第10話 魔術師

 ハヤテは不在だったが、秘書に声をかけただけで、勝巳は無事に揺りかごのある部屋へ入ることが許された。

「さーてと」

彼は誰も居ないのに口にすると、デスクを押した。

滑らかにデスクは窓際へすべり、下にあった揺りかごが浮上する。

「!」

揺りかごの中に、誰ががいた。

驚く間もなく、浮上した途端にそれが内側から開かれ、勝巳は息を呑んだ。

むくりと人影は起き上がり――

「やあ!君が伏木勝巳君だね?よろしく!」

爽やかに挨拶した。

「あなたは誰なんです」

外見は若い。ブロンドに青い目。二十歳そこそこだ。きっちりとしたスーツ姿で、若いこともあって、まるで就職活動中の学生のようだった。

だが、漂わせる雰囲気は、どこか蒼然としたものだった。

「僕はジョー・フェンスター。那由他記室なゆたきしつ委員会のエージェントだ。Mr.フェンスターと呼んでくれ」

よく通るテノールの声。発音は完璧だった。

「……真なる神の奇跡の記録、保存を主な活動目的とし、世界中に支部を持つ巨大オカルト組織が、僕に何の用です」

にっこりと、彼は微笑んだ。見事なスマイルだった。ポーカーフェイスのように、感情を見せないための表情だった。

「流石だね、君は。ちゃんと知識を持っているようだ」

「そういうのはどうでもいいと言っているんです。――用件は何ですか?」

勝巳は珍しく、苛立たしげだった。完全なポーカーフェイスの相手に警戒するなという方が無理だった。

「よし、端的に言おう。禁書【グラン・グリモア第13版魔神録】――その中の『黒の書』を知っているかね?それを所有してはいないかね?」

何かで読んだことがあった。――グラン・グリモアといえば名高い魔道書だ。バチカンの禁書目録にその名を連ねている。そして、黒の書――数ある魔道書の中でも、特に黒魔術系の召喚術について書かれたものだ。しかも、魔神録。その効力に憧れての贋作も数多いが、本物ともなれば、古代に封じられた異教の神々である魔神――悪魔を、現代に蘇らせうるだろう。

「知ってはいます。でも所有も閲覧もしていない」

事実だった。そういう、持っているだけで危険分子と見なされかねない代物は、彼は持たないようにしていた。

「口では何とでも言えるだろう?」Mr.フェンスターは、どこかから取り出した金属製のステッキの先で、勝巳を指した。「君だってADAMASTORに出入りできていたのだから」

「ADAMASTOR……」

思い出した。JJは言っていた。彼らは金次第でどんな望みをも叶えるのだと。

「知っているのだろう?ADAMASTORの連中がどの様な輩か」

彼らは誰に何を売ったのだ?

脳裏に浮かんだ謎に、ひやりとする。

「知っています、でも――僕は何もやっていない」

Mr.フェンスターはステッキを持ち直し、ぶん、と横に振った。ステッキの握りの部分が、ぴたりと勝巳のこめかみに触れる。彼の脳天を砕く寸前だった。

「――ッ!」

悲鳴はこらえた。だが、冷や汗はどうしようもない。

「僕は短気なんだ、さっさと答えろ!」

やけに高圧的に、彼は問い詰めた。

エセ紳士め、本性を見せたな、と勝巳は思った。

「答えろ、と言われても――知らないものは知らない。探すなら他を探してください!」

事実だった。つとめて冷静に述べた。それが、気に障ったらしかった。

勝巳は、Mr.フェンスターの笑顔が、邪悪なものに変わったかのように見えた。

「強情だね、君も」

ステッキで勝巳のみぞおちを、どん、と突いた。

こみ上げる嘔吐感。激痛。勝巳は前のめりになって胴体を抱え、絨毯に膝を突いた。そのまま、襟首を掴まれて、彼は引きずられた。ふざけるなと、思ったものの抵抗も出来ず、彼は揺りかごに頭部を突っ込まれた。

