第4話 なれ初め

 仮病で授業をサボったのは、生まれて初めてのことだった。

いや、半分は仮病ではなかったのかもしれない。

相羽あいばつづみは、この一週間、何かを食べようとしても喉を通らなかったし、寝ようとしても寝られなかった。

精神的にも肉体的にも追いつめられていて、限界が来たのかもしれなかった。

彼女は元々Bクラスだったが、前回のクラス選試でCに落ちてしまった。今度こそ這い上がるんだ、と両親や担任から言われ、何より、自分自身が「上がらなければならない」と思っていた。

 それなのに、だ。

今朝、今度のクラス選試の結果が、担任から告げられた。

彼女は相変わらずのCクラスだった。

「今度は、全体的に平均点があがったからね」

担任は慰めにもならないことを言ったが、彼女はほとんど聞いていなかった。

どうしよう、どうしよう、と頭の中で何度も呟く。けれど、どうしようもなかった。彼女なりに、精一杯あがいた結果がこの様だったのだ。これ以上は、できなかった。

親は何ていうだろう、友達はどんな反応をするだろう――それから、自分は、どうしよう?

――ぐらぐらと、目眩を覚えて、彼女はまるで泥濘のようなものになりかけた。顔から血の気がゆっくりと引いていくのを、まるで体の内側から空白に塗りつぶされていくかのように感じた。

だから、半分は仮病だったのだろうと思う。

「先生、保健室に行っていいですか」

「あ、あぁ、うん――」

担任は、担当するクラスの生徒の欠席が増えるのは困ると思ったが、少女は見るからに真っ青で、哀れを誘った。

「行っておいで」


 保健室で、彼女は一時間ほどベッドに横になったが、目がさえて眠れるものではなかった。

何を考えても、今以上にマシなことは思い浮かばなかった。

期待を裏切ったのが辛かった。友達と同じようになれないのが悲しかった。そうでしかいられない自分が恨めしかった。無能は罪だと思った。どうしよう、どうしよう、でもどうしようもないじゃない、と何度も悲鳴をあげそうになるのをこらえた。

ごめんなさい、と呟くと、なぜか泣けてきた。ぐすぐすとしばらく泣いていたが、彼女は不意に、屋上に行こうと思った。

数年前だかに、そこから飛び降りた生徒がいたらしく、屋上への扉は閉鎖されていたのだが――最近、鍵が壊されて、行けるようになったらしい。彼女が所属するオカルト愛好会の間で、また閉鎖される前に、飛び降りた生徒の噂を確かめに行こうという話が出ていた。

ちょうど、保健医は席を外していた。

どうしようもないの、と彼女は小さく言うと、のろのろとベッドから起き上がった。

誰にも見つかってはならないという気がして、おそるおそる、廊下を進む。授業中だったので、足音にも注意した。大勢の人がいるはずなのに、とてもとても静かだった。

――と、階段を誰かが下りてきたので、彼女はびくりとした。

だが、下りてきた人を見て、ほっとする。

図書館長は、彼女の姿を見とめて、目を丸くした。

「おや、どうしたんだい?」

彼は、オカルト愛好会の顧問を進んで引き受けるような人なので、普通の教師よりも、よほど彼女らにとって親しみやすい人だった。ただ、時々だが、彼女とは価値観が全く違う、と思うことがあった。

