7.運命を断ち切る女神-3

 優しい香りが、ほのかに鼻腔をくすぐる。

 まどろみの中に揺蕩たゆたっていた意識が、すっと浮かび上がってくる。

 懐かしいような愛しさが込み上げてきて、胸の中を埋め尽くした。

 これは、なんの香りだっただろうか。


 ――ああ、干した草の香りだ……。


 緋扇シュアンは、穏やかに口元を緩めた。

 嬉しげな表情は、しかし残念なことに、客観的には悪事でも企んでいるような面構えにしかならない。その事実に、鏡の前でもない限り、本人が気づくことがないのは幸か不幸か。

 彼は、彼の凶相を特徴づける三白眼を開く。けれど、独房の薄暗い天井を見ることに慣れていた瞳は、予想外のまばゆい光に驚き、再びまぶたを閉じた。

 ここは、どこだ?

 目をつぶったまま、周りの気配を探る。そして、自分の右脇のあたりに違和感を覚えた。

 警戒しながら、ゆっくりと薄目を開けると、視界に飛び込んできたのは、まっすぐな長い黒髪。彼の寝かされているベッドの右端に彼女の寝顔があり、彼に掛けられている薄い夏地のタオルケットが、彼女の頭の重みで不自然に引っ張られていた。

 白衣姿であることから、彼女は医者として彼を診ていたようだ。けれど、目覚めを待っているうちに、疲れて眠ってしまったのだろう。

「せっかくの美女が台無しじゃねぇか」

 目の下のくまを見やり、シュアンは苦笑する。

 それから、彼女を起こさないよう、横になったまま部屋の中に視線を走らせ、ここは草薙レイウェンの家だろうと推測した。――刺繍の壁飾りを見つけたからだ。

 その壁飾り自体は初めて見るものだったが、草薙家のそこかしこには、手芸好きのユイランの作品が飾ってあるのだ。それに、ルイフォンがシュアン救出の中心となっていたのなら、居候先である草薙家が拠点となるのは自然なことだろう。

 そのとき、シュアンは、はたと思い出した。

 彼は、毒を飲んだのだ。

 彼女に口移しで毒を注がれ、それを飲み干した。

 彼の嚥下を確認すると、彼女は穏やかに微笑み、狂おしいほどまでに熱い抱擁を彼に与えて去っていった。

 そのあと、しばらくして強烈な眠気が襲ってきた。彼は独房のベッドに横になり……、そこから先の記憶はない。

「俺は……、いったい……?」

 かすれた呟きと重なるように、右脇が違和感から解放された。そして、顔を上げた彼女と、視線と視線が交錯する。

「緋扇……さん……!」

 うるわしの美声が震え、切れ長の瞳がいっぱいに見開かれた。その双眸は、みるみるうちに潤み始め、はらはらと硝子の花びらが舞い落ちる。

「緋扇さん……! 緋扇さん! ……緋扇さん! ――っ! ……よかっ……! 緋扇さんが……、……!」

 まるで幼子おさなごのように、彼女が号泣する。

 彼に毒を授けた唇には、いつもの強気なべにはなく、他の言葉は忘れてしまったかのように、彼の生存ことを唱え続ける。彼女がしゃくりあげるたび、癖ひとつない、生来の姿となった黒髪が、さらさらと光を弾いた。

 普段の彼女からは想像できない、なりふり構わぬ泣き顔に、彼は狼狽した。

「ミンウェイ……」

 シュアンは体を起こし、久しく舌に載せていなかった名を口にする。

 泣いている肩を抱き寄せたいが、あいにく彼女は、誰かに触れられることを怖がるのだ。だから代わりに、自分の濁声だみごえで出せる、最大限に優しい声を紡ぐ。

「ミンウェイ、あんたが俺を監獄あそこから出してくれたんだな? ありがとよ」

 本来なら、まずは自分の置かれている状況を尋ねるべきなのだろう。しかし、それよりも、すっかり取り乱している彼女をなんとかしてやりたくて、シュアンは彼なりの精いっぱいの笑顔を作った。

 詳細など、些細なことだ。

 薄暗い監獄にいたはずの自分が、明るい場所に寝かされており、目の前にはミンウェイがいる。ならば、『美女』と『巨漢』の面会人に扮した、ミンウェイとタオロンが、彼を脱獄させてくれたということに他ならないのだから。

 しかし、彼女は激しく首を振った。

「失敗するかもしれなかったの! 怖かった! 恐ろしかったわ! 緋扇さんが目覚めなかったら、どうしよう、って……!」

 感情的ヒステリックな金切り声で、ミンウェイが訴える。

 シュアンはぽかんと口を開けた。

 鷹刀一族を切り盛りする、頼りになる姉御肌は、いったいどこにいったのだろう?

