第5話 店主

 糸辺隆はつるまない。つるむとしても、相手は勝巳くらいだった。勝巳は彼の親友なのだが、ケンカでは役に立たない。どちらかと言うと、何かと相手を挑発しがちな彼を抑える役になることが多い。ただ、隆にその気は無くても、相手方は、見るからにツッパリの不良のナリをした彼に、ケンカをこれでもかと売ってくるのだ。

彼は、だから、一対多数のケンカを買うことが、ざらにある。

そういう時に、彼が何より大事にするのが、逃走経路だった。無理やりに一度勝ったとしても、次の相手に負けてしまったら、何の意味もない。続けて勝つためには、ちゃんと逃げることも不可欠だと思っていた。

その日も、彼はチンピラとやり合って、相手が仲間を呼んだので、さっさと逃げ出したのだった。

しかし――その日は、その仲間が、逃げ込むはずだった路地から出てきてしまい――咄嗟に反対の路地へ飛び込んだのだった。マズいと焦りながらも、背後から迫る足音に追われて、彼はやみくもに逃げた。

やっといたと思った時には、彼は知らない場所にいた。

とにかく、息を整えようと地べたに座った時だった。

「あー、あーゥ」

真後ろから、首元に熱い息がかかった。

「!」彼は、反射的にそいつを組み伏せて、腕をねじり上げていた。

「あ、ああいあー!」

哀れみをもよおす情けない悲鳴を、そいつは上げた。

よく見てみれば、ねじり上げた腕は、濡れた雑巾を握っていた。彼が組み伏せたのは、病的なほど痩せた、見知らぬ少年だった。

「て、テメエ」

そこでようやく、彼は気が付いたのだが、彼はある建物の玄関口らしきところにいた。

間取りも薄暗くて見えにくいが、どうやら洋館のようだ。

「あおー、あおー」

哀れな声を少年は上げている。

その片目はガーゼの包帯で覆われて、これも痛々しかった。

どうやらこれは、自分が悪かったようだと、隆は少年を解放した。その拍子に、もらったクッキーの包みを、少年の鼻先に落としてしまった。可愛らしいピンクのリボンで縛られている、後生大事に彼が抱えていた、それを。

「ぎゃう!」

少年は、解放された途端に、小さくうずくまって、代わる代わる隆の顔とクッキーの包みを見た。――と、唇の端から涎をこぼした。

「あー、それはなァ」

それは隆にとって本当に大事なものなのだが、さっきのこともあったし、何より少年がひもじそうなので、

「食っていいぜ」

「おーう!」

少年は文字通り飛び上がって喜ぶと、包みを胸に抱いた。

そして、ちょいちょい、と彼を奥に手招きした。

「ん、何だ?」

何度も頭を下げながら、少年は扉を開けて、そして彼を手招いている。

「入れってか?」

「あー、あー!」

「ったく、分かったよ」彼はやれやれと首を振った。


彼が入ると、ぼっと卓上の燭台のロウソクが次々と炎を上げて輝きだした。

 そこは――かつての王侯貴族のための調度品に彩られた、まるで腐って落ちる寸前の、熟れた果実のような部屋だった。どこかから、かぐわしい上品な香が漂ってくる。壁には油絵やタペストリーが掲げられ、さりげなく置かれた彫刻品が、ぞっとするほどの存在感を放っている。それらは、何百、何千年の間、優美と豪奢の結晶として、人の目をどれほど楽しませてきたのだろう。そして、巨大な、宴で使われるような円卓と、それを囲む華麗な造形の椅子たち。

