第7話 JJ

 「オマエ、いいやつ!」

可愛らしい細工物のような洋菓子の数々――沢山のそれが寄せ集まると、カラフルなブーケのようだった――を片端から鷲づかみにして貪り食う。

よほど甘いものに飢えていたのか、ガリガリに痩せた少年は両手にエクレアとブルーベリーのムースを掴んで、確保してから、言った。

「う、うん、ありがとう」

勝巳は、目の前の光景に、わずかに青ざめていた。

 ――数分前のことだった。

クラス選試も終わったことだし、アダマスターに行こうとふと勝巳は思った。だとしたら手土産も必要だろうと、駅前の洋菓子屋で、彼女の好みに合うことを祈りつつ、適当に見繕って、色々な種類の洋菓子を買った。

贈り物にしたいんですけど、と店員に伝えて、可愛らしい箱に保冷剤と一緒に入れてもらった。

彼女に気に入ってもらえるかどうかはともかく、偽善でもいいから、誠意を示したかった。

 先日のように、そっと扉を押すと、奥の方のカウンターで、ランプをともしたまま、眼帯の少年がぐったりとしていた。

「――」

彼を認めると、不機嫌そうに鼻を鳴らし、カウンターにカードを伏せる。

「女司祭」

当たりだった。

2枚目が、すぐに伏せられた。

「塔」

3枚目の時、彼は少しだけ考えた。

外れたなら、菓子だけでも置いて帰ろうか。

「吊るされた男?」

――少年は、首を左右に振った。

「あ、そっか」

幸運の女神は、本当にアテにならない。

「――じゃあ、これだけでも」

と、勝巳が箱を差し出した時だった。

少年の形相が、がらりと変わった。

差し出した勝巳の両腕を掴むと、体をひねってカウンターの後ろの棚を蹴飛ばす。

ぐるん、と棚は回転した。

その背後には穴倉らしき暗黒が口を開けていた。

「あ……」

面食らっていた勝巳は、腕ごと引っ張られて、はっとした。

「ま、待った、全部あげるから――ぎゃあッ!」

抵抗したが、まもなく、彼の背後で、秘密の扉が閉じた。

 真っ暗な中で、階段を滑り落ちるように下って、着いた先は、まるで地下牢のような場所だった。

床にも壁にも、石が敷きつめられている。天井だけは木造で、むき出しの太い梁が、真っ黒くすすけていた。

ひんやりとした空気の中で、人の脂肪から作ったような黄ばんだロウソクが、大きな長方形の石のテーブルの上で、じりじりと音を立てて燃えていた。

そこに眼帯の少年はケーキごと勝巳を連れてくると、箱だけ奪った。猛然と、引きちぎるようにふたを開けて、顔を突っ込むと、食べ始めた。彼女にあげるはずだったのに、と勝巳はショックだった。時折、少年は顔を上げたが、奪ったら殺す、と言いたげに、目は勝巳を睨んでいた。

まるで、飢えた獣が、しとめた獲物を安全なねぐらまで引きずって、むさぼっている様だった。

「――だ、だから取ったりしないって」

勝巳は、逃げようと後ずさった。

洋菓子の尽きたとき、彼は勝巳をどうするのだろうか?

勝巳は、想像したくもなかった。

「にげるなよ」

抑揚の無い、淡々とした声に、勝巳はぞっとした。

「あ、あのさ――」

勇気を振り絞って、彼は言った。

「アルカナ当てに、僕は失敗したんだろう?だったら、出て行った方がいいんじゃないか?」

「にげるな」

少年は、クリームと食べかすにまみれた顔を、にゅう、と勝巳に近づけた。

ひ、と勝巳はのけぞって、小さな悲鳴を上げた。

少年の唇から鋭い八重歯が見えていた。

あれほど洋菓子を食べたのにも関わらず、ひどく生臭い息が、勝巳の顔にかかった。

やめてくれ――と、彼が叫びかけた時だった。

「このうまいものは、どうやったらくえるんだ?」

勝巳は、え、と目を丸くした。

緊張が切れたとたん、その場にへたりこむ。

「知らない、のか?」

信じられなかった。

この少年は、どういう人生を送っているのだろう?

