アコーディオン弾き


 このご時世、不平不満を唱えたところでどうにもならない。そう、有るところにはなんでも有って、無いところには何も無い。それだけのことだ。


 有るなら有るで儲けもんだ、腰に腕を当ててふんぞり返るなり、足を組んでワイングラスでも揺らしていればいい。無いなら無いで必死こいてかき集めりゃだけの話だ。そう、俺たちは今日も今日とて、飯と煙草を買う金を求めている。


 芸術に寛容な街だった。というか、芸術によって栄えた街だった。

 何をそんなに展示するものがあるのかというバカデカい美術館や、見るからに大切に保護されてきた豪奢な造りの教会、そこかしこに小さなサロンや劇場が立ち並ぶ。行き交う人々はみんな小奇麗な格好をしているし、わけもなく楽しげだ。


 前時代、何度目かの大戦の最中、こういったものの多くは要人の指示によって焼き払われたはずだが……現存しているのだから何よりだ。食べて働いて寝るだけの生活を営む人々が暮らす寒村を渡り歩いてきた俺たちにとっては、十分に恵まれた環境を保持した、何もかもが潤沢な街に見えた。


 この街に足を踏み入れた瞬間に、俺たちは豊かさの洗礼を受けることになる。三つ揃いを着て堂々と歩いている骸骨の俺に気付いた人々が集まってきて、好奇心でぎらついた様子で口々に問いかけてくるのだ。

「えっガイコツ? うっそ本物?」「着ぐるみとかじゃなくて?」「不死身? 不死身なの? ウケる」


 ちくしょうめんどくせえな、と無い舌で舌打ちをしようとすると、あいつは「まあまあまあ、聞いてやってよ」などと言いながらおもむろに小型アコーディオンを構えはじめた。そして俺の顔を見上げてしたり顔で笑う。それは金をつくる方法を思いついた、クソいやしい旅人の表情だ。


「さーあお立会いお立会い! これよりお聞かせするはなんとも哀れな没落貴族の物語、数奇な星回りに生まれた男の運命やいかに!?」

 高らかに言いながら弾いてるのは、やたらと陽気でめでたいかんじのメロディである。すると人垣はさらに厚くなり、見世物がはじまる空気ができあがってしまった。


 そうしてあいつはあることないことを適当に語り、たまにアドリブを要求してくるので俺もあることないこと適当に喋った。邪信教の偶像として祀りあげられた話(嘘っぱちである)やらあの世と交信して骨に魂を憑依させる能力があり、今降りてきているのは若くして死んだ絶世の美少女(そんなわけねえだろ)だとか、俺たちのゴミみたいな即興つくり話を、聴衆はさも楽しそうに聞いていた。話の真偽なんかどうでもいいのだ、面白ければそれでよし。


 お開きだとばかりに、あいつがけばけばのカンカン帽をひっくり返して人々に差し出すと、景気よく金が入る入る。俺の懐にも紙幣がねじ込まれ、知らない人たちに記念撮影をせがまれた。


「なんかもう超景気いいしたまにはちょっと良さげなご飯食べたいな。チェザーレくんも普段吸わないぶっとい葉巻とか買いなよ」


 寒村で弾き語りをした時の何倍もの稼ぎを得て、すっかり気がデカくなったあいつは札束で扇を作って顔を仰ぐ。


「それはいいけど金はしまえよ」

 と、言ったそばからあいつの背後から不審な女が近づいてきた。ストールのようなものを頭から被り、ちらちらとあたりの様子を伺いながらも俺たちに狙いを定めている。どう考えても物取りだ。


