8.運命を拓く誓約-1

 空調の送風音が奏でる静かな調べが、ルイフォンの頬を撫でていく。

 鷹刀一族の屋敷にある仕事部屋は、極端に機械寄りの設定温度になっている。だが、今のルイフォンは草薙家の居候の身。それに、必要最低限の機材しか持ち込んでいないこともあり、客間居候部屋は、人間にとって適切と言われている温度に抑えてあった。

 窓の外では、夏の強い太陽が燦々と輝いており、暑がりのルイフォンとしては、地味に辛かったりする。

 メイシアは昼食の片付けを手伝っているため、部屋ここにはいない。だから、ルイフォンはひとり、モニタ画面と向き合っていた。

 愛用のOAグラスが青白いバックライトを反射させ、彼の視線の先を隠す。しかし、彼の心がここにはないことは明らかであった。いつもなら、熟練のピアニストが如く、キーボードの上で滑らかに踊っている両手が、先ほどから止まったままだからだ。

 とはいえ、複雑な問題を解決しようとしているわけではなかった。今は、ただぼうっと、鷹刀一族の屋敷にいる兄貴分、リュイセンのことを考えていた。

「……っ」

 ルイフォンは、癖の強い前髪を掻き上げる。

 今回の作戦は、最善ベストではなかったとしても、最良ベターだったはずだ。彼はただ、ミンウェイの技術を借りたかっただけだ。ミンウェイを追放したのは、リュイセンの意志だ。

『ミンウェイの心は、とっくに緋扇を選んでいたんだ。けど、ミンウェイはあの性格だから、一族を切り捨てて緋扇のところに行くなんて考えられない。……だから、ルイフォン。お前の策は、ミンウェイの背中を押す、いい口実きっかけになった。――ありがとう』

 電話口のリュイセンは、とても穏やかに笑っていた。

 長い星霜時間を積み重ねてきた感情を、彼女のために一度はすべてを捨てたほどの愛情を、そんな言葉で昇華した兄貴分が切ない。どうしようもないことだと理解していても、作戦を立てたルイフォンとしては後味が悪かった。

「……仕方ねぇよな」

 がしがしと乱暴に髪を掻きむしり、ルイフォンは、これ以上、この件について考えることを自分に禁じた。部外者の彼が、いつまでも引きずるのは失礼であると。

 それに、草薙家に駆けつけてからのミンウェイは、今までとはどこか違っていた。とりわけ、シュアンを心配するうれい顔が――。『可愛らしい』という言葉はメイシアのための表現なので、そんなふうには言わないが……リュイセンの決断は正しかったのだと思う。

「…………」

 気持ちを切り替え、山積みの問題と向き合おうと、ルイフォンはモニタへと向き直った。

 作戦会議の最中に、ハオリュウに指摘された通り、『ライシェン』の父親であるヤンイェンは、ルイフォンたちの味方とは限らない。彼の情報を集めることは急務だ。それから、ずっと放置したままの〈スー〉のプログラムを……。

 そんなことを考えながら、キーボードに指を走らせ始めたのだが、まったく集中できない。

 指先が意味もなく机を叩いたかと思えば、凝り固まった首の骨を鳴らし、あるいは猫背を伸ばし……と、落ち着きなく体を動かしていると、廊下から人の近づいてくる気配を感じた。その足音の軽やかさに、ルイフォンは、さっとOAグラスを外し、机の上に置く。

 彼が回転椅子をくるりと翻して立ち上がったのと、部屋の扉が開かれたのは、ほぼ同時であった。

「ルイフォン!」 

 最愛のメイシアが室内に飛び込んでくる。

「緋扇さんが目を覚ましたって、ミンウェイさんが……!」

 黒曜石の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。シュアンの体が仮死状態で運ばれてきたときには蒼白になっていた彼女だけに、安堵も大きいのだろう。

 一方のルイフォンは、研究報告書の記述から、薬の安全性は充分に保証されていると確信していた。だからこそ、この策を提案したわけであり、また、薬の調合に関しては、ミンウェイに全幅の信頼をおいている。