隆は、汚い路地裏から、数世紀前の欧州の貴族の館にタイムスリップした気分だった。

彼には価値がわからなかったが、そこの一室は、壁の絵一枚でさえ、古美術商に売り飛ばせば、生涯遊んで暮らせるほどの値がするのだった。

 燭台が最後に照らし出したのは――黒いローブをまとった人影だった。堂々と部屋奥の椅子に腰掛けている。

こいつが洋館の主か、と隆は思った時、口を開いた。

「よう若いの、ウチの受付係によくしてくれてありがとう、だ」

ローブで顔の上半分を覆っているが、ヒゲも生えていないし、声も若い。そんな男に若造呼ばわりされても、納得が行かなかった。

「テメエ誰だ?」

「俺はここの店主マスターだ」

「ここは店だったのか?」

だとしたら、何の店だろう。

「ああ。まあ、先に座ってくれ、糸辺隆」

そう言われるまでも無く、勝手に座りかけていた隆は、さっと立ち上がった。素人目には分からないように、体を構える。

「どうして――」

「ここは占いと魔術の店だ。店名はADAMASTORという。占いは、客の名を当てて、信用を掴む」

すっと男は指を持ち上げて、隆を指した。

「若いの、いいや糸辺隆、君は高校生で、不良で、戦闘が得意だ。勉強は――好きではないらしいな。ある女の子から好意を向けられていて、君の方でもまんざらでもない」

それを聞いて、彼は不愉快に感じた。特に最後のくだりを。

「知り合いはちょっとした仕草や外見で、大方のヤツの素性を当てるけどな」

彼は私服だが、見た目で年齢は分かるし、ふてぶてしく自信に溢れた態度からは弱さは感じられないし、そして、あのクッキーは市販の品ではない。

だが、それを聞いて、ぎゃはははは、と店主は大円卓を叩いて、爆笑した。

「そうか、そうか、疑うのも無理は無いんだ」

じゃあ――と店主は身を乗り出した。

「浄罪の方法を知りたくないか?ありとあらゆる罪――七つの大罪さえも浄められる方法だ。いやいや、殺人だって無かったことにできる」

にやりと、いやらしい笑いを唇に浮かべる。

「――テメエ!」

だが、隆は店主の胸ぐらをつかめなかった。逆に、掴むがいいと差し出されたような印象を受けたのだ。

「君はなかなか賢いな、隆」深々と椅子に腰掛けて、店主は嗤った。「そう、俺が気分を損ねたら、絶対に教えてもらえないから、だ。でも、君は運がいい。俺は今、上機嫌なんだ」

まあ座るんだ、と言われて、隆は従うしかなかった。

「……いくら払えばいいんだ」

「ん?金か?」

「おい」聞き返されたので、隆は馬鹿にされていると、イライラが募った。「金じゃなかったら、何だっつーんだよ!」

細くて長い指を、複雑に絡ませながら、店主は言った。

「俺としばらく話をして欲しい」

「は?」

隆は顔をしかめた。この変人は、何を言っているのだ?

「気持ち悪いことほざくんじゃねーよ!」

気持ち悪いだって?と、店主は心外そうに叫んだ。

「君自身は気付かないだろうが、君は本当に素晴らしい存在だ。俺らしくもなく、出会えた僥倖に心底感謝しているくらいだ。こうして言葉を交わす刹那一つに、どれだけの価値があるか。金では換算なぞできやしない」

サイコ野郎、俺のことを気に入っているらしいな、と隆は複雑な気持ちになった。だが気に入られても到底ありがたいとは思えない。

「じゃあ俺は何様だ?」

「……それを知りたいか?」

店主は嬉々として隆に尋ねた。

「自分自身を知りたいよな?自分という謎を、この目で見たい、確かめたい、そうだろう?人間が己自身を極めつくしたいと思うのは、当然のさがだ。そして人間は極めるためになら何でもやるのだ、手段は全く問わないんだ」

「……馬鹿言ってんじゃねーよ、テメエに聞いてんだ、答えろ!」

「いいや、俺の口からじゃ、とても言えないね」

はぐらかされるような店主の言動に、やっと隆は店主に言葉巧みに話をさせられていることに気が付いた。

すぐに椅子を蹴って出て行ってやろうとしたが、迷いがあって、できなかった。

「だが見せる手段はある――鏡、だ」

「鏡?」

「映したものの姿を映す鏡、だ。俺が持っている」

隆は、どきりとした。魂の在るべき姿、だと?

「見れば、どうなる?」

「どうにもならないさ、本来の宿が見えるだけなのだから」

見たい。彼は思った。彼には、獣のような一面があって、それがどれだけ悪いことだと頭で分かっていても、体が何かを攻撃するのを止められないことがあった。そのくせ、攻撃したことは後で散々に後悔するのだ。

そんな自分は、一体何なのだろうか?