「おいロッティ、後ろ――」

 俺が声を上げたか上げてないかのうちに、その女はあいつの肩をがっしりと掴んだ。


「お嬢さん失礼、相当の腕利きと見たわ。クロマチックアコーディオンの心得はある? エキセルシァー社製鍵盤式120ベース」

 突然の問いかけに、俺もあいつもぽかんとした。女はストールの間から鮮烈な赤色の長髪をこぼして、真剣なまなざしで訴えかけてくる。


「お願い、明後日に歌手の審査があるの。相方に逃げられちゃって……1曲だけやってくれればいいわ、さっきのあなたたちの稼ぎの3倍は払える」

「お姉さん本気で言ってる? イケるとおもうよ、だいぶやってないけど」

「本気よ、もう頼れるのあなたしかいないの、お願い、なんでもするから」


 なかなかの儲け話である。アコーディオンのことはよくわからんが、あいつがイケるっていうんならイケるんだろう。楽器の嗜みがない、邪信教の偶像で霊媒師な俺はなりゆきに任せるしかない。


「弾くだけでいいならいいよ。旅人ってお金ないから安請け合いするよ、マジでいいの? 期待と違っても責任は取らないし、何があってもギャラは貰うよ」

「構わないわ、譜面をなぞってくれれば、いやもう最低限曲として聴こえれば大助かりよ。契約成立だと思っていいかしら?」

 いますぐにでも飛び掛かってきそうな女をへらへらと往なし、あいつはぼろぼろの手袋を外して右手を差し出した。



 歌手志望の女、アニエスは無謀とも思える仕事を押し付けてきたが、なかなかの待遇で俺たちをもてなした。地元民からも評判が高いというレストランであいつに分厚い肉をおごり、仕事を与えられていない同伴者の俺にもぶっとい葉巻を1ダースよこしてきた。初めて吸った銘柄だったが、なんというか煙の密度が安物と違う。


 テーブルマナーのなっていない旅人と、目から煙を出す骸骨を相手に、べらべらと事のいきさつを話した。

「私はね、アコーディオン弾きの相方と一緒に、ガンゲットやら酒場やらで歌ってお金を稼いでたの。あなたたちもわかるだろうけど、たいした儲けにならないじゃない。でもね、ホラ、私って目立つでしょ? チップとか貢ぎ物のほうが結構な額になるの。相方はホントに地味で、アコーディオンしか取柄のない男で……私が個人的にもらったものを山分けして、やっとこの街で生活ができるってぐらい。ホント、ギリッギリでご飯食べてるってかんじなんだけど……え? ああ、お金のことは気にしないで。

でね、この街には私たちみたいな流しの音楽家がわんさかいるんだけど、西の大陸から来たレコード会社のスカウトマンがね、オーディションをするっていうの。一堂に会して演奏させて、優秀者はあっちでデビュー。

そんなの出たいに決まってるでしょって思ったんだけどね、思ったんだけどね! 参加権を手に入れた瞬間に相方が『君とはもうやっていけない、僕には大切な恋人がいる』とか言い出したの。マジでバカだわ、何年一緒にやってきたのよってカンジだし恋人とやらがどんな女なのかと思ったらね、何回か仕事したダンスホールの掃除婦よ! あかぎれだらけの手で雑巾絞って床とか便器とか擦ってる女が私たちのコンビを解消! ああもう音楽界の損失だわ!

……というわけで、私はソロで出場することになったんだけど……世間は狭くて。同業者はみんな私のこと腫れ物扱いだし、誰にも代わりを頼めないの。かと言って録音だとか打ち込みだとかの伴奏で歌うのは絶対に嫌。だから引き受けてくれて感謝してるわ。大丈夫、あなたの演奏は私の評価に含まれないから気負わないで。でも妥協はしないで、頼りにしてるから」

 アニエスは早口でまくし立てるように喋るし、一息がめちゃくちゃ長かった。シャンソンの拍子がそのまま染みついた話し方で、そのエピソードも実在の曲からそのまま引用したみたいだった。何がどうとは言えないが、聞いてて不安になる。


 メインストリートでも一際目立つ、外壁を珊瑚色で塗りたくられた旅宿の、最上階に鎮座するスウィートルーム。その滞在費、及び隣接する部屋の宿泊客への騒音迷惑料を、アニエスはさらっと現ナマでお支払いして「また明日ね」と去っていった。