「これはいい機械だ。何故この会社が所有しているのかは知らないが――自らを鍛える機具としても、拷問機具としても素晴らしい。君も入りたまえ」

やめろ、と呻くのも間もなく、彼の全身は揺りかごに包まれた。

辛うじて首をひねると、見事なまでの微笑を浮かべたMr.フェンスターの目と視線が合わさった。勝巳を軽蔑しきったかのような、冷えた目だった。

「あんた――!」

呟きかけたところで、強烈な眠気に、勝巳は襲われた。


 不意に覚醒する。目覚めの気だるさもない。

まるで、ぷっつりと鋭いナイフで切られた糸のような気分。

「ここは――」

どこだ、と口にする前に、直感的に理解した。

向こう岸の見えない、暗い大河のほとり。暗くも明るくも無い、独特の時間帯。空は濁っていて、夜昼の区別もはっきりしない。風さえ吹かない。

直感的に理解した。ここは異界、この世ではない世界だと。

その境界間際に、彼はいるのだ。

 ――ハヤテが開発部門に命じて作らせた『揺りかご』は、人に臨死体験をさせる装置だった。彼女はある事件の後から、死に瀕するような体験をしなければ、生きているとの実感――充実感が得られなくなってしまったのだ。だが、生の実感を得るために作り出した機械は、思わぬ別の作用をもたらした。

死への恐怖の減退と、異世界を垣間見る恐怖の体験。

懲罰にも、鍛錬にも使えるのだった。

ハヤテはあくまでもそれらを恐怖を催す幻覚、幻聴と信じていたが、勝巳はすぐに気が付いた。それらは別世界の事実なのだと。

 大河は、不気味なほど静かに流れている。勝巳は指先を浸してみた。生ぬるい水が不愉快にまとわりつく。

「レテ河、三途の川――次元世界の境界線は、やはり水なんだ」

しばらく流れに逆らって、川原を歩く。その間、誰にも出くわさないので、たずねる事もできなかった。

ここが異界であるとしたら、どこの異界なのだろうか。天界なのだろうか、魔界なのだろうか。

やがて、どこかから唸り声が響いてきた。巨大な獣の咆哮。勝巳はぎょっとして、辺りを見回した。

彼岸に、何かがいた。それは滞空したり、地面に激突したり、跳躍したりを繰り返して――まるで頭を無くしたバッタのように、暴れまわっているのだった。必死に河を渡ろうと試みるが、どうしても水に触れられないようだった。

近づくにつれて、はっきりと見えた――人とウロコを持つ生物が混ざり合ったような、大きくておぞましい怪物がのた打ち回っている。角の生えた、どの生物を模したかも分からない金属製のヘルム。胸部にぽっかりと空いた空洞。

奇天烈の極みのような存在であるのに、強烈な既視感に勝巳は戸惑った。どこかで見たことがあった。確かにどこかで。彼はこれを見たことが。確かに僕はどこかでこれを見たことが、ある!

「――GUUUUUUUUUUUUUUUUUUUOHLOLOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON!」

は勝巳を見つけた途端に、地面も震えるような、大咆哮を上げた。

「――DOOUGLOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON」

その声にもならない雄叫びの中に、彼は確かに聞いた。

「……『魂を返せ』?『名を返せ』?」

「GOUGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOON!」

異形は吼えた。吼えて暴れた。鋭い爪牙で自分の体を切り裂き、赤い血をほとばしらせる。自傷行為を続けるその姿は、異常なほどの生命力に満ち溢れていた。悪魔のような怪物だった。

だが、あるべきものが欠けているような印象を、勝巳は感じた。どうして胸に穴が空いているんだ――?