「ルイフォン」

 彼のそばへとやってきたメイシアが、すっと手を伸ばしながら爪先立ちになった。それから、抱きつくように倒れかかりながら、彼の前髪に触れる。

 くしゃり。

 彼の猫毛が、彼女の細い指の間をすり抜けた。

「作戦成功――なの」

 鈴を振るような声が響き、メイシアの顔が緩やかにほころんでいく。

 その瞬間、ルイフォンの肩から、すうっと重たい何かが消えていった。思わず膝が崩れそうになると、彼女の華奢な体が、それと感じさせないように支えてくれる。

「……ああ、成功だ」

 ルイフォンはメイシアを強く抱きしめ、抜けるような青空の笑顔を浮かべた。

 彼女は、気づいていたのだ。

 本当は――心の底では、彼もまた、不安だったということに。

 その証拠に、やるべき作業が山積みであるにも関わらず、何も手につかなかった。

 万が一にも、この作戦が失敗したときには、ルイフォンは『ミンウェイに、愛するひとをその手で殺させた』――ということになる。

 そんなことはあり得ないと信じていたし、作戦を指揮する者として、平然としている必要があった。だから、いつも通りに振る舞っていた……つもりだった。

「ありがとう、メイシア」

 そっと囁き、彼女の耳に口づける。

 彼女は反射的に肩を上げ、ほのかに頬を染めた。その表情が可愛らしい。

「シュアンのところに行こうぜ!」

 ルイフォンの声に、ふたりは、どちらからともなく指先を絡め合わせた。



 シュアンの部屋の扉をノックしようとしたら、中からハオリュウの声が聞こえてきた。詳しい内容は分からないが、どうやら謝罪をしているらしいことは伝わってくる。

「……シュアン、本当に……でした」

「いや、別に、あんたが……」

「でも……」

「……って、そういえば、あんた、〈天使〉になるって……」

「当然……、僕の責任……」

「……けんなっ! そんなことして、俺が……」

「あなたこそ、僕のために嬲り殺しの……でしょう!?」

 初めは、しんみりとした様子であった室内が、にわかに剣呑な雰囲気を帯びていく。

 喧嘩腰のやり取りは、断片的にしか聞こえなくとも、ハオリュウとシュアンが、互いに互いを思い合い、互いにおのれを犠牲にしようとしたことに対して、互いに非難――という名の絆を交わし合っていることは明らかであった。

 ルイフォンとメイシアは顔を見合わせた。

「……出直すか」

「うん……」

 苦笑交じりの彼に、彼女も頷く。

「ハオリュウとシュアンってさ。いつの間に、あんなに仲良くなったんだろうな?」

 きびすを返しつつ、室内に声が届かないよう、ルイフォンはメイシアの肩を抱き寄せて、耳元で囁く。

 あのふたりは、どう考えても相容あいいれない間柄だったはずだ。人の運命というものは、本当に不思議なものである。

「あのね、ルイフォン。ハオリュウが素のままで、誰かにぶつかっていくなんて、今までになかったことなの。……だから私、凄く嬉しい」

 柔らかに口元をほころばせたメイシアに、ルイフォンは「あぁ……」と呟く。

「――そうか。……そうだよな」

 いつだったか、ハオリュウは『シュアンは、僕の友人です』と誇らしげに語っていた。

 異母姉メイシアが、友達とは『わきまえて』付き合うように、と言われていたそうだから、貴族シャトーアの嫡男として生まれ、現在は当主であるハオリュウも、同じように教育されてきたことだろう。