 外壁と揃いの色の壁紙に囲まれ、猫脚の高級家具がそこかしこにドカドカ置かれてる乙女チックな客室に対し、俺たちはどう考えても招かれざる客だった。   

あいつはゴブラン織りの布が張られたソファに汚れた燕尾服を脱ぎ捨て(埃か何かが盛大に舞い上がったように見えたのは気のせいにしとく)、アニエスから借りた譜面台を組み立てる。ふかふかの絨毯の上で三脚は安定せず、ためらいなく絨毯を捲り上げて床の上におろした。楽譜を広げ、最後にアコーディオンを抱える。


 左手側のベースボタンが120個配列された黒いボディのアコーディオンは、ちんちくりんのあいつが持つにはデカすぎる。あいつが普段持っている小型アコーディオン(本当はコンサーティーナとかいう名称らしい)とは勝手が違いすぎる。いくらベルトを調節しても楽器の上に顎をのせる格好になり、アコーディオンを構えているというより、アコーディオンから人間の頭と四肢が生えてるみたいだった。


 俺は出窓に腰を落ち着けて窓の蝶番をはずし、葉巻の煙を逃がしつつ、眼下の街並みとあいつを交互に眺めて時間をつぶした。

 あいつはまず音の場所を確かめるように適当な和音を鳴らして、どことなく怪訝そうな顔をした。そのアコーディオンが使い込まれた中古品であることは素人目にも明らかだったし「昔やってたけど超久々に弾く」と言っているからには、うまく手に馴染まないのかもしれない。


 それでも、あいつがざっと楽譜に目を通して構え直すと、なめらかなメロディがだだっ広い部屋に反響する。俺でも聴き覚えがある、有名な曲だとすぐに分かった。軽快なジャヴァと気だるげなシャンソンの、相反する旋律が交互に繰り返される。


 うろ覚えの歌詞を適当に口ずさむと目が合った。ときどき打鍵ミスをしたり、一瞬演奏が止まったりする瞬間と、俺が記憶の怪しい部分を勝手に作詞したりハミングでごまかしたりする瞬間がちぐはぐにやってきた。もどかしくはあったが、悪い気分ではなかった。あいつは「重くて立ってらんない」と言ってソファに腰をおろし「沈みすぎる」と言って俺の隣にやってきて「重心傾けるとケツが痛い」と言って結局は立って弾くのに落ち着いた。


 何十分かの練習を経て、演奏はもうほとんど完璧という様子だった。あいつはアコーディオンと譜面台を片付け、ワインクーラーの氷に浸かった瓶を引っこ抜き、瓶についた水滴も拭き取らずに開栓してラッパ飲みする。そしてルームサービスのメニューを開き「ああー、肉食べたい」とか言った。まだ食うのかよ。


「ロッティ、俺が言うことじゃねえけどさあ」

 呼び掛けるとこちらにやってきて、出窓に肘をつく。この小汚い旅人にはもったいない、金色のまつげを従えた飴玉のような目が、相槌のかわりに瞬く。

「なんつーか、そんな調子でいいのか? お前がいいならいいよ。ただ、あの女が人として大丈夫なのかっていう警戒心が俺にはある」

「チェザーレくん、腐ってもお坊ちゃまってかんじだよね」

「そういう問題じゃねえよ」瓶のふちに下唇を当て、ぼおおう、と汽笛のような音を吹いて俺のイラつきを掻き消される。

「あの子がどんなやつかなんて、どうでもいいよ。やることやってお金をもらってさよなら、それだけでしょ。私は譜面通りに曲を弾くだけだよ」



 立派な劇場だった。外壁には神話の登場人物が彫られたレリーフ、真っ赤な絨毯が敷き詰められたロビー、最前列でも最後列の座席でも、変わらぬ質の音を響かせる造りのホール。良い意味でも悪い意味でも「有る」側の豊かさが集約されていた。聞けば、もう何百年も昔から続く歴史的価値の高い建築物であるという。

 楽屋というものにはじめて立ち入ったが、思っていたより手狭だった。身支度を整えるためだけの部屋、といった様相で、スターの休息所ではない。

 あいつはアニエスに雇われた美容師に、げじげじ眉毛と長さばらばらの前髪を剪定されていた。一番短い部分に合わせて整えられた前髪のおかげででこっぱちになり、眉墨でキリッと描かれた眉毛がやたらと目立つ。癖っ毛をひとつに括り、ブラウスに赤い蝶ネクタイ、黒のジレと揃いの半ズボン、靴下留めで固定された長靴下に革靴、という少年のピアノ発表会みたいな衣装を着せられていた。


