巳の行動に、グラン・グリモアを手放してしまった。脆く、古い魔の本は、地に落ちて、頁を散らしてしまう。
「――こ、このゴミが!」
まゆみはかっと血相を変えた。アセイミナイフをかざして、地面に這いつくばっている勝巳に跳びかかる。
だが、それよりも早く――勝巳は、何も書かれていないグラン・グリモアの頁を握り締めていた。震える指で、そこに自らの血で、何かを書きなぐる。
その背中にまゆみはまたがり、アセイミナイフの刃を突き刺した。
「死に損ないのくせに! よくも! 生きていても何の価値の無いくせに!」
彼女が怒っていたために、刃は勝巳の背中の肋骨のところで止められた。
「――ごぶッ!」激痛に、勝巳は体を痙攣させた。
すぐにナイフを引き抜き、まゆみは、今度こそ狙いを外さないように、慎重に、時間をかけて、臓器を狙った。
「あのねえ、生きていても無意味なんだから、死んでくれる?」
「……ぃ」
かすかに、勝巳は喘いだ。無意味じゃなかった。少なくとも――。
最後の力で、握り締めていた頁を、ぐしゃぐしゃに丸めて、円陣の中に振り飛ばす。
「! あんた今度は何を!?」
だが、まゆみのことなど、彼は眼中に無かった。
じっと、円陣の中で焼かれる、異形を、どこか優しい目で見つめていた。死と生の間の悪夢の中でも出遭ったその姿を、まるでデジャヴでも見るかのような心地で、今、ここで目の当たりにしていた。だが湧き上がる感情は、悪夢の中で抱いたものと近しいものだった。親しみと懐かしさ。この悪魔は、今や胸に穴がない。穴は埋められたのだ。満たされたのだ。完全な形へと成ったのだ。
彼にはもう分かっていた。
異形の正体を形容する、もっとも相応しい名が。
「……なぁ、おい、お前なんだろ」
かすかな呟きに、まゆみは青ざめた。
「まさか、そんな」言いかけて、すぐさまアセイミナイフを振り下ろした。「それ以上、私を邪魔するな!」
だが、間に合わなかった。
「馬鹿だな、名づけてやるよ、糸辺隆」
振り下ろされたアセイミナイフが、『見えざる手』によって粉々に砕かれた。まゆみの細い指の数本も巻き添えに潰されて、血まみれの金属片が勝巳に降りかかる。
甲高い絶叫がまゆみの唇からほとばしった。砕かれた指の痛みよりも、恐怖の色が強かった。
恐怖――間違いなく恐怖だった。凄まじい恐怖だった。
既に光を失った円陣の中から、めらめらと全身から炎を上げながら、背の高い、がっしりとした体格の少年が歩み出てきた。彼女への桁外れの憎悪と害意に、目じりが裂ける限界まで開かれた目といい、わざとらしく骨を一本ずつ鳴らす様といい、炎をまとった長い舌で嬉しげに唇を舐める態度といい――。
『――GUOOOOOOOOLOLOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHN!』
それは夜空を震わせるほど、吼えた。
それは音波ではなかったが、それから半径数キロ内にいた者を、一瞬、びくりと驚かせた。
「な、何を、何を、あああ、したのよ、あ、あんたはッ!」
がたがたと震えるまゆみは、どもりながら勝巳を問い詰めた。
「――僕は、ただ、檻の鍵を投げ込んで、名前を呼んでやっただけだよ」
「そ、そんな馬鹿な、ヤツがあんなものに、なれるハズがッ!」
ひくッとまゆみは喘いだ。
今は、それどころではない、逃げなければならないのだ。
道を、逃走経路を確保しなければ!