 ならば、シュアンは、ハオリュウの初めての友人だ。相手が倍以上も年上で、一癖も二癖もある異端者アウトローというのは、あまり一般的ではないが、実にハオリュウらしい。

 ――シュアンを無事に救出できて、本当によかった……。

 ルイフォンは、改めて安堵の息を吐き、メイシアの髪に顔をうずめるように、ことんと頭を預ける。

 そのときだった。

 背後から勢いよく扉の開く音がして、黄色い声が飛んできた。

「ちょ、ちょっと! ルイフォン、メイシア! どうして帰っちゃうのよ!」

 草薙家の一人娘、クーティエである。シュアンが目覚めたという知らせを聞いて、ハオリュウと共に駆けつけていたのだろう。気配に敏感な彼女は、扉の外のルイフォンたちに気づいていたのだ。

 クーティエは、両耳の上で高く結い上げた髪をなびかせ、ふたりを引き止めようと、廊下へと身を躍らせる。そして、はっと息を呑んだ。

「――って、なんで、いっつもベタベタしてんのよ! 目のやり場に困るじゃない!」

 その突っ込みに、メイシアが、さぁっと顔を赤らめる。しかし、そんなことで動じるルイフォンではない。彼は、黒絹の髪をくしゃりと撫でると、クーティエに見せつけるようにメイシアの腰にするりと手を回し、彼女を抱き寄せながら振り返る。

部屋なかは、取り込み中だろ?」

 シュアンの声は聞こえたし、またあとで来るよ――と、続けようとしたとき、室内からハオリュウの声が響いた。

「だからこそ、姉様とルイフォンにも立ち会っていただきたいんですよ」



 クーティエに先導されて部屋に入れば、ベッドでシュアンが半身を起こしており、その両脇にハオリュウとミンウェイの姿があった。

「よぉ、ルイフォン。あんたには、すっかり世話になっちまったみたいだな」

 シュアンが、彼の代名詞ともいえる三白眼を細め、にやりと口の端を上げる。

 彼としては、爽やかに笑いかけたつもりらしい。しかし、悪人面の凶相は相変わらずで、更に現在は、伸び放題の無精髭が、胡散臭さを演出するのに一役買っている。如何いかにもシュアンらしい姿に、ルイフォンは彼の無事を実感して破顔した。

「体は大丈夫なのか?」

「ああ。もとからの怪我はいてぇが、例の薬の影響はまったくない」

 確かに顔色もよく、とても元気そうだ。むしろ、ずっと付き添っていたミンウェイの目のくまのほうが気になる。とはいえ、シュアンが目覚めたからには、彼女もこれで、ゆっくりと休むことができるだろう。

「シュアン……。……その、いろいろ勝手をやっちまって、すまない」

 本人の同意を得ずに、生命に関わる薬を盛った。そして、彼の表向きの人生に終止符を打った。ルイフォンのしたことは、傍若無人もここに極まれり、という無法だ。勿論、良かれと思ったことではあるが、作戦を立案した身としては、やはり罪悪感は拭いきれない。

「何を言ってんだ? あんたは本当によくやってくれたさ。放っておけば、ハオリュウが〈天使〉になるところだったと聞いたぜ?」

 シュアンがそう言った瞬間、ハオリュウの瞳が、恐ろしげにぎろりと光る。……だが、育ちのよい彼は、会話の途中で割り込むことなく沈黙を保った。

「ルイフォン、あんたには本当に感謝している。ありがとな」

「そう言ってもらえると、俺も気が軽くなる」

 自信過剰なはずのルイフォンの控えめな態度に、シュアンは声を立てて笑った。

「そんな湿気シケツラじゃなくて、胸を張れよ。あんたは、俺の命の恩人……」

 そこまで言いかけて、シュアンはわずかに首をひねり、それから、にやりと続ける。

「……そうだな。俺は『死んじまって』いるから、あんたは『俺の人生』の恩人――って、ことさ」

 軽薄そうな濁声だみごえが、奇妙に重く響いた。

「シュアン……?」

「俺は、この性格だからな。今まで何度も、死に直面したことがある。狂犬と呼ばれて荒れていたころは、別に命を惜しいとも思わなかった――そのつもりだった。……けどよ」

 不意に、シュアンの目が懐かしげに細められる。

 それは、おそらく無意識の仕草で、しかし、彼が意図的に笑いかけたときよりも、ずっと自然な微笑みだった。

「イーレオさんと初めて個人的に言葉を交わしたとき、あの人に、ちょいと転がされて、脅しを掛けられてな。俺自身も気づいてなかった本心を吐かされた。『俺はまだ、何もしちゃいねぇ! このままじゃ、俺という人間が存在した意味がねぇんだよ!』――ってよ」