けれど――彼の知り合いである、一人のオカルトマニアの少年に言われたことが、彼の好奇心の片端を握って、抑えていた。

「『見れば、見られる』って聞いたんだが――」

「賢い友人を持ったな!」

どん――と、店主は、拳を円卓にひどく叩きつけた。

イカレたのか、キレたのか?隆が警戒したとき、

「友情は素晴らしい、本当に素晴らしい、畜生め、素晴らしいぞ、それで君はその形でいられたのか!何てヤツだ、素晴らしい、友情は眩しいくらいに素晴らしい!」

その拳からこぼれ落ちたのは、ガラスの破片だった。

間もなく、赤い雫が指の間からにじみ出る。破片に絡まりながら、円卓の上に広がった。

「おい、て、テメエ――!」隆はぎょっとした。

「いいんだ、これでいいんだ、君がその姿を諦めていない限り、これは見たってしょうがない――」

握りこぶしを開くと、もうそこには何も無かった、傷さえも。その手をひらひらとさせて、店主は再び指を複雑に絡め合わせた。

「……何を見せるつもりだったんだ?マジックか?」

「まあ、そんなもの、だ。君に比べれば本当に些細なものだった」

「あのさ」どうしても気になって、隆は尋ねた。「マジで俺って何様なワケ?」

「いずれ分かる」謎めいた、いかにも予言者ぶった口調だった。「だが、その時にはもう遅いだろう。カルペ・ディエムだ。君は今、この瞬間にこそ、奇跡ミラクルだ」

「…誉めてんのか?」

「もちろん!」

ああ、そうだ――と店主は懐から何かをつまみだした。

銀色の、小さな指輪だった。シンプルなデザインで、宝石も嵌められていないが、ロウソクの炎にちらちらと淡く輝いた。

「これを彼女に渡してやればいい。間違いなく喜ぶ」

受け取って、隆はぎょっとした。何度か握ったことのある、指の細さ。それにぴったりのような気がした。

「……サイズ、マジで合っているのか?」

凄いと驚くより、気持ち悪かった。

「彼女もまた特別な存在だ。だから分かる。合っているとも」

店主は平然と笑った。

「……テメエ、何の魂胆でこんな真似をする?」

「俺は、ちょっと商売で失敗してね――客の選別を間違えたんだ」

店主は大げさに肩を落としてみせた。

「だが、君ならその失敗を取り戻せるんだ。だから可能な限りのことは援助する」

「は?断る。俺はテメエなんかのために働きたくはねえ」

「いや、あえて俺のためにする必要は全然無いんだ。君は君の思うがままに暴れればいい。それだけでいいんだ」

「は?テメエ、狂っているんじゃねえのか」

気味が悪かった。隆はまるで幽霊と言い争っているような気分だった。殴って蹴っての暴力で決別できる相手ではない。直感がそう囁いていた。

「狂っている?もちろんそうだとも」

認めやがった。隆は警戒心を張りつめさせた。だったら、何をやってもおかしくはない。

「そう警戒するな、俺は君には何もしない」

店主が、慌てた様子で――と隆には見えた――そう付け足した時だった。

突然、屋敷の玄関のあたりが騒がしくなったと思うと、扉がひしゃげて破られる音がした。そして、大勢の怒声と足音が乱暴に入ってきた。

「こんなところに逃げ込んだのか、ヤツは」

騒々しい怒声の中に、隆はその言葉を聞きつけて、舌打ちした。

しまった、付けられていたのか。

仲間を呼んで、彼をぶちのめしに来たのだろう。

「おい店主、ここを動くなよ」

たとえ狂人であろうと、この事態に巻き込むつもりはない。隆は椅子から立ち上がると、まっすぐ扉に向かって走った。

「まあ待て。ウチの受付係フロントマンが応対する」

店主はのん気なものだった。

「フロントマン?まさか――」

口に出しかけて、彼は確かに耳にした。知らない、知らないと繰り返す、怯えたような甲高い声を。

「そう、そいつさ」

怯えた声は、次第に悲鳴のようになった。詰問する罵声と、肉を殴打する音と共に、それはどんどんか細くなっていく。すぐに声にならない叫びのようになった。

「しまった、アイツ――!」

ほとんど他人である人を巻き込んでしまった。隆は唇を噛んで、部屋から飛び出そうとしたが――。

「動くな、糸辺隆」

店主の一声で、彼は動けなくなってしまった。束縛するものなど何も無いのに、コンクリートで固められたかのように、手足が動かせなかった。呼吸が苦しい。視線一つ動かすのさえ。ひどい脂汗を伴った。

「食っていいぞ、JJジェイジェイ

店主はにやにやとあざ笑いを浮かべながら、囁くように言った。

「全部、全部だ。血の雫さえ残すんじゃない」

何だと?隆が戸惑ったときだった。

扉の向こうで悲鳴が途切れた。いや、罵声も聞こえなくなった。ただ響くのは、大量の雨のような音。泥を壁に叩きつけるような音。何か硬質なものが本来の形を失うほど、押し潰される破壊音。やがて、ぬめりを帯びた肉が、壁を這うような――おぞましい沈黙が訪れる。まるで獣が獲物の骨を丁寧に舐めているようだった。

「まさか、アイツは」

彼は無理やり視線を動かした。扉の下から、何か黒っぽい液体が、ほんの少しだけ、にじみ出ている。わずかに立ち込める匂いを嗅ぐ。錆びた鉄のようなそれは、まさか。だが店主は相変わらずご機嫌そのもので、

「おいおい、君は動かなくていいんだ。不要な好奇心は身を焼く」


かなりの時間が経ったように隆には思えた。ようやく店主が、手を一度打つと、隆の体はまるで狭い棺桶から解放されたかのように、ぐらりとよろめた。ほとんど体当たりして、彼は扉を開ける。

予想を裏切って、惨劇があったことを示すものは、何も無かった。

カウンターで、さっきの少年がもぐもぐと口を動かしていた。彼の姿を見とめると、目を丸くして、空のクッキーの袋をかざし、何度も頭を下げた。

破られたはずの玄関の扉も、閉まったままだった。

「一体、何だったんだ――」

信じられなかった。先ほどわずかに嗅いだ血の匂いさえ、今はもう感じられない。

「何も無かった。これだけだ、君」

店主はそれからこう続けた。

「また、気が向いたら是非来てくれ。運命の三女神が優しくしてくれるなら、また君と会えるだろう」

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