「この曲弾くのにアコーディオン奏者がドレス着るのってヘンでしょ?」と、肩も谷間も剥き出しのテッカテカなドレスを着たアニエスが言う。笑顔を見せていたが、昨日より幾分硬い印象を受けた。まがりなりにも緊張しているのか、腕を組みかえたり何度も時計を見上げたりと落ち着きがない。


「それは言えてるかも」あいつは鏡台に手をつき、化粧をほどこされた自分の顔をまじまじと覗き込んだまま言う。「で、本当に一回もも合わせなくていいの?」

「いいの。何回も歌うとね、なんていうの? モチベーションが乱れるから」

 その台詞は意地を張っているわけでも、驕りでもないようだった。あいつは鏡の中のアニエスの顔をちらりと見てから「そっか」とだけ呟いた。


 ホールは観客でごった返していた。名も無い流しの音楽家たちの、上手いか下手かも分からない演奏を聴きに来る奴がこんなにいるとは……などと高見の見物をきめこんでいたが、喧噪の中のひとつひとつの声を注意深く聞いてみると、日頃から酒場やダンスホールに通っている人間が多いようだった。


 ひいきの奏者の話をしたり、身内の出番を気にする声に混じり「アニエスも出るんでしょ?」という声を、幾度もはっきり聞き取った。それは同情する調子だったりお笑い種だったり、好き勝手に囁かれる。

「だってホラ、相方の男の子って他に彼女がいたんでしょ?」「ここまで噂になって耐えられるのかしら」「あの高飛車と一緒にやってける奴いないだろ。終わったな」……世間の狭さは貴族社会のそれと全く変わらなかった。聞こえた悪口を聞いただけだ、擁護してやる義理は俺に無い。


 出演者の毛色はさまざまで、ビッグバンド・ジャズから名前がわからない弦楽器を携えた弾き語りのおっさんまでよりどりみどりだった。聴くに耐えないほどの奏者がいなければ抜きん出て素晴らしい奏者もおらず、審査は粛々と進んでいく。


 何組かの演奏の後、あいつらの出番がやって来た。ふたりが舞台に出ると、客席に妙な連帯感がもたらされる。事情を知る誰もが、野次馬根性を隠しきれない視線を舞台に送っていた。


 舞台の中央前方、あと何歩か前に踏み出せば客席に落ちる位置にアニエスは立った。その姿は堂々たるもので、両の目を見開き、視界に入るすべてを強く見つめている。角張った顎の輪郭、しっかりした肩幅、胴の肉付き、舞台を踏みしめる脚。スポットライトに照らされた彼女は、頼もしい歌手そのものだった。


 アニエスの右手後方に、アコーディオンを構えたあいつがいる。アニエスと比べて、どうにもこうにもちんちくりんだし、楽器と体格の不釣り合いも相まって、舞台映えしなかった。立たされてる感がすごい。

 アニエスが客席からあいつのほうを向き、するどい視線のまま――それでもわずかばかり、にこりと微笑んで合図を送る。すると、あのちんちくりんの両手の指は、軽やかにボタンの上で踊り出した。


 荷物を持って踏ん張るのに必死な子供にしか見えないあいつが、あんないかつい楽器をなんの迷いもなく操れば、客席にいる誰もがハッとする。音の強弱の全てを担う蛇腹をこれでもかと豪快に開閉するたび、菱形の模様が伸び縮みする。


 アニエスが息を吸い込むわずかな音を、マイクが拾うのに合わせ、奔放な演奏は翳り、ひなびた伴奏に様変わりした。

 あの女のどこからそんな音が出るのかというほど、アニエスは酒焼けしたような重低音で歌い出す。かと思えば、力強くも甘やかな高音がホールを突き抜ける。彼女の背中をじっと見つめるあいつが、呼応するように朗らかな旋律をもたらした。目にも留まらぬ速さで右手は鍵盤を、左手はベースボタンの上を跳ね回る。ふたりはわずかな視線のやりとりだけで最適解を共有し、互いが踏み外さないよう、しかし大胆に音を繋いでいく。