外見は、勝巳より少し年下のようだが――。

「しらない、だから、おしえろ」

「材料とかも?」

「ざいりょう?」

「小麦粉とか、バターとか、砂糖とか」

「ああ」と少年は納得したように頷いた。「シンさまのたべものか」

「シンさま?」

もしかしたら、という予感がした。それは当たっていた。

「ここの、あとつぎだよ」

「店主の娘なのか――」

「むすめ?」少年はいぶかしそうに首をかしげた。そして、ニヤニヤと笑いだした。「うん、そう、むすめ。たったひとりのむすめ」

気に触る言い方だった。

「何か、複雑な事情でもあるのかい?」

「なんにも、オレちゃんはしらないもの、ひひひひ」

いやらしい笑いを浮かべたままの彼に、これ以上聞いても無駄だろう、と勝巳は思った。

「ところで、君は?」

「ん? だれ?」真顔で返される。

「だから――」勝巳は、そこで、少しだけ考えた。「オレちゃんの名前は?」

「JJってきごうが、オレちゃんのねーむらしい」

話していて、ひどく疲れる相手だと勝巳は思った。

「――じゃあJJ、僕はまたいつか美味しいものを持って、ここに来るよ」

「ギャオ!」

変な雄たけびをあげて、JJは勝巳に飛びついた。

「うわッ!」

勝巳はぎょっとした。

JJはとても軽かったのだ。

思いきり飛びつかれても、さほど動じないですんだくらいに。

勝巳は普通の体格だったし、大して鍛えている方でも無かったのだが……。

「オマエ、とてもいいやつ!」

「……そりゃあ、どうも」

JJはすぐに勝巳から離れ、洋菓子を貪り食うのを再開した。

「オマエ、いいやつ!」

いいやつ、と呼ばれていたが、その当人はあまり嬉しくなかった。やや青ざめてさえいた。

「う、うん、ありがとう」

「だから、いいことをおしえてやる」

「いいこと?」

教えると見せかけて、危害を加えるつもりなのだろうか?

「いいんだ、別に」

勝巳は首を横に振った。

「別に、僕は知らなくてもいいんだ」

その程度の危険な誘惑なら、はね退けられた。

しかし、

「シンさまたちについて、オマエはしりたくないのか?」

ひどい誘惑だ、と勝巳は顔をゆがめた。

JJが悪魔のように思えた。一番揺さぶられたくない心の奥を、ずばりと無遠慮に突き刺された気がした。

だが――彼は逆らえなかった。

「……知りたい」

こっちへ来い、と手招くと、JJは、勝巳の耳元で囁いた。

「イーブンな代償さえ払えば、あいつらはどんな願いだって叶えるぜ」

「!」

全身に、鳥肌が立った。

理性の働く前に、上ずった声で、彼はたずねていた。

「どんな願いでも……?!」

「代償がそれと同等イーブンなら、さ。――まあ、考えてみるといい」

――ぐい、とJJは勝巳を押しやると、むしゃむしゃと食べ始めた。

もう興味がないらしく、勝巳の方を見ようともしなかった。

勝巳は、無性に逃げ出したくなった。

怖かった。

JJよりも、彼女が怖かった。

彼女は、勝巳に、いったい何を叶えさせたいのだろう?

「JJ、君は」

階段まで後ずさってから、勝巳は無理に自分を落ち着かせて、ある疑問を口にした。

「願いを叶えたことがあるのか」

「ん」

気軽な返事だった。

「あるよ」

下唇を少し噛んだあと、勝巳はとうとう、訊ねた。

「――何を代償に、どんな願いを叶えたんだ?」

「ん~」

JJはマドレーヌを丸ごと飲み込んで、にやにやと笑いながら言った。

「わすれた」



 同等の代償――命と吊りあうものなど、やはり命しか無いのだろうと、勝巳は思った。

もしかすれば、莫大な金で、命を買うこともできるのかもしれないが――いくら彼が大事に育てられていても、そこまでの金は持っていなかった。

第一、JJの発言だって、これといった確証が無いのだし――。

そもそも近未来に自分は死ぬだろうかと冷静に考えている自分も、どうかしている。

どうしようかな、と暗い裏路地をとぼとぼと歩きながら悩んでいたが、彼は突然、それどころではなくなった。

小さな、ぞわぞわと背筋を這うような、気味の悪い声が聞こえたのだ。


 次はあの子にしよう

 子犬のしっぽの男の子


 そういえば、最近、この都市では行方不明者が増えているという話で――。

「!」

 いきなり逃げ出せば、気づかれる。彼は荒くなりそうな呼吸を、必死で抑えて、人通りの多い方へ、出ようとした。

 その間も、声は響いてきた。


 先に足の親指は切ってしまおう

 そうすれば走れなくなる


ふざけるな、と勝巳は歯を食いしばった。そうしていないと、混乱と恐怖で、おかしくなりそうだった。

なぜ、いきなり聞こえるようになったのか?

どうして自分が狙われているのか?