 ……やがて、彼は理解する。彼女の涙は、作戦の成功に安堵したからこそ。緊張の糸が切れただけだ。

「おいおい、どうしたんだよ?」

 シュアンは、おどけた調子で口の端を上げた。

 経緯は知らぬが、もう心配は要らないはずだと、彼女の不安を笑い飛ばす。妙齢の美女の駄々っ子姿という落差ギャップも、なかなか悪くないものだ――などと、人の悪いことを思いながら。

 そんな彼に、ミンウェイは、きっ、と眉を吊り上げた。

「あなたは、私に『仮死の薬』を飲まされたのよ!」

「仮死……?」

「昔、お父様が発明した、人体を一時的に仮死状態にする薬よ。河豚毒テトロドトキシンが主成分で、安全性はお父様の折り紙付き。――でも、私自身が調合したことは、一度もなかった! ……私に失敗ミスがあったら、あなたは死んでいたのよ!」

 責め立てるように言って、彼女は再び、しゃくりあげる。

 大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた――……が、彼女の態度は、シュアンの頬を緩ませただけであった。

 さすがに声を出して笑ったら可哀相だろう。シュアンにだって、そのくらいの分別ふんべつはある。だから彼は、少しだけ思考を他所よそにやり――ひとつ。

「ふむ。一時的な仮死状態……か」

 まるで、おとぎ話の産物だ。しかし、あの〈ムスカ〉なら――正確には、ミンウェイの『父親』であったオリジナルのヘイシャオなら、不可能ではないかもしれない。

 ――否。事実として、可能だったのだ。

 だからこそ、独房で意識を失ったシュアンが、ここにいる。監獄は、生きている人間を収容する施設であって、死体の保管場所ではない。『死体』となったシュアンは牢から運び出され、処分される前に手際よく回収されたのだろう。

「なるほどな。だいたいの状況は把握できたぜ」

「え?」

 シュアンの声に、ミンウェイが瞳をまたたかせた。睫毛まつげの上の涙が、きらりと弾かれる。

「――ほらよ? 牢屋にぶち込まれていたはずの俺が、気づいたら美女に看病されていたんで、いったいどうしたことかと思っていたのさ」

 軽い口調で微笑むシュアンに、ミンウェイは、はっと口元を押さえた。

 気まずげに視線がそらされ、「ごめんなさい……」と、消え入るような声が漏れる。どうやら、彼には説明が必要だということを思い出してくれたらしい。

「あ、あの……ですね。ルイフォンが〈ムスカ〉から託された記憶媒体には、王族フェイラの『秘密』や摂政の情報だけではなくて、お父様の研究のすべても記されていたんです。その中に、あの薬のこともあって……」

 取り繕うような、けれど微妙に要領を得ないような――実のところ、その内容はシュアンにとって必要ないような……、しどろもどろの台詞を受け、彼は言を継ぐ。

「それで、ルイフォンは『薬を作って欲しい』と、あんたを呼び出した、ってわけか。怪我で動けない俺でも、『死体』としてなら脱獄できるからな」

「はい」

 そう答えてから、ミンウェイは「……いえ」と否定した。

 訝しげに顔をしかめたシュアンに、彼女は言葉を選ぶように告げる。

「『仮死の薬』を使った理由は、脱獄のためというよりも、あなたをお尋ね者にしたくなかったからです。――ルイフォンとハオリュウは私を呼んで、そして言いました」

 彼女はそこで言葉を切り、切れ長の瞳をまっすぐにシュアンに向けた。


「『ミンウェイ、一度だけ〈ベラドンナ〉に戻って、あいつの運命を断ち切ってくれないか? ――頼む!』」


 ルイフォンを真似た声色に、そのときの光景がシュアンの目に浮かんだ。

 背中で一本に編まれた髪が転げ落ち、先端で金の鈴が煌めく。深々と頭を下げるルイフォンの隣で、貴族シャトーアのハオリュウもまた、身分の差などまるきり無視して、同じようにこうべを垂れる。


