第3話 問題児
――目覚ましが鳴る。
寝起きの繊細な神経に遠慮なく突き刺さる、その騒音と振動に、勝巳は引きずり起こされた。
彼は朝に弱かった。
しかし、めずらしく、今朝は、彼は目覚ましに従って起きた。
ほぼ義務のような気分で、階下のキッチンへ降りて、両親と同じ食卓で朝食を食べる。
共働きの彼の両親は、朝は早く、夜は遅い。上の下の階級に属している人々の、典型的な生活だった。ビジネス街に近い、高級な高層マンションで暮らし、専門のハウスキーパーを雇わない代わりに、年に数回、海外へ出かける。
「勝巳、この前の期末試験のことだが――」
父親が、ややあって口に出した。
「もう少し頑張れば、医学部に行けるな。そのつもりなら、学費は出すが」
「できれば、将来は、法曹界に行きたいんだけど」寝起きが悪いので、勝巳は無愛想に答えた。「医者は過労死しやすいから」
真面目な表情の父親の前で、さして美味しくもなさそうに、パンをもぐもぐと食べている。視線はぼんやりとしていて、何も見ていないかのようだ。
「――人の命を救う仕事だぞ?」
「自分の命が、一番大事だって――」
父親は、さすがに顔をしかめた。
だが、母親がちらりと目で合図すると、頷いてみせた。
勝巳の寝起きの悪さは、うんざりするくらいに知っている。
「無理強いはしないから、まあ、考えておいてくれ」
「うん――」
どうでもよさそうな、生返事が返ってきた。
両親が仕事に出かけてしまってからも、勝巳はパンを延々と噛んでいた。始業時間までは、十分に余裕がある。
「――」
誰もいない食卓には、彼の分の温かい食事が並んでいる。
それは、デリバリーなどではなくて、親が作ってくれたものだった。
ポタージュスープにスプーンを浸して、音を立てないように飲む。
「うん――不味い」
ちょっと塩味がきつくて、あまりなめらかな喉越しでもない。
けれども彼は残そうとせず、黙々と食べるのだった。
階下に降りてきてから、実は、彼はずっと悩んでいた。
――あの人たちは、僕には将来がないだなんて知ろうものなら、本気で悲しむのだろうな。
彼の両親は、教育費という形で、彼の将来に投資しているのだった。それを無に返してしまうのだろうかという不安と、彼を本質的に理解こそしてくれないが、大事に養ってくれる存在への、単に『恩』という言葉では片付けられない執着も、彼は自覚を持って抱いている。
――さて、どうしようか。
勝巳は、本当に困っていた。
ごく普通の学生として、人間として生きていくだろうと思っていたが――人生、本当に何が起こるか分からないものだ。
私立夜美濃高校は、その地域では№1の進学校だった。
ここに通う学生の大半が、有名大学へと進学する。全国摸試の上位ランキングにも、何人もの在校生が名前を連ねていた。
クラスは試験の点数によって、上から、S、A、B、C、Dと分けられていた。
勝巳はAクラスに属していた。入学以来、彼はずっとそこにいた。
Sから落ちてきた生徒と、Sへ這い上がろうとする生徒の間で、彼は、彼らと同じように努力している風を装っていた。部活も、同じように、単にストレス発散でやっている、と見せていた。そうしていれば、疎外されることはなかった。
彼は、教師達には、ぼんやりと常に『何か』について考えている、大人しくて優秀な生徒だと、思われていた。
彼らの誰もが、それについて、深く考えようともしなかった。
勝巳は問題行動を起こしたことなどなかったし、彼らに勝巳について真剣に考える余裕は、全くなかった。
――勝巳とは比べようが無い、夜美濃の名声すら失墜させかねないほどの『問題児』がいたのだ。
オカルト愛好会の部室は、部室棟にはない。
本校舎から少し離れた、夜美濃高校付属図書館の地下資料室の一つを借りている。夜美濃は地域の名門進学校だったから、図書館も付属している。
