第1話 企業戦士えぐちは、今日も全てに期待しない

 「江口、お前さぁ、スマイルって知ってる? スマイル。やってみ?」

 にいっと、口元が弧を描く。無論、何一つ愉快ではない。多くの同僚が注目する前でこんな辱めを受けて愉快な人間がいるとすれば、それはただの変態だ。残念ながら、私はそういう人種ではない。

 ゴリラのようにがっしりした体付きに、出目金のようにギョロリとした目を持つ営業部長が、まるで初めて抹茶をすすったみたいに渋い顔で腕を組む。

 「マックでたった0円のモンがこれだ。酷ぇもんだなァ…。まぁ、知ってたんだけどさ」

 知ってるならやらせるな、と大声で叫びだしたかったけれど、私の唇は未だ、健気にも歪な形を懸命に保とうとしている。

 「ふぃあへん」

 表情筋が限界に近づいてきている。ぴくぴく、と頬がひきつる。

 「顔も笑ってなければ、目も笑ってねェし。逆に怖いわ・・・・」

 部長の顔も引きつる。なんだよこの空間。アンタも辛いなら、早く辞めてくれ。

 「……大体お前はよぉ、江口ィ」

 始まってしまった。

 大体、が付くと、この男は大抵後30分は続く説教を始めるのだ。駄目出しからの、俺が若い頃は、という自慢話。何度も聞いた、おきまりのパターンだ。あーあーもう……。

 「部長」

 すると、ある座席から、すっと長い腕が伸びた。優等生の挙手のように、よどみなく、直線に。LEDに照らされて、手首にあるブランドものの金時計がキラッと光る。それを合図にするように、一人の女性が立ち上がった。

 175センチはあろうか、モデルのような長身の、スレンダーな体躯。アジアンビューティな艶のある黒髪は、広いおでこで真ん中分けされ、後ろ髪はストレートにロングで伸ばされている。それに加えて、はっきりとした目鼻立ち。その時点で既に、早々いない美人だと分かる。

 しかし何より彼女を特徴付けているのは、常人の顔にあるなら決して共存出来ず、主張し過ぎるであろう太い眉だった。そんな種々の要素が交じり合って、彼女からは凛とした美しさと、少々近寄り難いほどの意思の強さが滲み出ていた。

 「どうした、長谷川」

 「今月の営業報告書をアップしたので、チェックをお願いします」

 「おう。分かった」

 そうして、部長の視線は長谷川さんからパソコンの画面へと移る。そして、すぐにその細い目が大きく見開かれた。

 「…お、おぉー!すげえ!」

 その大声に、フロアの皆が作業の手を止め、部長に視線を向ける。必然、私もその視界に入ってしまう訳で、微妙に居心地が悪い。しかし、そんなことは気にも留めず、部長は続ける。

 「長谷川お前、いまの取引先さえ2倍は持ってんのに……お前…おお…新規で4件も大型店開拓したのか!」

 その言葉に、営業部全体がざわめく。

 「いやーこの数字はハンパじゃない、凄いぜ……多分全国の支社でもトップクラスなんじゃないか……? 俺が現役の時でも、この数字には及ばないわ」

 そうして感嘆の溜め息と共に、両手を頭の後ろで組んで、背もたれに寄りかかる。そしてすぐに、おっと忘れてたと呟くと、バネみたいに勢い良く立ち上がってバンバンと拍手をしながら、相変わらず拡声器でも使ったかのような大声を響かせる。

 「皆も拍手! 我が営業部トップは、間違いなく日本でもテッペン級の営業マンだ!」

 そして、その声を合図にしたように、皆一斉に割れんばかりの拍手をする。フロア全体で50人はいる、その様々なところから、凄いねーとか、敵わんなぁ、という声が聞こえ、彼女を妬む声は霞さえも見えない。次元が違い過ぎるのだ。

 「長谷川から盗めるもんは盗めよ! 今ならまだ冬のボーナスに反映されるからな! じゃ、今日も残り頑張ろう!」

 そうして、一本締めみたいにまた大きく手を叩くと、僅かな興奮をその空気に残しながら、皆パソコンへと向き直った。この男、髪は薄いし、人の気持ちなんて考えずにズカズカ物を言う癖に、こうやって場の空気を支配することに関しては随一なのだ。

 ふぅ、と一呼吸置いてから、満足げに椅子に座ると、ようやく奴は私を見上げた。なんだ、まだいたのか、とでも言いたげな顔である。

 「……失礼します」

 体を翻し、部長に背を向けた。恐らく既に、奴は私を見ていない。それだけは確信出来た。


 私が勤める製菓メーカーは、グループ会社を含めると2000人を抱えるいわゆる大手企業だ。しかし、昨今の業績悪化により、他社との競争がより激化している。そんな中でも最も風当たりが強いのが、私がいる営業部である。日々車に乗ってスーパーや百貨店を巡り、一つでも多く商品を置いて貰う為に、頭を下げる。


