風を喚ぶ乙女 第一楽章
今あるものはすべて、前時代の遺物だ。
ある歴史書の書き出しを、人々は戒めのように口にした。
いちど死に瀕したこの世に溢れんばかりだった、数多の文明・文化からほんのひと握り、我々が営んでいくために必要なものだけが残されたのだ。
前時代の終焉を告げた、大きな掌によって……歴史上もっとも大がかりな“テーブルクロス引き”が行われた。その喩えのとおり、掌によって要らないと判断されたものは、大地を覆う薄いヴェールと一緒に世界から振り落とされ、“ほんとうに必要なもの”だけが居直り続けた。
いっぽう、考古学者たちが執念深く探索した末に蘇った逸品も数知れずだ。あの世界中の大混乱を免れて生き残った、強運を持つもので今が成り立っている。
それを真に心得ている者が、どれほど在るというのだろう。
「おじちゃん、お邪魔するよ。終わったの」
名演レコード、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番。サロンやホール、劇場には負けるが、天井の高い酒蔵の音響は心地いい。
ここからがいちばん美しい、というところで針が持ち上げられ、音が鳴り止む。ハンモックから身体を起こすと、祭事の時にしか着ない民族衣装を纏った彼女が立っていた。本来の機能を打ち捨て、雑全とした酒蔵――検閲の目を掻いくぐり、掌にさらわれるはずのものだった遺物を収集した――の迷路を熟知した数少ない人物のひとりである彼女は、くたびれたアコーディオンを抱えている。
周辺には全く同じ造りの蔵が何棟も並んでいて、シードルを醸成している。故にカモフラージュに易かったし、酒は国にとっても貴重な財源のひとつであったから、監査員を寄越して村人の心象を悪くすることを忌避していたのだ。
「お疲れ様。どうだった?」
「うーん、まずまずかな。みんなは褒めてくれたけど、なによりコレが無いのをどう誤魔化すかで必死だったよ」
言いながら、ボタンが外れてただの穴ぼこになった何ヵ所かに指をあて、鳴らない和音を示す。彼女は不服そうに苦笑いを浮かべていたが、このおんぼろ楽器を託せる程度にはその腕を信頼していた。
「悪いね、修復師の当てがないんだ。今時、音楽を生業にするのは無謀だ」
「林檎をつくるほうが儲かる?」
「よっぽどね。ここは名産地だからな」
彼女は酒樽を改造した収納にアコーディオンをおさめ、月桂樹の葉と林檎の花が編まれた冠をその辺に投げ捨てる。「これすごい頭ちくちくする」と文句を言いながら、量が多く波打つ琥珀色の長髪をがしがしと掻いた。この村において、女の長髪は豊穣の象徴である。前時代からのならわしだった。
「昼寝してるぐらいなら、聴きにくればよかったのに。ほら、なんだっけあの、友好都市の親善大使のおねーちゃん達がおっぱいがぱつんぱつんの正装で来てたよ。むこうのお祭り事の時に着るやつ」
「そんなのに喜ぶような歳じゃない。今日はなんだか眠くてなあ」
「さいきん毎日眠たがってんじゃん」
「おっぱいぱつんぱつんのおねーちゃんより睡魔に弱い歳なんだよ」
どこになにがあるかをだいたい把握している彼女は、戸棚からグラスをひとつ取り出し、こちらに戻ってくる。手渡されたのは、美しい切り子の入った青色のグラスだ。古い知人に譲ってもらったもので、遠い東の国の工芸品だ。
彼女は不自然に膨らんだエプロンドレスのポケットから、大物を釣り上げた漁師のごとくシードルの瓶を持ち上げてる。栓を抜き、グラスに黄金色の酒が注がれる。グラスの青とシードルの金が、互いの色を透かし合う。
「収穫祭おめでとう」
グラスと瓶を軽く突き合わせ、小さく乾杯する。勢いよく流し込み、ふたりして同じタイミングで下品なゲップが出た。げらげら笑う。
「お前、辛口も飲めるようになったんだなあ。ビールみたいでやだとか言ってたのに」
「何それ、じじ臭いな」彼女は酒を煽りつつ、蓄音機の脇に立て掛けたレコードのジャケットを手に取る。「また自分のやつ?」
「過去の栄光に浸るのが趣味だからな」
「これ、いい写真だね。イケメン」
小難しい面差しで指揮棒を振りかざす、若かりし頃の私の写真が一面に印刷されている。眩い光の中で、音楽に身をやつす男の横顔と、燕尾服の暗闇が浮き彫りになっていた。