そして、オカルト愛好会の部長の園原まゆみが、図書館長ととても仲が良いため、特別扱いを受けているのだった。
そこへ行こうと地下通路を歩いていると、ドアの窓越しに、古い蔵書が棚にきちんと並べられているのが見えた。まるで屍のようだった。通路の光が、窓から少しだけ差し込んで、誰にも読まれない知識の肉塊を照らしている――。
ここは本の墓場だ、と
上の一般開架は、誰かに読まれるための本が並べられているが、ここは違う。
とても厳かで、おぞましいものが、本という紙で出来た媒体の形で、屍のように横たわっているような予感がするのだ。
――よくアイツは、こんなトコロにいられるな、と彼はしみじみと思った。
『オカルト愛好会部室・関係者以外立ち入り禁止』
しばらく進んだ先で、B級ホラー映画で使われるようなドクロが、ドアに5寸釘で打ち付けられて、こう書かれた札をくわえていた。
――中の様子を小窓からうかがうと、伏木勝巳が壁際のソファで、一人、本を読んでいた。
「やっぱり、いたか」
声をかけて、彼はさっと中に滑り込んだ。彼はここの関係者ではないので、見つかるとマズいのだった。
金髪にピアス、制服をだらしなく着ているという時点で、彼は既に、この『進学校』と言う領域のアウトサイダーだった。
「ああ」
座れよ、と勝巳は目で向かいのソファを示す。
隆は、そこに片肘をついて寝そべった。
だが、何も言われなかった。
「他の連中は?」隆がそう訊ねたのは、彼らとこの部屋で出くわすのは、彼にとって少し困るからだった。
「クラス選試の準備で、誰も来やしないよ」
クラス選試ことクラス選考試験――それの結果で、クラスが変更されるため、夜美濃高校では、一般の考査よりも重大視されているのだった。
「え?いつだっけ?」
「明日」
事もなげに勝巳が言うので、かえって隆の方があきれてしまった。
「そんなんで、オマエ、本当に大丈夫なのかよ、クラス落とされるんじゃね?」
「要は、Aの平均点を下回らなければいいだけだからさ」
「そっか、オマエ、頭いいもんなー」
嫌味を言ったが、それより、と勝巳に返される。
「お前はどうなんだよ、このままじゃ留年だろ」
「あー、オマエまで教師みたいなコト言うんだ」隆はむっとした。
「――あのさ」勝巳は、ため息をついた。「お前は自覚なんてしてないんだろうけどさ、見ていて痛々しいんだよ、お前は」
「!」
隆は、一瞬、激怒したが、勝巳の様子が、教師達とはまったく違ったので、彼を殴れなかった。勝巳は隆と同じ立場で言っていた。
「僕らは、アイツらの言うことに従っているのが、一番安全だって分かっている」
全部分かっているんだ、全部、と目が伝えていた。
「従わないヤツが、お前みたいにされてしまうってことも――だから、僕らは怖いんだよ、落ちぶれるのが。怖いから、ズルく生きるしかないんだ」
「何だ、そのゴタクは」聞きたくもない、と隆は吐き捨てた。
だろうね、と勝巳は頷く。そして、言った。
「懺悔だよ」
「何で?」そう素直に隆が聞けば、
「お前はバカで素直だからさ」
しみじみとした顔で、酷いことを言われたので、隆はいらついて、
「――おい、殺すぞ」
勝巳の首に手をかけた。
もちろん、殺すつもりは無かった。
勝巳は、夜美濃高校では、隆のたった一人の友達だった。
彼の言葉にできない苛立ちを、言葉にできる、まれな人間でもあった。
「『もっと別の生き方があるはずだ、もっと別の世界があるはずだ、こんなものじゃ満足できやしない、もっと、別の、もっと』――お前がアイツらに対して吼えているのは、これだからだろう?」
「多分、な――」
本当の所は、隆にだって分からない。
夜美濃の最大の汚点と罵られながらも、どうして教師達や、彼を支配しようとする連中に、自分が敵意を持つのか、わかっていなかった。ただ、どうしようもないほどの何かが、滅茶苦茶に吼えて暴れるのを、止められないのだ。まるで、軸が不安定な暴れゴマのようだった。