 はぁ・・・。

 謎の説教のせいで、何だか体重が100キロは増えた気がする。ずるずると自分の身を引きずって、席に座る。否、落ちる。

 プラスチックと綿で出来た、如何にも大量生産です、という椅子が微かに軋みながら、少し後ろに倒れる。自然と上がった視線の先で時計は午後6時を指していた。

 お、やったー。もう帰れるー。

 ……なんてことはなく、ブラック企業の素質がある弊社では、みんなが帰り始める9時までは、例え仕事が終わっていても、残業代が出なくても、あと3時間はこの空間に居続ける必要があった。12時間労働も当たり前。やだなあ……。

 しかしふと思う。先程延々続くであろう説教を回避出来たのは、長谷川さんのお蔭だった。あの絶妙なタイミング、もしかして……。

 その時ふっと、鼻先を甘い香りが掠めた。何か、いい匂いがする。

 反射的に頭に?が浮かんだその時、

 「……えぐっちゃん」

 「ひゃいっ!」

 唐突に耳元で囁かれた声に、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。何事かと振り返ると、何と我らがエース、長谷川さんが、体を小さく屈め、そこにいらっしゃった。

 「あ、長谷川さん……さっきは、えっと、助けてくれました…? だとしたら、ありがとうございます…」

 小さくおじぎをする。

 「いえいえ、どういたしまして。でもね、えぐっちゃん、敬語じゃなくて良いって最初に会った時も言ったよね?」

 しゃがんでるからそう見えるのか、長谷川さんは、ちょっと詰問するような、若干の上目使いと拗ねたような顔で私を見上げていた。

 「……すいません」

 「いや、だからそれだよそれ。えぐっちゃんは気にしてるのかもしれないけど、契約と社員だからって、タメなんだしさ。気ぃ遣わなくてもいいんだって」

 契約と社員。

 サラリと言われたその言葉に、ズキリと胸が痛む。

 「……すいません。あ。すいません。あれ」

 ぷっと、長谷川さんが吹きだす。小声で、なにそれーと笑う。

 笑ってくれて、よかった。内心の動揺を読み取られまい、と私もつられるように笑ったフリをする。スマイルスマイル。今度は上手く出来ているかな。たとえそれが変顔に見えても、悟られるよりはマシだ。

 私のそれに対して、長谷川さんの笑顔は凄く素敵だ。一見して厳しい雰囲気があるからこそ、その笑顔には愛嬌と破壊力がある。ギャップ理論だ。羨ましい。私が笑っても、そんなギャップは生まれない。気持ち悪さが3割増しになるだけだ。もし、長谷川さんに彼氏がいるならば、一体どれだけの美男子なら吊り合うのだろうか。

 「あーごめんごめんちょっとつぼった……。はは、えーっと、ウホン! ごめんね。別に目ざとくお礼を言われに来た訳じゃなくて……。あのさ、もしよかったら、今夜二人だけで飲みでもどうかな?って……」

 「え」

 なんで?

 その顔が表情にそのまま出ていたのか、ブフッと長谷川さんがまた吹きだす。

 「いやーえぐっちゃんって、本当に分かりやすいよねー」

 お腹を押さえて、長谷川さんはまたケタケタと笑いだしてしまう。この人、笑いのツボ大丈夫か。浅すぎやしないか。こんなんでお笑い番組でも見たら、呼吸困難で死ぬんじゃないのか。

 「まぁ、そんなえぐっちゃんだから、一緒に飲んでみたいって思ったんだけど」

 「へ、へぇ……」

 よくわからない。

 「えぐっちゃんってあれじゃん。会社の飲み会って、忘年会くらいしか来ないじゃん? だけど、私前からもうちょっと、えぐっちゃんと話してみたいって思ってて。」

 一体全体、この人のどこからそんな発想が出てきたのか。休日には六本木で、お洒落なランチで女子会でもしていそうなこの人が、同じく休日に、千葉の実家でTSUTAYAの20冊1200円貸出の漫画を読んで一日を潰すような私と、何故。

 「えぐっちゃんって、あんまり他人に愛想使わないっていうか、自分に正直な感じがして、いいなーって。話してみたいなーって。で、どうかな?」

 「あ、えっと」

 大きくて吸い込まれそうな瞳から、つい目を逸らす。えっと、今夜。今夜。思考がぐるぐる回転する。何かあったかな。ってある訳ないよな。深夜、テレビの前で待機して、6子のアニメを見るくらい。

 でも、だとしても。

 この人と二人で、場が持つのか。それはかなり。

 視線を戻すと、長谷川さんは後ろ手を組んで、期待の眼差しでこちらを見ていた。

 「どう?」

 「えーっと」

 「うん?」

 心なしか、顔が近づいて、その大きな瞳に心を捕えられる。

 「勿論、えぐっちゃんが嫌じゃなければ、だけど」

 「嫌、じゃない・・・ので、いい、とおもう」

 押し切られてしまった。その問い方で断れる人がいるのだろうか。ちょっとずるい。でも、この押しの強さがあるからこそ、この人は営業成績トップだし、それがないから、私はドベなんだろう。