「そうだろう。演奏中に撮るなんて無粋だと当時は思ったが、いい腕前のカメラマンだ」
彼女の手によって針が落とされる。私はグラスの中身を飲み干し、腹の上に手を組んでふたたび横たわる。彼女はそのへんの木箱を引きずってきて、足を広げてどっかりと腰をおろした。重いアコーディオンを弾く時はがに股で座れと指導したのは私だが、裾で隠れているからと言っても弾いてない時もソレなのはいかがなものだろうか。
口に残る酒の風味を舐めながら、雑音交じりの籠ったオーケストラの調べが古びた酒蔵の天井や梁に染み渡ってく様を見上げる。
「指揮者っていうのは不思議な仕事だよ。特等席の観客で、楽団の支配者でありながら、音楽に忠誠を誓うんだ。他の指揮者連中がどうだったかは知らないが……少なくとも私はそうだった」
床に手を伸ばし、指先に当たった蠅叩きをつまんで宙に向かって適当な指揮を振る。レコードの中の仲間は、ジャケットを飾る青年に応じて楽器を奏でた。
「何十人、否、百人はいたかもしれない……それほど大勢の人間が各々の役割を担い、一丸になり、五本線の上に散った玉を追いかけて曲が成立する。その先頭に立って舵を取るっていうんだから、とんでもないよなあ」
一糸乱れぬ弦楽器の弓の動き、直線を描いて飛んでいく管楽器の息、警鐘のごとく響く打楽器、それらを牽引するピアノ、そのすべてを先の尖った細い棒が纏め上げる。時に荒く、時に柔く、空を切る軌道はどこにも残らない。
「ほとんど魔女のようなものさ。術式それ自体はかたちを成さず祝福、或いは呪詛だけが残るように、指揮者の身振り手振りもそれに相当し、演奏だけが残る。もっとも、魔法のように蟠らず、すぐに消えていってしまうが」
「でも、聴いた人の耳には残るじゃん。もしかしたら魔法よりすごいかもよ」
彼女は足を広げたまま傍らの樽に寄りかかり、ピアノ協奏曲に耳を傾けていた。恰好は酔っ払いの汚いオヤジのようだが、勘の鋭さは素晴らしい。
「このピアノの音好きだなあ」
「好いだろ。ピアニストが真面目な奴でなあ、誰よりも楽譜に忠実なんだ。よく喧嘩したよ。あいつぐらいの人間が音楽に望まれるんだろうな……国の要人にタテついて射殺されちまったけど」
彼女の瞳がこちらを見る。かわりに私が目を閉じる。ピアノとフルートだけが絡み合う、静かな旋律が聴こえる。
「国が弾圧派についててな、魔女派への徹底抗戦の意を掲示するためと人類の戦意高揚とか言って、自由表現の一切を封じたんだ。予定されてたコンサートのリハーサル中に監査員が入ってきて、今すぐやめろ、音楽など何の役にも立たない、府抜けるなとがなり立てた。
時世が時世だったからなあ……みんな指示に従った。辛い光景だったよ。税金で雇われた監査員たちが、廃品回収業者みたいに雑な扱いで楽器を持ち去っていくんだ。そんな中、監査員のえらい奴にずかずか向かっていって、顔面に唾を吐きかけて……あいつ、なんて言ったと思う」
溜め息と一緒に乾いた笑いが漏れた。哀れみと親しみがない交ぜだった。
「『役に立つなんてクソくらえだ。役に立たないから愛してるんだ』」
次の瞬間、この世でもっとも醜い音とともにピアニストの胸に穴が空いた。
「彼の射殺は一般市民への見せしめに過ぎなかった。壮絶な死にざまだったよ。その後の戦禍も“テーブルクロス引き”も目の当たりにしたが……前時代の終焉として焼き付いてるのはその台詞と、ただひとつの発砲音だ」
目を開くと、虫の脚や羽根がこびりついた棒をへなへなと振り回す、毛羽立つセーターを着た貧弱な老人の腕が見える。
「……あいつのアルバムもいくつかあるんだ。ショパン、ガーシュウィン、ヒサイシ、なんでも弾いたよ」
彼女は老いぼれの話に下手な相槌は打たず、時々シードルを煽っては私と同じく宙ばかり見ていた。この場での気遣いは無用だ。好きな音楽を聴いて、弾いて、酒を飲んで、だらだら話をする。他には何もない。
「なあ、噂は本当なのか。お前が村を出るつもりだっていう」
ふと思い出して尋ねる。誰かひとりが知ってることは、みんな知っていた。
「うん。いやあ、なんか、自分でもよくここに留まってられるよなあって思うんだよね。嫌いじゃないんだよ、この村」
適当な言葉が見つからなくなると、彼女は樽からアコーディオンを引きずりだし気分に任せて弾きはじめる。ここにいる時の癖だった。凶弾に倒れたピアニストの演奏など意に介さない。