何も分からないまま、ただ声が徐々に這いよってくる。


 男の子の成分は

 たんぱく質と可愛い泣き声


このクソ野郎。

勝巳は内心で悪態をついた。この変態に、自分が――。

だが、それも気休めでしかない。

じきに、彼は、ハァ、ハァという、まぎれもない喘ぎ声が、背後の暗がりから忍び寄ってくるのに気が付いた。

「う、わ、あああああああああああああああ!!!」

その瞬間、ぶつり、と彼の中で何かが限界を越えた。何かに、思いきりはじかれた様だった。まっしぐらに、明るい方へと走り出した。

彼をそうさせたのは、どうしようもない恐怖、嫌悪感、逃げたいという衝動の混じりあった結末だったのかもしれない。

つんざくような悲鳴を上げたつもりだったが、実際は、空気が喉からもれただけだった。

大して鍛えてもいなかったので、すぐに息があがった。

それでも、恐怖だけで、それに追い立てられるように彼は走った。


 逃げる子は悪い子だ


喘ぎ声は彼の首筋にかかるほど寄ってきていた。

なまぐさい息だった。まるで墓場から這い出た屍のような。

かびたような体臭も酷かった。

勝巳は、無理やりに息を止めて走った。

路地からもう少しで、人通りのある道へ出られる所に、たどりついた。

そこには、光が差していた。

助かった――勝巳が、安堵した瞬間だった。

背後から肩を強く掴まれた。

そして、

「捕まえた」

ひどく嬉しそうな一言が、耳元で囁かれた。

 ――時間が真っ黒に染まって、止まった。

そして、勝巳は、積み上げていた何かが、がらがらと、もろくも崩れていく音を聞いていた。視線は凍りついたように、目指していた明るい世界を、ただ見ていた。

 ――もう少しだったのに。

勝巳は、案外冷静に思った。

これで、もう僕はお終いなのか――?


「テメエ何してやがるんだ!」


怒鳴り声に、勝巳ははっと我に帰った。

肩の手を、身をよじって振り払う。

すぐに逃げていく足音を聞いて、ああ、と止まっていた呼気を吐き出した。

「た、隆――」

隆は、原付に乗っていた。勝巳はそのエンジン音など、まったく聞かなかった。とんでもなく動揺していたのだろう。

「おい、しっかりしろ!」と、原付から飛び降りて、真っ青な勝巳を隆は引き起こす。

「あれは」ひりつく喉から、強引に勝巳は声を出した。「誰だった――?」

隆は、めずらしく言葉に詰まっている様子だった。

「……ミイラだった」

包帯で顔をぐるぐる巻きにしていたのだろうか――振り返らなくて、正解だったと彼は思った。

「そうか」

勝巳が落ち着いたのを見て、隆は倒れた原付を起こした。

「なァ、アレだ、こういう時は、ケーサツに行こうぜ」

「……2ケツでか?」

ただでさえ隆は、普段から警察に厄介になっているのだ。

「非常事態だろ、グチャグチャ言ってんじゃねーよ」


 殴ってでも連れていくぞ


重ねて、そういう直情的な声が聞こえてきたので――つい、勝巳は苦笑してしまった。

どうやら、心の声というヤツらしい。

だが、どうして聞こえるようになったのだろうか?

襲われたことで、感情が高ぶったための、一時的なものなのだろうか?

「ああ、うん――」

バランスを取りながら、原付は発進した。

「あのさ」

言い忘れていたことを、勝巳は思い出した。

「おう」

「ありがとな」

「別に気にすんなよ」


 必ずヤツをブチ殺す


隆なら本当にやりかねないと、慌てた勝巳は釘を刺した。

「生かして、思い知らせてやろうよ」

「!」

原付は黄信号で急停止した。

隆の性格なら、赤であろうとそのまま進むのだが。

「どうして分かった?」

ここで答え方を間違えると、勝巳でさえ、殴る蹴るの暴行を受けるのだ。

「オマエの性格くらい、分かっているよ」

「はッ!頭のいいヤツは性格が腐っているなァ!」

隆はそれからごそごそと懐を探ると、後ろ手で、勝巳にある物を手渡した。

「う」勝巳は顔をしかめた。渡されたのが、すべすべとした鞘に仕舞われた、折りたたみ式のナイフだったからだ。

「これから警察に行くってのに、コレはいくらなんでも――」

「うるせーよ。護身用だっつーの」


 渡し忘れたらどうするんだよ


「お前は極上のバカだろう」勝巳は、色々と、呆れ果てた。

「黙れっつってんだよ。――それでだな、襲われたら、絶対にマジで殺されるって瞬間まで、ソレは見せるんじゃないぜ。威嚇したら、逆にキレて襲ってくるってこともあるからな」