「気分が悪くて、保健室で寝ていたんですけど、楽になったので、授業に出ようと思って」

「無理をしたらいけないよ」

「ええ、もう大丈夫ですから。――それに、次こそクラス上げ、頑張りたいですし」

「ああ。君なら、必ず成果を出せると信じているよ」

残酷な励ましを、彼は知らずにやった。

「君はとても大人しくて、本当にいい子だからねえ」

彼女は、少しだけ顔を引きつらせたが、耐えた。

「……あ、ありがとうございます、頑張ります」

でも、どうしようもないの。

その確信は、彼女は声に出さなかった。

「そういえば」と図書館長は嫌なものを思い出したように、「ヤツの噂を聞いたかい?」と言った。

「ヤツ?」

「ほら、Dの彼だよ」

Dの彼、と言えば――ある意味では学校一の有名人の、彼しかいなかった。

「糸辺隆……が、また何かやったんですか?」

「らしいよ。噂だがね、また、その噂が――」

何となく、言い方が気に触ったが、糸辺隆という不良は、教師達にとっては、それほど厄介なのだろうと思った。

「とある事務所の窓ガラスを割って、駆けつけた警備会社の方々相手に、暴力を振るったらしい」

「……怖い」

「だろう?あんな邪魔者は、早く退学させてほしいよ」

「……ええ」

いっそ彼みたいになれたらな、と彼女は思った。こんなに苦しくは無いんだろう。邪魔者になりきれたら、楽になれるだろう。惨めさって、こんなものなのかな、と彼女は唇をかみ締めた。

「じゃ、体に気を付けてね」

言いたいことを言って、すっきりしたらしい彼は、さっさと階段を下っていった。

「ええ、はい」

 ――運が良かったのか、それっきり、誰ともすれ違わずに、彼女は屋上の扉の前に立つことができた。

噂の通りに、鍵はかかっていなかった。

鍵が付けられていた所が、何かの工具を使ったのだろうか、薄い金属板の扉からくり抜かれていて、それ越しに屋上が見えた。

無地のコンクリートの一部分。

深呼吸をしてから、ドアノブに手をかけた。

――扉は簡単に開いた。

「あ……」

予想とは裏腹に、そこには、何も無かった。

打ちっ放しのコンクリートが一面に広がっていて、錆びた柵が、四角く囲っていた。ぽっかりと青い空が、その上を覆いつくしている。

 彼女はふらふらとしながら、真っ直ぐ、柵まで近づくと、下を覗き込んだ。

――怖い。無性に怖さがこみ上げた。

とても怖い場所だった。風がほんの少し吹くだけで、吹き落とされそうになって、怯えるくらいに。

それでも、そこは日常の延長なのだった。彼女は柵に指を絡ませて震えているのに、階下の教室から、教材のCDでも流しているのだろう、間抜けな英会話が聞こえてくる。

同じ学校の一部なのに、ここだけが別の世界のようだった。

「別の世界」彼女はひとりごちる。

この世ではない世界のことだ。

「でも……自殺は、問答無用で……地獄だっけ」

地獄は、様々な宗教の中に、定義も形態も違って登場するが、「暗いところ」だというのは、共通している。永劫に苦しみが続く場所だというのも。

「……何もかもなくなるのなら、まだいいのに、ね」

涙が、またこみ上げてくる。景色がぼやけ、にじむ。間抜けな英会話が耳に突き刺さる。外国の諺を思い出して、「神は自ら助ける者を助ける、じゃあ自ら助けない者は?」と、そんな他愛も無いことを考える。

そして――あれだけ「どうしようもない」と確信していたのに、彼女はその場所から一歩も動けないでいた。

戻っても進んでも、どちらも辛いのだった。だが、そのままでいても、頭の中が気持ち悪くてたまらなかった。

誰か、誰か――!