「なんていうの、衝動? ふらふらしたいの。自分探しとかそういう大義名分でもなくてさあ……私はもう私だし」
おおよその場合、三拍子のワルツが手癖だが、彼女の踵は緩急のある四拍子を打っている。レパートリーのほとんどはここに収蔵された楽譜や、レコードを聴いて書き起こしたものだ。
「楽しくなりたい、それに尽きるかなあ。だってもうさあ、こんなんじゃん世の中。いや、こんなんって言っても全然どんなんか知らないけど、楽しいこと以外にしたいことってなくない? ヤバい、私いま浪漫溢れてる」
農婦が林檎の実が熟れる時期を見逃さないように、魔女がその果実に濃密な毒を閉じ込めるように、彼女は抜け目無くしたたかに、豊かな音色をその手の内に絡め取る。楽器は従順に呼応し、たっぷりと息を吸い込んだ蛇腹は如何ようにも音楽を紡いだ。
蔵のすぐ脇、どこまでも一直線に伸びる線路の上を貨物列車が行き過ぎる。錆びた金属が摩擦を起こす、けたたましく甲高い音がすべてを掻き消した。一日一回、決まってこの時間に聞こえるこの音が彼女は何よりも嫌いで、両手で耳を塞ぎでたらめな声で叫んで相殺する。
「この金属音も、じき聞こえなくなるだろう。運ぶものも列車の燃料も尽きる。そうすれば、あの線路は旅人のものだ。どちらの方角でもあれに沿って行けば、どこかにはたどり着く」
「敷かれたレールの上を歩くってこと? 私そういうの趣味じゃないよ」
「荒野で誰にも知られずくたばりたいなら好きなように歩け」
「ええー、それはやだ」
重い身体を起こす。肩を回すとバキバキと鳴り、履きつぶすした靴に足を突っ込むと膝や腰が軋んだ。弛んだ弦のようにぶらさがっているであろう、自分の筋肉を想い苦笑する。
「旅人には立派な上着が必要なんだ。お前が好きなぺらっぺらのシャツじゃあ何も凌げないし、格好がつかない」
いまいちピンときていない顔の彼女を呼び寄せ、ワードローブの扉を開く。身なりに気を使わない、片田舎の引きこもり老人の貧相な衣服の中、しゃんとした姿で頑なに出番を待ち続けていた燕尾服の肩を掴んだ。
「……おじちゃん、それは私が着ていいやつじゃなくない?」
「私はもう用なしだよ、持ち腐れてる。誰に着られたって、服は文句を言わない」
遠慮を見せたのが意外だった。彼女なりの私への敬意だと受け取ったので、悪い気はしない。燕尾服の襟を広げて彼女の背後にまわり、袖を通すよう促す。
「うわ、超似合ない! 重いし肩めっちゃ浮くじゃん」
姿見にうつる自分を見るなり、彼女は素っ頓狂な声をあげた。そりゃそうだ、体格のいい指揮者が特注した燕尾服が、花柄の刺繍満載の村娘ドレスを着た小柄な彼女に合うわけがない。袖は余るしぶかぶかだし、燕尾の先は床に触れそうだった。
「丈を詰めたらいい。たしか、エレーヌがそういうの得意だろ」
「いいよ、このまま着る」
きっぱりと言い、袖を肘まで捲り上げる。ベルト掛けの中からいちばん年期の入ったものを掴み、燕尾服の上から巻き付け、布をたくし上げて固定した。裾はどうにかこうにかふくらはぎあたりまで持ち上がったが、もう本来の燕尾服の姿ではない。かつてこんなふうにこの服を纏った者がいるのか、というおかしみとともに、一度決めたら省みない彼女に頼もしさを感じた。まったく愉快な奴だ。
「そのうち馴染むから」
予感を孕んでいた。きっと彼女は、その腕のひと振りで風向きを変え、嵐の内だろうと燕の尾をはためかせながらどこにでも行ってしまう。掌が掻き乱し、荒廃したすべてをまるで意に介さない。何にも支配されず、気まぐれを口遊んではげらげら笑うのだ。こんなお仕着せの祈りと願望も、適当に吹き飛ばしてくれるだろう。
「アコーディオンを譲ってやりたいが、いかんせん重いだろ。そのかわり、小さくて滅多に手入れの要らない、旅人向きの蛇腹楽器があるんだ」
ピアノ協奏曲 第二番ハ短調Op.18第一楽章
作曲:セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ
風を喚ぶ乙女 第一楽章
作曲:都丸智栄
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