「『ただ脱獄させただけじゃ、あいつはお尋ね者になっちまう。だから、あいつを『殺して』ほしい。『死者』になれば、追手は掛からない』」


 ミンウェイの瞳から、新たな涙が流れた。

「緋扇さん……。私は、あなたを『殺した』んです……」

「はぁ?」

 思い詰めたような彼女に、不可思議なことを言うものだと、シュアンは首をかしげる。

「何を言っているのさ? 俺は、ちゃんと生きているぜ?」

 表向きはどうであれ、こうして無事に生きているのだからいいだろう――そういう意味だった。

 なのに、彼女は柳眉を逆立てた。

「なんで、そんなへらへら笑っているのよ!?」

「ミンウェイ!?」

「いい? あなたは、世間的には死んでしまったのよ!」

 叩きつけるように叫んでから、彼女は、ひくっと喉を鳴らす。

「……そうするのが一番いいと思ったわ! 私も、ルイフォンたちも納得している。……でも、本人である、あなたには何も言わずに、勝手に決めたの……。……ごめんなさい」

「ミンウェイ……」

 彼女は、責任を感じているのだ。

 他人の運命を断ち切ったことに対して。

 一時的に〈ベラドンナ〉に扮したところで、彼女はもう、運命を司る女神ではないのだから。

「そう言われても……、実感がわかねぇしよ……」

 シュアンは、ぼさぼさ頭を掻きながら、少し真面目に考える。

 この国には、生きていると見なされていない自由民スーイラと呼ばれる者たちがいる。だから、彼らの仲間入りということになるのだろう。彼らには戸籍がなく、社会的になんの保障もされていない……。

「――別に、俺は死人でいいんじゃねぇか?」

「緋扇さん!?」

「要するに、自由民スーイラになっただけだろう?」

「ちょ、ちょっと! そんな、あっさり言うものではないでしょう!」

 ミンウェイは、思わずといったていで彼の枕元に駆け寄った。驚愕のあまり、涙はすっかり吹き飛んでいる。

「ミンウェイ、落ち着けよ。俺はもう、警察隊を免職クビになっている。ついでに、親兄弟もいない天涯孤独の身だ。表の世界で生きていくことに、なんの未練もない」

「でも……!」

 食い下がろうとする彼女に、彼は満足そうに凶相を歪めた。

「ルイフォンの奴は、俺に自由をくれたのさ。『自由民』とは、本当によく言ったものだな。むしろ、今までよりよっぽど、俺らしく生きられるんじゃねぇか?」

「……」

 腑に落ちないように唇を噛む彼女に、彼は言葉を重ねる。

「メイシア嬢だって、死人だろうが。けど、貴族シャトーアをやっていたときより、ずっと生き生きとしているはずだ。身分なんて、くだらねぇものに囚われる必要はねぇんだよ」

「……あなたは……どうして……。なんで……、そんな……。もうっ……」

 ミンウェイの唇が、わなわなと震える。彼女はシュアンに掴みかかりたい衝動を抑えるために、手元にあったタオルケットを握りしめた。相手は怪我人なのだから危害を加えてはいけないと、行き場のない思いを持て余した彼女に、不幸なタオルケットがこねくり回される。

「ミンウェイ?」

「本当に、鉄砲玉だわ。――そうよ! ハオリュウのために死のうだなんて、無茶苦茶までやらかすし!」

「ああ、ちゃんと伝わっていたか。〈フェレース〉は、本当に優秀だな」

 しれっと言ってのけたシュアンを、ミンウェイが、ぎろりと睨む。それから、彼女は大げさな溜め息をつきながら、諦めたように告げた。

「ハオリュウが、あなたを秘書に欲しいと言っているわ」

「なっ!?」

 寝耳に水だった。

「死んでいるなら、『脱獄した死刑囚』ではなくて、『死亡した犯罪者と、よく似た他人』だと突っぱねられるから、貴族シャトーアの当主の隣にいても、なんら支障はない、ですって!」