彼女は、今まで大して信じたこともない、天にまします何かに、痛切に願った。助けて下さい。どうにかして下さい、と。

だが、それの御業は謎めいているということは、すっかり忘れていた。

その時、

「……テメエは誰だ?」

すすりなく彼女の真後ろから聞こえてきたのは、ドスの効いた低い声だった。

ほとんど気配を感じさせずに、いきなり肩を掴まれて、振り向かされる。

真っ先に目を引いたのは、頭の悪そうな金髪。見るからに、イカれた不良の――。

「おい、名前は?」

「あ、あぁあ……」度肝を抜かれて、彼女はろれつが回らない。

駆けつけてきた警備員を暴行した。絡んできた連中を、二度と絡めない体にした。暴力団に命を狙われたことがある。人を殺したらしい。

ありとあらゆる異常な噂が、次々と脳裏に浮かぶ。

まさか、その当人である糸辺隆と、この場所で遭遇するなんて。

「ああああじゃねえよ、テメエの名前は?」

掴んだ手に力が入る。彼女は慌てて言った。

「相羽、つづみ、です」

「ふーん。で、どうしてここに来た?」

答えられる理由ではない。彼女は困ったが、すぐにひらめいた。彼なら、できるかもしれない。

「――オカ会の話で、ここから、飛び降りた生徒がいるっていうから、確かめに来たの」

「テメエもオカ会かよ。――人間を失敗したような連中ばかりだな」不愉快そうに、彼は吐き捨てた。

「あっそ」彼女は不愛想に答えたが、事実その通りだとは思った。彼女は「失敗した」のだ。それで、どうしようもなくなったのだ。

「でも、いいって思わない?そういうの」

強がりで言ったつもりだったが――後から、本当にそう思った。

「きっとその生徒は、自由になれたのよ。ダメなものになってしまう前に」

でも、私はもう、それになってしまっている――顔を上げている気力もなくて、彼女はうつむいた。

「ダメなもの?」

隆の問いに彼女は言い切った。

「あなたみたいなクズのこと」

「そうか。いい度胸だな」糸辺隆は舌打ちした。「俺が誰にも容赦しないってのは、知っているな?」

「知っている。でも、それが何だって――!」

言い終える前に、髪を掴まれ、顔を上げさせられた。

フェンスに後頭部を押し付けられる形になったので、いやでも彼の姿を見てしまう。

糸辺隆は、威圧的な、凶悪な笑みを浮かべていた。

まるで悪鬼のようなその形相で、彼は拳を振り上げていた。

「こういうことだってんだよ」

 頬骨と顎がぐらりと揺れた後、フェンスが頭に食い込み、血の味と鈍くて深い痛みを感じて、首がねじられたように軋んだ。殴られた。その事を、やっと彼女は自覚した。

「――あ、が」

痛みの味に、彼女はぼう然となる。殴られたのは、初めてだった。視界がまたぼやける。痛い。本当に痛かった。

「痛いだろ?」

頭を揺さぶられて、はっと正気に返った。

彼は、また拳を振り上げていた。

「――い、いや!」

顔を庇おうとしたが、目を閉じるのだけで精一杯だった。

「バーカ」

嘲りとともに、髪の毛が放されて、彼女は驚いた。

――殴らなかった?