「でも、悪魔だとしたら、名も魂も無いだなんて……そんなハズは」

悪魔の我思う故に我ありコギトエルゴスムは、その魂の名だ。魔の肉体を形成する情報の礎が、名の言霊なのだ。だから、高位の悪魔であればあるほど、名を重んじる。

勝巳の目に映る異形の者は、その迫力といい存在感といい、とても低位の悪魔だとは思えなかった。おそらく魔神クラスの悪魔だろう。

「GULOOOOOOOOOOOOOOOOOOOH!」

悪魔は吼えた。音にならない絶叫だった。

「あ!」

勝巳は殴られたかのようにのけ反って、そのまま川原に倒れた。爆音のような、広域の精神感応に耐えられなかったのだ。

「な、何て声を出しやがる――!」

だが、倒れた拍子に、それは視界に入った。勝巳は息を呑む。

所々剥がれかけた金メッキの文字が、ちらちらと光る。

おそるおそる、起き上がって近づくと――間違いない、ADAMASTOR。しかし古びた洋館は無く、扉だけが地面から突っ立っている。

「――まさか、だろ」

ノックすると、扉は内側に開いた。いや、開かれた。

カウンター内に、まるで生ける彫刻作品のように綺麗な少女が座っていた。カウンターがあるきりで、壁や床は無い。

「シン……さん?」

そっと、呼びかけた。

「ええ、私です」

彼女は、触れればひんやりとした磁器の滑らかさを感じそうな、無機質的な肌をしていた。声も同じ、質感を持っている。

「どうして、ここに?」

「ADAMASTORの扉は世界のどこにでもあって、どこにもないのです。もっと単純に言ってしまえば、店主は気まぐれで色々な場所に扉を移転するのです」

「気まぐれ――ですか」

その気まぐれを左右する事由を、運命と呼ぶのだろうな、と勝巳は悟った。

「私はそれに従うだけです」

彼女はタロットカードをカウンター上に3枚並べた。

勝巳は当てようとして、その前にある事が気になった。

「ここに、Mr.フェンスターも来たんですか?」

「答えられません。それが決まりです」

来たのだろうな、と勝巳は思う。そして誰に『黒の書』を売ったのか、聞き出そうとしたのだろう。そして、間違いなく失敗したのだ。だから苛立っていたのだろう。

とばっちりで僕が、勝巳はうんざりした。ここに来たわけだ。

「恋人、世界、塔」

当たるという確信があった。彼女の思考をわずかに突くだけで、表のアルカナは示される。それを言うだけでいい。

しかし、それ以上は――何かの壁が設けられているのか、一切わからなかった。どうやら人のプライバシーの領域には踏み込ませてはくれないようだ。

「正解です。それでは何を知りたいのですか?」

「僕は色々と知りたいことがあって、臨死の際を体験しようとしたんだけど。僕はどうして霊能が覚醒したんだい?」

「あなたが死に迫りつつあるから、です。死と生の界移動はご存知ですか」

「『死とは新たなる世界への不帰の旅立ちである』、こんな所かな?」

「その通りです。あなたは自らの死が近いゆえに、あの世の能力を得つつあるのです」

「なるほどね。そうか、こうして僕はどんどん死にかけていくんだ。――僕はどうしたらいい?」

勝巳は、ぼう然と呟いた。

「生きたいですか?死にたいですか?」

「そりゃ、生きたいよ。死ぬのも怖いから」

少女は――シンは、事務的に言った。

「あなたの命より大事なものを捧げれば、将来は変わるでしょう」

「命より、大事なもの?」と、勝巳は繰り返した。「僕は幸せな人生を送っているから、僕の命が一番大事だと思っている」

「いいえ、それは偽りです。――家族、友人、恋人。沢山、あるのでしょう?」

「……」

勝巳は露骨に嫌だという顔をした。

「いいや、逆だ。だから嫌なんだ。断るね。とても幸せな人生を送ってきたんだねと笑われても、それは嫌だ」

「あなたはどうして善い人間であろうとするのです?」

シンは、冷たい声でたずねた。

「善くことに何も利益を見出してはいないのに、そうであろうとするのですか?」

まるで誘導尋問をされているようだった。NOと答えたはずが、YESと頷いているような。

「知るか。僕に聞くな!僕はただ僕であるだけだ!」

勝巳は吐き捨てた。まぎれもない、本音だった。

彼はただ何となく、社会的正義や倫理を踏破できないでいたのだ。他には特に理由などなかった。道を横断するのに、何となく横断歩道の前に立ち、青信号を待つような――そういうものだった。

「……あなたは素晴らしいですね」

いきなりだった。勝巳は目を丸くした。彼女の口から、そんな言葉が出るとは、まったく思わなかった。皮肉めいた印象も無く、そこも新鮮だった。

「え、あ、ありがとう――」

反射的に呟くと、いいえ、と返された。

「階上に何があるかを知りながら、目の前にある梯子に登らないということは、素晴らしいことです――いえ、奇異です」

「君が今いる環境が、たまたまそうだってことじゃなくて?」

「そうかもしれません。ですが、あなたは素晴らしいと思います」

「ありがとう」

また彼女は目を伏せて、いいえ、と返した。

「それで――」

と、勝巳が言いかけたのを遮って、

「あの吼えたける悪魔のことですね」

と、彼女は静かに言った。

「あれは何ですか?」

シンは、少し黙ってから話し出した。

「魂も名も無き悪魔だそうです。本来なら存在しえない異形ですが――この境界は現世であり、あの世である場所。あのような中途半端な存在でも、ありうるのだろうと店主が言っていました」

「……初耳だ」

「あれは、本当に珍しい存在です。知らなくても当然かと」

「でも、僕はどこかで見たことがあった」

勝巳は呟いた。

「確かにどこかで――」

そのとき、ぐらりと視界が揺れた。凄まじいめまいに襲われて、勝巳は両手と膝をつく。

「あ、あああ、そんな――」

急激に意識が薄れていく。思考がまとまらない。いや、ぼやけていく。シンの声が、遠くから聞こえてくるようだ。それはあの悪魔の咆哮と混ざり合って――。

「また機会があれば、お会いしましょう」

GOUOLOLOOOOOOOOOOOOOOON!

