第6話 姉

 彼は、血まみれの両手を握り締めながら、階段の踊り場に突っ立っている。血まみれなのは、姉の死体に抱きついたからだ。彼の姉は自殺した。通う高校の屋上から飛び降りたのだ。

だが、唐突に彼はうな垂れて、足元のそれを見つめた。

それ――男の死体だった。頭部が変な角度にねじれている。階段から足を滑らせて転げ落ち、首の骨が折れたのだろう。

彼は既にこの光景は夢だと分かっていた。だが、自分の意思ではどうにもならない夢だった。

ぐぐぐ、と強引にねじられるように、男の首が動いた。

彼は、口の中がからからに乾いて、絶叫したかった。だが、できない。これはそういう夢なのだ。

男の顔が彼を向き、かっと目を開いて、こう言った。

「よくも俺を突き落としたな」

場面が変わる。

姉は、弟の目から見ても美人だった。誰に似たのだろうと思うほど、目鼻立ちもしっかりしていて、色白だった。

その姉が、先ほどの男の体の下で、すすり泣いているのだ。悦んで、ではなく、屈辱と絶望と痛みのために。

彼は柱に縛り付けられて、それを見せ付けられている。

男から姉を庇ったために、体中あざだらけで、むごい有様だった。

自分の姉が犯されている光景など、見たくも無い。聞きたくも無い。やめてくれ。俺を殴れ。俺は殴られても構わない。だから俺を殴れ。だが彼は見なければならなかった。そのジレンマに、彼は苦しんだ。姉のためにも、見てはならなかった。しかし、腫れ上がったまぶたは閉じきれず、血を滴らせる唇からは、うめき声の一つも出せなかった。

男が腰を獣のように振っている。姉のすすり泣きが、いっそう甲高くなったようだった。やがて男は動きを止めた。

見ないで、と泣いていた姉は、声を無くしたかのように静かになった。


この瞬間に、姉は殺されたのだと、彼は信じている。

あの男の体の下で、美しい顔もしなやかな体もどろどろに崩れて、まるで腐った生ゴミのようになってしまったのだ、と。


 ――そこで目が覚めた。ひどい夢だった。

だが避けられない。

毎年、この時期になると、否が応でも見てしまう。

彼はぼんやりと肌色の天井を眺めた。

天井?

いや、天井に人の顔が――。

「ちょっと、しっかりして!」

間違いない、人の顔だ。それも大事な。

一瞬とは言え、亡き姉を彷彿とさせる顔立ちの、少女だ。

「あ」

だるい。答えるのも面倒で、そう言う。

「あじゃないってば!滅茶苦茶うなされていたんだよ、びっくりした」

「嫌な夢を見た」

「教えてよ。人に話すと、そういう夢は現実にならないんだって」

「ねえさんが死んでいく。そういう夢だった」

少女は目に悲痛な色を浮かべる。

「自分を責めている?責めても、それは結局、自己満足だよ」

事実を言われて、彼はイライラした。八つ当たりだった。彼女は知らないのだ。彼の姉が死んだ本当の要因を。

「じゃあどうしろってんだよ。どうにもならねえだろうがよ」

少女は、少し考えた後、彼の両手を包むように握り締めた。

薄い皮膚の向こうで、みずみずしい血と肉が生きている。

「何だよ」

口では嫌がってみせたが、彼はその手がどうしても振りほどけなかった。温かかったのだ。心地よかったのだ。その感覚は、恥ずかしさにも勝っていた。放課後の屋上には、彼らだけしかいなかった。

「いくら過去のコトだって、無かったことにはできないよね――」

その通りだと彼は思った。

無かったことには、絶対にできないのだ。過去のことだと忘却の彼方に押しやってしまうことも、できなかった。

「そうだな」

ああ、と彼はあることを思い出して、彼女の手を振り払う。

「これ、やるよ」

ポケットから淡く光る銀の指輪を取り出して、その手に落とした。

手を振り払われてわずかに失望の色を浮かべていた彼女の表情が、ぱっと喜色を浮かべたものに変わる。

「うわ!ありがとう」

「いや、別に――」

「大事にする……うん、大事にする」

目には少しの涙をたたえて、それを大事そうに仕舞った。校則で、アクセサリーの着用は禁じられているからだった。彼女は、後でシルバーチェーンに通して首から下げよう、と思っていた。

「泣くんじゃねーよ、ガキみたいに」

「い、いいじゃんか、嬉しいんだから!」

何だかな、と彼は思う。彼女のことは、別に好きではない。好きだとか、そういう強い感情は、彼はまだ持っていないのだった。だが、こうして一緒にすごしていると、いつか彼女のことを好きになれそうな気がするのだった。それは予感のような曖昧なものではなく、確信に近かった。

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