「ど、どうして!?」

なんか、殴ったってしょうがないだろ」

殴った方の手をひらひらと振りながら、あっさりと彼は言った。

「そんな、つもりじゃ――」

見抜かれていた。彼女は言葉に詰まる。

「黙れ。この屋上に死ぬために来たのに、飛び降りるのができなくて、困っていたんだろ。俺を挑発して殺させようとしたんだろ。本当にダメな死にぞこないだな」

事実を突かれて、つづみは、反射的に絶叫した。何かを考えての言葉ではなかった。

彼女が嫌いな蛇を、うっかり素手で掴んでしまったときと、表情は同じだった。

「違う!あたしは死にたいんじゃない!違う!」

「じゃあ、どうしてここに来たんだよ?」

「だ、だから、オカ会の――」

「分かった、テメエはそういうことにするしかないんだな――じゃあ、オカ会のブス女どもに伝えろ。面倒だから屋上に来るな。来てもいいが、テメエらの前歯はヘシ折るぞ」

唐突に、太い指が彼女の唇をめくり上げると、上の前歯を摘んだ。

「――ぃ!」

隆のとんでもない行動に、つづみは目を剥いた。

「死ぬんだったら今更歯の一つや二つ、要らないな?生きるんだったら前歯は大事だな?――折っていいか?別にいいだろ?」隆は、まったく造作なさそうに言った。

この男は、とつづみは真っ青になった。噂以上だ。

「い、いや、嫌、やめて!」

歯を摘まれても、人間は必死になれば喋れるのだと分かった。少なくとも、嫌がっている声は出せるのだと。

「ふーん」

ひどくつまらなさそうに、隆は指を離した。親指と人差し指に付いたよだれを、さも汚そうにズボンでぬぐう。そして、

「出てけ」

と、彼女を解放する。

「う、あ、あ――!」

彼女にはもちろん、異議はなかった。

震える腰を叱咤して、変な声を出しながら、扉まで逃げた。

そこまで来て、ふと、彼女はある疑問にたどりつく。

「あ、あんたはどうしてここにいるのよ?」

確かに、ここは教師たちに見つかりにくい場所かもしれないが、何も無いので、つまらないのではないか?それに、また問題を起こしたらしいから、停学なり登校禁止なりの措置が必ず取られているはずなのに――。

「体感してんだよ」

ぶっきらぼうな口調だった。

「な、何の――?」

「ここから飛び降りて死んだ気分ってのは、どんなモンだったんだろうな?」

「それは……」

「ちっともわかんねーから、俺はこうして何日もここにいる」

「……」

答えられなくて、彼女は口ごもった。

ついさっきまで、惨めで惨めで、生きていてもマシになれる気がしなくて、何を考えるのも辛くて――それでここに来たのに、彼女はためらった。

ためらうことがいいことだったのか、悪いことだったのかは分からない。ただ、その場に留まっていることは、まるで、暗い海にゆっくりと沈んでいくような絶望に、ひとり泣きながらひたらなければならないようだった。

いや、彼が邪魔しなければ、頭まで沈みきってしまって、そうして彼女は――。

「惨めだった。生きていてもマシになれないと思った。生きていても何の解決も出せない、これ以上生きていてもしょうがないって。呼吸するたび、体を覆う、全ての空気が、お前はダメな人間だって囁いているみたいだった、針で刺されるみたいだった」

つづみは、とつとつと言った。

「ふーん」

隆の無愛想な反応にも構わず、相手にされなくてもいいと、彼女は何かに憑かれたように饒舌だった。

「死にたいわけじゃなかった。死ねば解放されるとか、そういう幻想も、全然見られなかった。ただ自分で自分を押しつぶすみたいだった。それも辛くて、少しでいいから、楽になりたかった。重たかったの。すごく重たくて痛かった。重たいのにも痛いのにも疲れたのよ。だから、一呼吸、したかったの。それで――」

「じゃあ」低い、だがどこか上の空の調子で、隆は呟いた。「ねえさんは、息継ぎのために、ここで死んじまったのか」

 「――!」

この時、つづみは、どう言った表情をしていいのか、完全に分からなかった。多分、泣き出しそうな、あるいは呆気にとられた、間抜けな道化のような表情だったのだろう。

彼女が、噂の飛び降りて死んだ生徒であるということも、それが彼の姉であるということも、何も知らずに、つづみはとんでもない道化役をやっていたのだ。

こともあろうに、彼の前で。

後悔と羞恥心とがない交ぜになったまま、彼女はおそるおそる、彼に声をかけた。

「あ、あ、あのう――」

「何だ?」さっきの彼女のように、隆はフェンスに指をからませて、額を押し付けている。そして、振り向きもしなかった。

その姿を見て、彼女はもっと赤くなった。

「ご、ごめんなさい」

「ああ」と、愛想の欠片もなく、彼は言った。「気にすんな」


 ――二人とも、まさか、これがなれ初めになるとは、この時には思っていなかった。

ただ、つづみは何かと気分が沈んだ際に、どうしても彼を思い出してしまうようになったし、隆の方も、屋上でぼんやりしていたら、そこにふらふらとやってきて、死んだ姉を連想させた、一人の少女の姿が、記憶にくっきりと痕をつけていた。

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