「……随分な屁理屈だな」

 だが、あの奇天烈キテレツな少年当主は、本当にそれで通してしまうことだろう。――嬉しいことに。

「なんかね、あなたが囚われてから、ハオリュウは、いろいろ考えたみたい。あなたと世直しをするんだって、張り切っているわ。いつの間にか、クーティエといい感じになっていて、彼女と公認の仲になるためにも、身分制度を廃止するんですって」

「……は?」

「一時は、あなたを助けるために〈天使〉になる、とか言い出して、大変だったみたいだけどね」

「はぁぁぁっ!? ――あの糞餓鬼! 何を考えていやがる!?」

「ハオリュウのために、嬲り殺しにされようとしていた緋扇さんだって、大差ないわよ!」

 ぴしゃりと強気に言い放ち、ミンウェイが笑う。

 唇をとがらせながら、あでやかに。

 そして――。

「緋扇さん」

 急に改まった口調になって、ミンウェイがぐっと胸を張り、草の香を揺らした。

 まっすぐに向かってくる切れ長の瞳に、シュアンは三白眼をまたたかせる。

「私……、一族を追放されたんです」

「!?」

 シュアンの目が三白眼を放棄して点になった。

「リュイセンにね、次期総帥の名において私を追放するから、あなたのもとに行くように、って――背中を押されたの……」

「どういう……意味だ……?」

 濁声だみごえがかすれ、語尾が甲高く跳ね上がる。

 ミンウェイは、『仮死の薬』のために、ルイフォンに乞われて作戦に加わっただけだ。それが何故、追放されなければならないのだ?

 しかも、『リュイセン』に……?

 シュアンの心臓が、早鐘を打ちはじめる。

「そ……、それは……そのまんまの意味よ!」

 叩きつけるように言って、ミンウェイは、ぷいと横を向いた。つやめく黒髪の隙間から、赤く染まった耳たぶが、ちらりと覗く。

「ミンウェイ?」

「……ご、ごめんなさい。……ちゃんと、言わないと……伝わらないわよね」

 長い睫毛まつげの動きから、横顔の彼女が、あちらこちらに視線をさまよわせているのを感じた。

 やがて彼女は、柔らかな草の香りを漂わせ、背けていた顔を再びシュアンへと戻す。不安げに眉尻を下げながらも、高い鼻梁はつんと上向かせ、意を決したように淡い唇を開いた。――美声を上ずらせながら、少しだけ早口に。

「現状を考えると、鷹刀は、今は大人しくしているのが賢明よ。でも、『仮死の薬』は、私にしか扱えないわ。だから、ルイフォンは総帥お祖父様次期総帥リュイセンだけに、まず伺いを立てたの。鷹刀には迷惑を掛けないから、私が『こっそり屋敷を抜け出す』ことを許可してくれないか、って」

「ああ、そうだよな? 鷹刀あんたが動いていることが摂政にバレなきゃ、それでいい。追放する必要なんてないはずだ……」

 そう応じながらも、シュアンの鼓動は、ますます早まる。

『リュイセンが、自分の権限において、ミンウェイを追放した』

 その意図に――リュイセンの決断メッセージに気づかないほど、シュアンは愚かではない。

 血色の悪い顔から、更に色が抜けていき、悪人面に凄みが増す。呼吸が乱れ、まだ折れたままの肋骨が悲鳴を上げた。

「ルイフォンは、私の追放なんて、まったく考えていなかったわ。ただ、協力してほしい、ってだけだった。でも、リュイセンは、あなたが逮捕された時点で、私をあなたのもとに送り出すつもりでいたの」

「な……ん、だって――!」

「リュイセンは、あなたの逮捕にかこつけて、私に選択を迫ったのよ」

「選択……」

 シュアンの呟きに、ミンウェイが頷く。

 そして、彼女は告げる。

 

「このまま、鷹刀で一族を守っていくか」

「それとも、あなたと生きていくか」


 鋭く息を呑んだ音が、まるで他人のもののように響いた。

 凍りついたような三白眼で、シュアンは、ただただミンウェイを凝視する。


「私は、あなたと生きたい。――この道を選んでもいいですか……?」


 彼女の言葉が、心臓を撃ち抜く。

 衝撃で、ぼさぼさ頭が、ぐらりとかしいだ。

 かくりと首が曲がり、顔を隠すように、うつむく。

 その影で、三白眼から、すぅっと硝子の欠片かけらが流れ落ちた。

「緋扇さん……?」

 おずおずと近づいてきた彼女を、風穴の空いた心臓を埋めるかのように、無我夢中で抱きしめる。彼女を怖がらせてはならない――などという配慮は、頭の片隅にもなかった。

 腕の中の彼女は柔らかく、温かかった。

 干した草の香りが胸に広がり、満たされていく。


 ――忘れていた……かつえていた――人のぬくもりだ……。

 

