7.運命を断ち切る女神-2
『美女』と『巨漢』が、面会に来ている。
看守たちの会話から得た情報を、シュアンは黙考する。
『美女』という単語に、
鷹刀一族は現在、こと摂政が関わる件に対しては、頭を引っ込める方針を取っている。当然のことながら、一族の中枢に位置する彼女は、派手な行動を控えるべきだろう。――そんな、もっともらしい考察と共に、可能性から排除したのだ。
容姿の美しさでいえば、メイシアが来たのかもしれないが、ルイフォンが最愛の
もし本当に、あの悪ふざけの大好きな女主人の娼館にまで話がいったなら、あるいは調子に乗った彼女らが、ルイフォンを女装させた、という筋書きもあり得る。繁華街の情報屋から仕入れた
情報屋のトンツァイとは、鷹刀一族を通じての縁で少し前から顔馴染みとなっており、極秘情報を格安で売ってくれると言われたので、興味本位で買ったのだが、なかなかよい買い物だった。
ルイフォンが知ったら激怒しそうな妄想に、シュアンは底意地悪く、悪相を歪める。
一方、『巨漢』のほうは、斑目タオロンとみて間違いないだろう。
彼は、ルイフォンが厄介になっている草薙家に、住み込みで働いているから、すぐにも協力を頼める。しかも、いずれはハオリュウの専属の護衛になるつもりであるらしいので、未来の主人のために、ひと肌脱ぐのも道理だ。
シュアンの『斑目一族の指示で、厳月家の先代当主を殺した』という
ならば、襟元につけているという幹部バッジも、
――けど。斑目タオロンは、えらい童顔だったよな?
図体こそ馬鹿でかい巨漢だが、新米看守が、あれほど恐れるような迫力などあっただろうか?
肩車をした愛娘を頭の上に張り付かせ、彼女の笑顔のために全力で走るタオロンの姿を思い出し、シュアンは首をかしげた。
……まあいいさ。それはさておき、だ。
ルイフォンとハオリュウは、どんな策を立てたのだろうか。面会に来た者たちの手引きで、シュアンを脱獄させるつもりなのか?
それは難しいのではないかと、シュアンは内心で眉をひそめる。
体調が万全ではないシュアンは、まともに走れない。老年の看守だけなら、
それとも、斑目タオロンが、その巨体を活かして新米看守を殴り倒し、シュアンを担いで逃げる計画だろうか。
……不可能ではないかもしれないが、ルイフォンとハオリュウが、そんな荒っぽい手段を取るとは思えない。彼らなら、もっと緻密で、確実な策を練るはずだ。
そんなふうに、シュアンが思考を巡らせていると、通路から人の気配が近づいてきた。新米看守が『美女』と『巨漢』を連れて戻ってきたのだ。規則違反に良心が咎めるのか、聞こえてきた「こちらです」という案内の声は硬かった。
シュアンはベッドで寝たふりをしたまま、そっと様子を窺う。
初めに目に入ってきたのは、ぴかぴかに磨き上げられ、黒光りする男物の靴の先であった。しかも、半端なく大きい。
すっと目線を上げれば、綺麗に折り目のついた暗色のズボン。黒に近いが、黒ではない深い色合いが、重厚感を醸し出す。同色の上着は、充分に緩みがあるように見えるのに、胸板の厚さを誇張するかのよう。
そして、
……怖いだろ。
自分の悪人面の凶相を棚に上げ、シュアンは
その男は、間違いなく、斑目タオロンであった。それは、
どうやら、彼を童顔に見せていたのは、体に対して随分と小さな、人懐っこそうな瞳であったらしい。サングラスで目元を隠しただけで、まるで別人であった。『巨漢』がタオロンのことであろうと構えて待っていなければ、にわかには彼だと気づかなかったかもしれない。
――ユイランさんと、その友人の美容師に遊ばれたな……。
シュアンは、以前、自分を『目つきの悪いチンピラ』から『眼光の鋭い切れ者』に変身させた二人組のことを思い出した。
それでは『美女』は、
ルイフォンとハオリュウが必死になって立てたのであろう作戦の
『美女』は、まるでタオロンに付き従うかのように、彼の背後、一歩下がったところに立っていた。恐縮したようなうつむき加減で、彼女の顔の造作は、巨体の影に沈んでしまっている。
そのため、シュアンの目を引いたのは、癖ひとつなく、まっすぐに流れる、長く美しい黒髪――。
薄暗い監獄にありながらも、しっとりと濡れたように
すらりとした肢体にまとっているのは、漆黒と
喉元までを覆う高い襟、くるぶしまでの長い裾。袖も長く、夏向きの
肌の露出が極端に少なく、禁欲的であるにも関わらず、何故だか、豊かな胸元とくびれた腰に目が吸い寄せられた。
不意に、タオロンが、彼女に道を開けるように体をずらした。
彼女の顔が、あらわになる。
そして。
――誰だ……?