 舞台上での存在感は、他の追随を許さなかった。アニエスは自らのスキャンダルを囮にして、注目する人々を諫めるでもなく、純然たるショウに臨んでいた。側につくあいつはそれを最大限に汲んでいる。


 もうほとんど、アニエスのひとり勝ちだという確信を持ちはじめた時だった。

ひどい金切り声がマイクにぶつけられ、割れた音がホールに拡散する。それは歌詞の一節であったが、あまりにも激しい個人の意思が込められていた。


 アニエスは両の目を見開き、客席の一点を見つめたまま硬直してしまう。演出ではない。今すぐにでもどよめきが起きそうな空気を湛えたまま、張りつめた静寂がつづく。

 唇を引き結び、眉根を寄せ、怒り、あるいは悲しみに耐えているように見えた。彼女はやがてはっと顔を上げ、自らの失態に青ざめた。

 あいつはそれを黙って見守っていた。しかし、どうにもこうにも幕が引かないことを察知すると、アニエスにだけ聞こえるように何かをささやきかける。たぶんあいつの口はこう動いた。「歌って」と。




 デビュー権をかっさらっていったのは、こんなやつ観たっけ、というような歌手だった。楽屋に赴くと、アニエスはアイシャドウとつけまつげを巻き添えにしたどろどろの涙を流して、ひとりでぎゃんぎゃんわめき散らしていた。

「客席に例の相棒くんがいたんだって。今カノと一緒に」

「そんなこったろーとは思った。エグいな」

 アニエスは遠巻きに小声で話す俺たちのほうに顔を向け「私が招待状をおくったの!」とキレた。なんでだよ。


「腹いせっていうか嫌味っていうか、アンタがいなくても私はやっていけるってゆーのを証明してやるバーカバーカみたいな気持ちだったのに! だったのに! なんであんな神妙な顔で観てくれちゃってんのマジで何様なのあの女も何のこのこついてきちゃってんのマジ」

 アニエスはベロア生地のソファを拳で殴りまくり、頭に浮かぶ限りの罵詈雑言を垂れ流し続けていた。これだから女心というやつはわからない。


「どうしよう、もうなんにもない。部屋も引き払ったし、売れるものは売っちゃったし、お金もありとあらゆる方法でばらまいちゃったし……なんにしろ、もうここには居られないわ。はあ……甘かったのかな……万が一の覚悟はしてるつもりだったんだけど……破滅願望でもあったのかしら……」

 こんどは項垂れて悲劇のヒロインになりだした。元相棒への激情が、唯一の希望を逃したことへの絶望に移り、明日からどうやって食いつなぐかという切実すぎる問題がアニエスの頭を埋め尽くしだしたに違いない。生身って大変だよな。めでたいな。


「なんにもなくないじゃん、あるじゃん」

 打ちひしがれているアニエスに対し、あいつはきょとんとした顔をして、暢気にもほどがある声で言った。しかし、それはなんの足しにもならないであろう励ましや慰めの言葉よりも、的を射ていた。




 この街におけるアニエスの最後の公演は、そのへんの路肩で行われた。人通りの多くなる時間を狙い、アニエスを従えてふらふらと三拍子の曲を弾きながら現れれば、たちまち人垣ができあがる。


 昨日と同じ曲を、同じアコーディオンの演奏で――昨日とは違う、何も計算していない、女ふたりがエネルギーを暴発させた演奏だった。この曲が持ち合わせている要素に迎合した演奏なのか疑問だが、清々しいまでに開き直ったアニエスの声量と、素人が聴いてもなかなかに極端だと思わせるアドリブをぶちこむ奔放なアコーディオンの伴奏に観衆が湧いた。


「やっぱり君はここにいるべきだ」「彼に考え直してもらうよう説得しよう」などと言う地元住民もいたが「ここにはもう何もないの」と言って、アニエスはまったく取り合わなかった。