 記憶の彼方に沈むくらいの昔。

 ある日、突然、天涯孤独となった。

 愛する家族を失った子供ガキは、やがて、正義のために警察隊員となった。

 けれど、そこには理想の志などなく、腐った現実を見せつけられて、ぽきりと心が折れた。

 傷だらけの孤独な狂犬は、他者との関わりを自らに禁じ、自らを封じた。

 何者なんぴとたりとも、自分の内側には入れるまい――と。

「ミンウェイ」

「え?」

「俺のほうこそ、あんたをこんな道に引きずり込んじまっていいのかよ? 俺のそばには『穏やかな日常』なんてねぇぞ?」

 シュアンは問う。

 軽い口調とは裏腹に、彼女の耳元に寄せた唇を、祈るように震わせながら。

 すると、彼女は、くすりと笑った。

「チャオラウが言っていた通りだわ」

「は? あの無精髭のおっさんが何を?」

 言ってから、今の自分も、結構な髭面であることを思い出す。しかも、彼女の頬に思い切りり寄せてしまった。……彼女は痛かったかもしれない。

 そんなふうに微妙に後悔をしていると、彼女の返事に不意をかれた。

「チャオラウがね、あなたは、私を巻き込むのが怖くて、何もできない臆病者だ、ですって」

「なんだと!?」

 瞬間的に、かっと頭に血が上る。

 総帥イーレオの背後に控えているだけの、護衛という名の置物デカブツの分際で!

 今まで特になんという発言もなく、ましてや俺との接点など、まるでなかっただろうが!

 ――そう思いつつ、チャオラウの弁を否定しきれないところが情けない。正直なところ、『あのおっさんを侮っていた』と認めざるを得なかった。

「俺は、あんたに幸せになってほしいんだよ。――けど、俺には、あんたを幸せにしてやる自信がねぇんだ……」

 素直に告白すれば、ミンウェイは小さく首を振り、腕の中から、ぐっと彼を見上げた。

「私は、あなたに幸せにしてもらうために来たわけじゃないわ。自分の幸せを、自分で掴むために来たの!」

「ミンウェイ!?」

 想像もしなかった答えに、シュアンは絶句する。

「穏やかな日常を過ごしたければ、自分で努力すればいいだけでしょう?」

 彼女は、切れ長の瞳を煌めかせる。

「私とあなたと、私たちの周りが穏やかになるように、って。――そして、そのための行動って、たぶんハオリュウの世直しの手伝いをすること、なんだと思うわ」

「あ、ああ……」

「〈ベラドンナ〉だった私は、多くの罪を犯してきたの。ハオリュウを手伝うことで、その罪を償えるかどうかは分からないけれど……。でも、私が初めて殺した『四つ葉のクローバーをくれた男の子』は、身分制度を嫌っていたから……。……私の自己満足にすぎないけど、私の進む道は、これでいいと思うわ!」

 大輪の華が咲き誇るように、ミンウェイが笑う。

 頬にひと筋、朝露のような硝子の雫を落としながら。

「……強がるんじゃねぇよ」

 シュアンの喉から、どすの利いた低い声が響いた。

「確かに俺は、あんたを幸せにする自信はない。けどな、あんたを幸せにしたい、って気持ちはあるんだ」

 他者ひととの交流ふれあいを拒んできた彼が、他者ひととの接触ふれあいに脅えていた彼女を抱きしめる。

 体温には人を癒やす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己われで、どこからが他者かれであるかの境界線を不明瞭にする。

 感情が混じり合い、溶け合い、分かち合っていく――。


「なぁ、ミンウェイ。知っているか?」

「え?」

 知らなかったのは、彼と彼女のふたりだけ。周りは、とっくに気づいていた。

「俺は、ずっと、あんたのことが好きだったのさ」


 運命を断ち切る女神。

 あんたは、俺の枷鎖かさを断ち切ってくれたんだな……。

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