「お前はさ、多分、
それを、勝巳は羨ましそうに言う。
「何だよ、その言い方」
感傷的なのは、ごめんだった。
それがうつりそうで、勝巳の首から隆は手を離す。
「僕らは、吼えることを止めたからさ、このまま行くしかないんだと思うんだよ――特に、僕は」
たまらなくなって、隆は、怒鳴った。
「だから、何だっつーんだよ、その言い方!黙らねえとマジでぶっ殺すぞ!」
勝巳は、首の掴まれた辺りに手をやって、それから、ぽつりと言った。
「アダマスターで、僕には将来がないと言われたんだ」
「へ?」
ブチ切れていたのも忘れて、隆は繰り返した。勝巳にその店を紹介したのは、彼だったのだ。
「あの野郎――オマエに将来がないだって!?」
勝巳は、あれ、と首をひねった。
「野郎?女の子だったよ、とても綺麗な」
「俺の時は間違いなく野郎だった、顔は隠していたけど、雰囲気でさ。憎たらしいヤツだったけど、言うことは当たっていた」
それで、勝巳にも勧めたのだ。いつもオマエは何かを考えているが、そのヒントをくれるかもしれないぞ、と。
「――日替わりなのかな?」
「知らねえけど。でも、ひでぇ占いだな、それは」
絶対に当たらないぜ、と隆はきっぱりと言った。
「うーん、だといいけど――」
しかし、勝巳は、どうも悩んでいるようだった。隆は困って、
「どうしたんだよ、オマエおかしいぞ?ま、そんなこと言われて、全然悩まないってのもアレだろうけどさ」
「まあ、ね――」勝巳は、今は悩むのは止めておくよ、と言った。
「ところで、あのさ――お前は何て言われた?」
「俺?」
隆は、真剣な表情で唸りだした。正確に思い出そうとしているようだった。
「えーとな、うーんと、上手くは言えないんだが――か、かー、カル……ぺ・ディエム?だったか、それと、友情は美しいとか、そんなことも色々と言われた」
「
勝巳は感心した。やはり隆は、青春を生きているのだ。
「あのさ、つまり、今を生きろってことなんだろ?」
「だいたい、そんな意味だよ」
吼えて、暴れて、だが、鋭く傷つきやすい感性を持つ、隆にぴったりだと思った。
彼は、今を本当に生きることに、必死なのだ。
花は明日には枯れているかも知れない。
自分は明日の朝には死んで、花を二度と摘めないかもしれない。
だから、今日でなくてはダメなのだと、叫んで暴れているのだ。
「――カルペ・ディエム、いい言葉だ」
勝巳の言葉に、隆は、ありがとよ、と言ってから、
「オマエさ、もしかしたらさ、その女に騙されているのかもよ」
「騙される?」
「ほら、アレだ、霊感商法?脅迫して思い通りにする、みたいな」
「――その可能性もあるね」
だいたい、たかが占いを真に受けて、ああだこうだと真面目に話している二人の少年、というのも、よく思えば笑えるものだ。妙なものである。
彼女は、それを想像して、陰で笑いたかったのかもしれない――。
だが勝巳は、彼女のことを思うと、違うような気がしてならなかった。
彼女は、自分をどのような存在として見ていた?
ただの客か?
しかし、もしそうでなかったら――。
「ややこしいことになったらさ」隆はどう猛に笑った。「その女、俺がボコボコにしてやっから」
殺しはしないが、前歯くらいは折るかもしれない。
「……また停学くらったら、どうするんだよ」
「まあ何とかなるだろ」
気楽に笑うので、勝巳はバカバカしくなってきた。
(カルペ・ディエムに、友情は美しい、か。)
口の中で呟く。
(きっとコイツの将来は、いいものになるんだろうな。)
そう思うと、少しだけだが、救われた気がした。
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