 「良かった!」

 そう言うと長谷川さんは軽やかに立ち上がる。髪の房がふわっと浮かんで、揺れて、無邪気さを演出する。

 「じゃ、またあとでね!」

 そう言うと、長谷川さんは小さく手を振りながら、笑顔で去って行った。突風みたいな人だ。昔お母さんに読んでもらった、3匹の子豚の話を思い出す。北風に思いっきり吹き飛ばされる藁の家。空中分解して、跡形もなくなって、誰にも気にされずに消えていく。

 長谷川さんの隣に立てば、私の存在感もきっと、そんな感じなんだろう。

 スリープモードに変わって真っ暗になったパソコンの画面に、自分の地味な顔が反射する。


 <自分に正直な感じがしていいな~って思って>


 長谷川さんの言葉が頭の中でゴーンゴーンと反響して、脳を揺らす。こめかみにビキリと鈍痛が走った。

 あ、これは。ちょっと。

 まずい。


 バチバチ。

 ッガー。


 ガラガラと、壊れた映写機からディストーションがかった映像が目の前に流れ始める。


 ーーーーーーーーーーーーーーー

 小学校の教室。

 クラスの男子たち。

 小さな口が可愛らしく、ふわっと動く。口々に。そして。

 「えぐち菌ー!」

 「こっちくんなよー! 汚ねぇー!」

 お互いの体に手をつけあっている。

 「オイやめろよ!」

 ハッとその声の方を向く。期待を抱いて。

 「俺の机にも感染しちまったじゃねーか!!」

 ギャハハハと、笑い声が響く。

 ザザザ。


 ーーーーーーーーーーーーーーー

 黄昏時の赤く染まった職員室。先生と私と、男子たち。

 「江口さん、言いたいことがあるんでしょう? 先生、分かってるんだよ。ホラ、言ってごらん?」

 汚い。やだ。先生、その笑顔。妖しく光る口紅。

 「折角こうして、男の子たち呼んだんだから、ね?」

 小さくうなづく、私。

 だめだ。言っちゃだめだよ。負けるな。

 「・・・江口菌って言うの、やめて」

 小さな手を、ぎゅっと握る。上履きの上に、大きな滴がこぼれて、映像が滲む。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ッザー。

 「はぁ……う……はぁ……」

 大きくなった体。

 なのに、喉の奥に詰まって吐き出せないままの空気の塊が、どんどん呼吸を減らしていく。

 ッザー。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 また教室。朝。扉を開けて、教室に入ると、60近い目玉がギロリと私を捉える。

 「え?」

 ヒソヒソ声と、抑えた笑い声。

 背中に雨のような汗が伝う。

 机の上に、チョークの落書き。

 『学校くんな!』

 『エグチクリ菌』

 『バイ菌は消毒されろ』

 「・・・エグチクリ菌だよー」

 「エグチクリ菌が来た。感染するぞー・・・ヒヒ」

 あ、あ。

 雑巾。

 雑巾、はどこだろう。

 「ほらよ」

 ぐちゃ。

 おなかに生暖かい感触。

 「ひひひ」

 「でひー」

 鼻孔を突く、酸っぱい香り。腐った牛乳だ。鼻の奥と目の奥がカッと熱くなって、喉の皮と皮が張り付く。

 「うう・・・ううぅー・・・」

 血が出るくらい唇を噛んで、頬に精一杯の力を入れる。

 ここで泣いちゃ駄目だ。また笑われる。

 「エグチクリ菌が泣いたー!!」

 「うぇーい!」

 「みんな、消毒するぞー! っほい! かえっれー」

 「「「「か・え・れっ!!!」」」」

 ギャハハハハハハ。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ッザー。

 「はぁっ・・・うっ・・・はァ・・・!」

 体を前かがみにして、胸を拳でドスドス叩く。

 止まれ。止まれ。止まれ!

 痛みにぐっぐっと潰れていく顔が暗くなったパソコンの画面に映る。ハッとして思わずマウスを動かす。スリープモードが解除されて、醜い顔が青い光の中に消える。

 ハァ・・・ハァ・・・。

 脇汗が酷く、手足の感覚が無い。

 こんなことに、まだ煩わされて。

 「私はッ・・・」

 掠れた声が、声帯を微かに振るわせる。

 ーーー頑張った。

 変わろうとした。手足が伸びて、今度こそ、今度こそ、って認められようと努力してきた。

 そうしてまた、笑われた。

 かけた時間や労力や想いはただ無駄に終わり続けて、結局何も、変えられなかった。

 永久不滅、確固現前として、昨日も今日も、恐らく明日も明後日も。


 私はずっと、社会不適合者だ。


 そう、だからこそ、私は何もしなくなった。

 ー他者に好かれる為の行動を取る。

 ー未来を切り開く為の努力をする。

 その先に期待出来る未来が想像出来ても、その選択肢を選ぶ勇気はとっくに奪われ、もぎ取られていた。

 だからこそ。


 <自分に正直>。


 そう思えるおめでたい感性が、心底羨ましかった。

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