 そして元相棒が置いて行ったアコーディオンを目利きの店に売り払ってしまうと、その金は投げ銭とともに飛行機の旅券にすり替わった。この時代に空を飛ぶ飛行機が現存していること、それを航行するビジネスが成立しているなんて思いもしなかった。


 街はずれの土地で離陸を待つ機体の尾翼には、年期が入り擦れてはいるものの、いくつもの星が並んだ国旗が描かれている。地図上に引かれた国境などもはや意味を成すことはないが、名残――とでも呼ぶべきものは、確かにあった。それが“掌”によるものか、我々が自発的に引き継いだものなのかは曖昧だ。


 ともかくして、アニエスは西の大陸に発つ。やたらと細身のダークスーツを纏って赤い口紅をひいた彼女の荷物といえば、小ぶりのハンドバッグのみだった。

「いろいろとありがとう、楽しかったわ。きっともう、一生会うことも無いでしょうね」

 別れを惜しむでもなく、なんてことのない台詞だった。あいつはそれを肯定も否定もせず、自分がいつも言われるのと同じ挨拶を口にする。


「よい旅を」

「……あなたたちもね」


 アニエスはスターよろしく投げキッスを飛ばし、ひらひらと手を振って去っていった。彼女の太いヒールの靴底は地面を打ちつけていったが、足跡は風と砂に溶けてなくなる。大地はいつでも荒涼とし、誰の痕跡も刻まない。


変な色の背広を着たスカウトマンとともに、新聞か何かの取材を受けているオーディション通過歌手の横をすり抜けるアニエスは正直言ってシブい。颯爽とタラップをのぼる彼女を見上げる、一同の表情ときたらマジでアホづらだった。


「あのアコーディオンさあ」離陸を待たずして、あいつは廃線跡を目指して歩き出す。

「蛇腹だけ真新しかったの。張り替えたばっかり。手入れも行き届いてて、そうじゃなきゃあんなにいい値段にならないよ。元相棒くんがどういうつもりで楽器を投げ出したか知らないけど」


 この値段でいいか、と確認を求められたアニエスは、アコーディオンに手のひらを乗せてしばし黙考した。さっさと手放すものだと思っていたが、存外そうでもなかった。彼女がすぐに首肯しなかったのは、提示された額が理由ではないことぐらい俺だってわかる。

……というようなことを何気なく口にしたら、あいつは飲んでもないのに酔っ払いみたいにニヤニヤして「ええー、何それ何それ」とか言って俺の周りを不必要にぐるぐるしだした。はぐらかそうと煙草を咥えたが、風が強くて火がつかない。


「許嫁がいた。政略結婚ってやつだよ」三度四度、マッチ棒を擦る。「顔を合わせる前に処刑されて死んだ。婚約が決まった時に手紙をもらって、それきり。俺は名前と筆跡しか彼女のことを知らないし、その手紙も魔女に没収されてる」


 燃え上がった火種は細くたなびいて、煙草にうつす前に一瞬で搔き消えてしまう。砂埃が吹きつける音が、頭蓋の中に反響する。

「……まあ、アニエスぐらい鮮烈に生きるのがいいんだろうな。どこで何してようが、自分には自分しか残らないし」

 あいつは音楽に耳を澄ますように目を閉じて、一陣の風が行き過ぎるのを待った。黒い燕尾がばたばたと翻る。


 やがて風が止むと、砂埃よりも汚い手袋をした手で顔をごしごし拭う。俺を横目で見て鼻で笑い、帽子を脇に抱えて再び歩き出した。

「チェザーレくんなに一丁前の名言キメてんの、わりと恥ずかしいよ」

「うるせえな、整えてから一段と面白い前髪と眉毛しやがって」


 このご時世、不平不満を唱えたところでどうにもならない。そう、有るところにはなんでも有って、無いところには何も無い。それだけのことだ。




アコーディオン弾き(原題:L'Accordéoniste)

作曲:ミッシェル・エメール

歌唱:エディット・ピアフ

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