 軽い口調で、格好の悪い過去を告白しながらも、シュアンは照れることも恥じることもなく、まっすぐにルイフォンを見つめる。

「俺は、両親と妹を目の前で殺されている。俺の家族は、凶賊ダリジィンの抗争に巻き込まれて、無為に死んだ。……だから、ひとりだけ生き残った俺は『何かをさなければ』――と、ずっと渇望していたのさ。なのに、現実には何ひとつせずに、ただ焦燥に駆られ、腐っていた。そんな愚かさをあばかれた直後に、ハオリュウと縁を持った」

 ぐいと顎を突き出すような、ふてぶてしい仕草で、シュアンは傍らのハオリュウに顔を向ける。――その瞳に、自然な笑みをたたえたままで。

「俺は、俺の正義のために、俺の人生を賭けて、ハオリュウを俺好みの権力者に育てると決めた。だから、今回、ハオリュウのために死んでも構わないと思った。俺の死は、無駄にはならないと。ちゃんと意味をすと、信じられたからな」

「シュアン!」

 険しい声が割り込んだ。

 成長によって、低さと深さを得ながらも、繊細な響きを残したハオリュウの声だ。

「怒るなよ、ハオリュウ。――言ったろ? あんたの手は、俺の手だ。俺が死んでも、『俺の手』は残る」

「あなたは、何をっ!」

「おいおい、俺の話の腰を折るんじゃねぇよ」

「――っ」

 揶揄するような調子でも、それは正論だ。礼節をわきまえるハオリュウとしては、唇を噛んで押し黙るしかない。

「だいたいな、この話は『――けど。実際、こうして助け出されてみれば、俺の人生は、まだまだ、てんで何もしてねぇや、と痛感した』と、続くんだからよ」

 そう言いながら、シュアンは、おもむろにグリップだこで変形した右手をベッドから出し、ハオリュウの肩に載せる。

「ミンウェイから聞いたぜ? あんた、本気で世直しをするってな?」

「!」

「……そうだよな。俺たちの手は、まだ何もしちゃいねぇ……――これからだ。なのに、途中どころか、そもそも何も始まってもいねぇうちから、俺の手がなくなっちまったら、あんたは手が足りなくて困るよな? 俺の手は、あんたの手なんだからよ」

 虚をかれたようなハオリュウの息遣いと、シュアンの微笑。そして、三白眼が再びルイフォンを捕らえる。 

「だから、俺の人生に未来これからひらいてくれたルイフォンには、感謝しているというわけだ。――ルイフォン、本当にありがとうな」

 ハオリュウの肩から手を下ろし、シュアンは深々と頭を下げた。

 その際、正面にいたルイフォンにだけに分かるよう、眼球をぎょろりと寄せて、ミンウェイを示す。

 ――ミンウェイのことも、感謝している。

 ルイフォンに。

 そして、ここにはいない、リュイセンに。

 無言の声が聞こえた気がした。

「俺の人生は、これからさ」

 耳障りな濁声だみごえが、心地よく響く。

 気づけば、血走った三白眼は、シュアンとは思えぬほどに穏やかに笑っていて、現状は、最良ベターでも、最善ベストでもなく、最高スタートなのだと告げていた。

「……っ」

 胸が熱い。

 ルイフォンが、ぐっと拳を握りしめたとき、隣でメイシアが目頭を押さえた。

 彼は、彼女を抱き寄せ、黒絹の髪をくしゃりと撫でる。わずかに頬をかすめた指先が、彼女の涙の熱を伝えてきた。

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