「いやに実戦的だな」と言い終えないうちに、彼のわき腹に肘が入れられた。彼は内臓を抉られるような痛みに脂汗を流した。

「とにかく、本当にボコられるって時に――メチャクチャにソレを振り回せ。必ず相手は怯む。想定外だからな、必ず一度は怯む。そのスキにオマエは逃げるって寸法だ」

「……改造スタンガンの方が、効果があるだろうに」もはや意地だった。

「――黙れっつっただろうが!」

うるさい野郎を原付から叩き落とそうと、隆は上体をひねった。

「――あ?」

思いっきり殴りつけてやろうとしていたのも忘れて、彼はまじまじと勝巳を観察した。

勝巳の瞳孔が開いていた。

だが、どこも見てはいなかった。口も薄っすらと開かれていて――呼吸は止まっていた。ただでさえ生白い顔は、まるで生きていないかのように青かった。

ある種のトランス状態に陥っているのだ。

彼が極限まで集中したときに、決まってこうなるのを隆は知っていたが――今は、そんな状況ではなかったはずだ。

「……お、おい!」

怖くなった時に、ふっと勝巳の目線が彼を捉えた。

「うおい!」ガラにもなく隆は怯んだ。

「隆」

原始的な感情を押し込めたような、勝巳らしくない、低い声だった。

変質者に襲われて頭がイカれたのか?

そう思うと、隆はぞっとしない気持ちだった。コイツはいつだってクールだったのに――。

「聞いてくれ、隆」

その正気を疑うほどの、異様さが、今の勝巳からは漂っていた。

ようやく、信号が青へと変わった。

「な、何だよ!もう走らすけど、落ちるんじゃねえぞ」

とろとろと原付が走りだした。

「信じてくれなくてもいいんだ」

本当にいきなりだった。勝巳はそう呟くと、隆の両脇から手を入れて、ぐい、と彼の体を引いたのだ――中央線側へ。

「!」

咄嗟のことで対応できず、隆は勝巳もろとも路面に転がった。

原付はガシャンと横倒しになり、サイドミラーが割れてしまった。

幸い、付近に車がいなかったからよかったものの――大事故になるところだった。

「て――テメエ!」

隆は完全に逆上した。

路面から飛び起きるなり、勝巳を蹴りつけた。背中を丸め、頭を抱えて、芋虫のように道路にうずくまる親友に、抑えようの無い怒りをぶち当てた。

いくら蹴りつけても抵抗しないので、髪の毛を掴んで引き起こし、その顔を気が済むまで殴りつけた。

爆発した怒りのために、そこが道路であるということも、手加減も、全て忘れていた。骨が折れようが、歯が欠けようが、知ったことでなかった。どうして勝巳がそんな行為に及んだのか、とても考える余裕は無かった。

「テメエなんか殺されりゃよかったんだ!」挙句の果てには、そんなことまで口走る。「助けなきゃよかったぜ」

だが、彼はすぐにその発言を悔やむことになる。

 ドォン――と、落雷のような、轟音が響いてきた。

反射的に隆が辺りを探ると、通るはずだった道の先方が、夕闇の中で、真っ赤に炎上して、黒い煙が立ち上がっていた。

いや、勝巳がこの奇行に走らなければ、間違いなく今頃はその道路の付近を走っていただろう――それに気が付いた途端に、彼の背筋を冷たいものが流れた。

 後で彼は知ったのだが、タンクローリーが坂道のカーブで対向車と衝突し、積んでいた化石燃料が、炎上しながら道を流れるという、大惨事が起きていたのだった。

 「お、おい――」

ためらいながら、彼はぼろぼろの親友に声をかけた。

「悪かったな、ボコっちまって――」

だが、手を離すと、すぐに、勝巳は芋虫のように丸まってしまった。がたがたと、まるで病人のように震えていた。

「……ごめんなさい」

ごめんなさい、そればかりを繰り返す。

隆に怯えているにしては、様子が変だった。

――そもそも、勝巳は彼のキレやすく冷めやすい気性を、誰よりもわきまえていたはずなのに、どうしてあんな行動を取ったのか?

彼はようやく、その不可解に気が付いた。

「勝巳、おい、オマエ――!」

動こうとしない勝巳を抱き起こした時だった。

隆は、本当にどうしていいのか、分からなくなった。

彼は泣いていた。泣きながら、頭を抱えて、延々と謝罪の言葉を繰り返していたのだった――「助けられない、ごめんなさい、ごめんなさい――怖いんだ、焼け死ぬのは嫌なんだ」

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