ばっと勝巳から降りると、潰れた指で、グラン・グリモアの頁をかき集めた。この魔の本は、少しなら魔に対抗する能力を有しているはずだ。盾代わりに使えるはず――。
しかし、遅かった。
『うおァおおおおおおろぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおゥ――!』
それは炎と咆哮を口から吹き上げて、まゆみに襲いかかった。彼女を押し倒し、首に手をかける。
慌てて彼女はグラン・グリモアをかざそうとしたが――それから炎上を始めた。古い本はあっという間に消し炭になり、手放す間もなく、彼女の腕に火が移った。肉の焼け焦げる匂いとまゆみの絶叫が辺りに充満した。
『俺は言ったぜ、アイツの分の復讐も果たしてやると。だからテメエだけはそう簡単に殺してやるかよ』
炎を振り払おうと手を振る彼女の背中側が、黒く染まる――次の瞬間、穴は彼女に食らいついた。そして、下へ下へと引きずり込む。
まゆみは、自分が何をされるのか、理解して震え上がった。
地獄――魔界への道連れにされるのだ。
「い、いや、嫌! やめて!」
それを聞いて、燃える異形は激昂した。本当に激怒した。
同じ言葉を、違う状況で、違う人間が言ったのだ。
その人間は、もう生きてはいない。
『バーカ』異形はまゆみの唇をめくり上げると、その上の前歯の一つをへし折った。『何が「やめて!」だ』
「いぎゃあああああああああああああ!」
まゆみがそれで気を抜いたためだろうか、あっという間に、肩から下が、穴に呑まれてしまった。異形は彼女から手を離した。そして、残虐な目で、彼女をまじまじと観察した。喜悦と満足感の入り混じる、獣のような目つきだった。
「あ、あ――た、助けて」
まゆみは勝巳に目を向けたが、勝巳は半分目を閉ざして、顔を上げているのも辛い様子で、まったく話にならなかった。
しかし、小さな声で、「あんたは言ったよな、自分は特別なんだって。 確かに特別だよ、生きながら地獄に行けるんだからさ。良かったね、ここじゃないどこかに行けて」
「い、嫌なの!私が欲しかったのは――」
もう鼻まで呑まれてしまった。まゆみは泣き出した。勝巳は嘲った。
「あんたが欲しかったものは、絶対にあんたじゃ得られない!」
燃えている腕まで、彼女がすっかり呑まれてしまうと、穴は徐々に小さくなって、消えてしまった。
――勝巳は小さく息を吐くと、必死に意識を保とうとした。目を開けているのも、呼吸するのも辛かった。もうすぐにMr.フェンスターの呼んだ増援がやってくるはずだった。ここで意識を手放せば、あの世へ近づくのだろうと分かっている。だが、揺りかごで臨死の体験をしたためか、恐怖は少なかった。
(あーあ、こんな風になるなんて、思わなかったな)
彼はADAMASTORでの会話を思いだした。
「今やれること、それは、アイツの復讐を、僕が代行してやることだ」勝巳は言った。隆の無念の復讐をすると断言した。
「おいおい」
と、店主は口を挟んだ。
「それは依頼なのか?」
「依頼だ。僕に代行する機会をくれ」
「いいだろう。だが代償は分かっているな?」
「分かっている」
勝巳は、頷いて見せた。
「僕の、何が欲しい」
「そうだな――」
と、店主はしばらく考えて言った。
「お前と彼の、記憶を
「分かった」
――それの是非善悪はともかく、彼はやったのだ。
結果的には、成功した。傷だらけになりながらも、彼の復讐を見届けた。成功したのだから――まだ死ぬわけには行かない。意識を失ってはならない。絶対に。絶対に、だ。
必死にこらえていると、ふと頬に触れるものがあった。彼の指先が、大きな円を描きながら、勝巳の頬を触っていた。
「?」
視線を、苦労して上へ向ける。ふてぶてしい笑み。自信に溢れて、やや荒んでいる。
見慣れた、隆の笑みだった。
『これで良かったんだ』
「――」
『俺は、あるべき形に戻った、たったそれだけだ――』
ふっと、炎が吹き消されるように、隆の姿は消えた。
後はどこまでも黒い夜空が広がっているだけだった。
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