世界がぼやけていく中、どこまでも叫びが響いてきた――。



 ……どこかから声が響いてくる。

「勝巳!起きてくれ!」

うるさい、黙れ。

僕は寝たいんだ、邪魔をするな、と振り上げた手が何かに当たった。鈍い音。何に当たったんだろうと、重たいまぶたを上げると、まなじりを吊り上げたハヤテと目が合った。

「……」

声を出すのも億劫で、勝巳はそのまま目を閉じようとした。

「起きろ。話がある」

だが襟首を掴んで、引き起こされた。揺りかごから出た途端、勝巳は吹きだした。

Mr.フェンスターが屈強なエージェント2人に組みふされて、まるで親の敵を見るような目で、勝巳を睨んでいるのだ。

「Mr.フェンスター……よくもやってくれたな」

「それはこちらが言いたい」

Mr.フェンスターというのか、とハヤテは苦々しく呟いた。

「こいつは社長室に不法侵入したのだが、勝巳、何もされなかったか?」

「思いっきり殴られて、揺りかごに突っ込まれました。僕を殺すつもりだったようです。あんなに怖い思いをしたのは、生まれて初めてです」ウソと事実を混ぜて語った。

もっとも、胸の辺りがまだむかついていた。

「そうか」

ハヤテは指を鳴らした。

エージェントがエセ紳士をぶん殴る音がしばらく続き、勝巳が眉をひそめると、ようやくハヤテはもう一度指を鳴らした。音は止む。

その間、顔色一つ、彼女は変えなかった。

「不法侵入したということは、わが社の警備体制に不備があったということだ。だがそれは、許すか許さないかの問題ではない」

「許さないで下さい。二度と会いたくないんだから」

「よし、分かった。それを捨ててきてくれ」

Mr.フェンスターはまるでボロ雑巾のような有様で、社長室から連れ出された。

「最近の連続行方不明事件も、アイツが何かしら関与しているのではないだろうね――」

それを見送って、ハヤテは口に出した。

「何でも、子供から大人まで、消えうせているというじゃないか」

勝巳は、首をひねった。那由他記室委員会はオカルト組織だ。そこのエージェントが人を拉致する事など、あり得ないように思える。

「……それは、無いと思いますけど」

「そうか。あと――お前の予知の件だが、面白い情報を得た」

「どんな情報です?」

ハヤテは、ちょっと眉をしかめて、

「工場の化学汚染の浄化作業中に、巨大なウロコを発見したらしい、魚類でも爬虫類でも無い。もちろん冗談か悪質な悪戯だろうが」

「そうですか……」

勝巳は適当な相槌を打った。だが、考えていたのは、工場を襲ったのはやはりあの悪魔なのだろうなという、突拍子も無いものだった。

「ねえハヤテさん」

でも、やはり、バカバカしい。半ば疑いつつ、勝巳は一応はそう決め付けた。

「Mr.フェンスター、どうやって捕まえたんです」

「秘書が見つけたのだよ。アポ無しに社長室にいた男を」

「そうでしたか。良かった。あの野郎、短気で困ったんですよ」

「そうか。だとしたら、私の勘は正しいな」

「勘?」

「あの男は私と似ているような気がした、それだけだ」

ハヤテは珍しくぼそぼそと呟くと、勝巳を抱きしめた。

「何にせよ、お前が無事でよかった。本当に」

勝巳は目を閉じる。男性用のブランド香水の匂い――ブランド名は忘れた。それの中にほんのりと混ざる、ほろ苦い体臭。

甘ったるい女性らしさのないその匂いが、勝巳は好きだった。

人のぬくもりに包まれるという快感。おそらくもっとも原始的で、究極的なそれを味わいながら、勝巳はぼんやりと考えていた。

 僕は幸せだ、もう十分だ――と。

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