三白眼をいっぱいに見開き、シュアンは、ごくりと唾を呑んだ。
高い鼻梁に、切れ長の瞳、薄い唇の面差しは、神の
儚げな清楚さと、匂い立つような妖艶さを併せ持つ、清艷なる美女。
シュアンは、魅入られたように彼女から目を離せない。
……頭の
タオロンが彼女を振り返り、顎でしゃくるようにして前へと促す。その際、低く、彼女の名を呼んだ。
「〈ベラドンナ〉」
まるで、『行け』とばかりの口調は、ルイフォンからの指示だった。『この名で命じる』ことで、シュアンに作戦を伝えるのだと。
しかし、頭の中が真っ白になっていたシュアンには、ルイフォンの意図を解する余裕などあるわけもなく、タオロンから告げられた名前も耳を素通りする。
――なんで、あんたが
彼は混乱していた。
鷹刀一族の者は、今は迂闊に動いてはいけないはずだ。
――駄目だろ。あんたの居場所は、ここじゃねぇ。
彼は、彼女の幸せを祈っている。彼女が『穏やかな日常』を送ることを願っている。
この場所は、彼女には似合わない。自分などに関わったらいけない。彼の周りは、平穏とは正反対なのだから。
「……シュアン。逢いたかった……」
「!?」
麗しの美声が、彼の耳朶を打った。
その瞬間、彼の心に、見えない弾丸が撃ち込まれた。
胸が苦しくなり、掻きむしるように右手で押さえる。
彼女の声が、初めて『緋扇さん』ではなく、彼の名を紡いだ。以前、名前で呼んでほしいと言ったときには聞き流され、
……あんたの声は、そんなふうに、俺の名を響かせるのか。
衝撃に気が遠くなりかけ、それから、心の中で首を振る。
――ああ、違う。これは演技だ。死刑囚に逢いにきた『恋人』の……。
そう思った。
なのに、はっと気づくと、斜に構えていたはずの三白眼が熱くなっている。
愕然とした。
狂犬には、あり得ないはずのことだ。監獄に囚われている間に、体がおかしくなってしまったらしい。
――この俺が……?
彼は唇を噛みしめる。血の味がにじむのは、狂犬の牙で裂いたからではなく、人の歯が傷をつけたからだ。
……分かっているさ。
彼は、心の中で
……俺は、あんたに逢いたかった。……ずっと。
観念したように、そっと認める。
彼女の気持ちは
彼女が一歩、彼へと近づく。
けれど、ふたりは、独房の中と外とに隔てられている。
面会は鉄格子越しだ。新米看守に、そう言い渡されている。だから、彼女は格子と格子の隙間に両の手を差し込み、鉄格子に体を預けるようにして、いっぱいまで近寄った。
がしゃん、と。鉄の音が
「こちらに来て」
魔性の色香の漂う、落ち着いた囁きが彼を誘う。
魅惑の
ゆっくりとではあるが、歩けるようになっていてよかった。そんなことを思いながら、シュアンは、ベッドから降り立った。まるで夢遊病の患者のように、あるいは催眠術を掛けられた被験者のように、彼女に向かってふらふらと惹き寄せられていく。
泣きはらした彼女の顔が、間近に迫った。
震える彼女の指先が伸びてきて、
「こんなに傷だらけになって……、馬鹿でしょう……!」
透き通った硝子のような涙が、彼女の頬を滑り落ちた。『恋人』は演技であるのに、柳眉を逆立てつつも器用に泣いている彼女が不思議で、彼は戸惑い、思わず「すまん」と謝る。
彼女は、嗚咽をこらえるように首を振った。閉じられた瞳から硝子の華が散る。
そして、彼女は彼の背中に手を回し、彼を抱きしめた。
小花と黒真珠の髪飾りが、彼の視界に映り込む。
流れるような長い黒髪から、ふわりと優しい草の香が漂い、彼の鼻腔をくすぐった。いつもの緩やかに波打つ髪ではないけれど、彼女の香りだ。
……だが。
彼女は決して、自分から他人に触れたりしないのだ。ましてや、自分より大きなものに、すがりついたりなどしない。
だから、これは演技。彼女であって、彼女ではない
彼女の柔らかな肉体との狭間に、無粋な鉄格子の硬さが割り込み、彼に現実を忘れさせない。
「……また、逢えるから」
彼女は背中に回した手を離し、今度は背伸びして、無精髭の伸びた彼の髭面を両手で覆った。
「!?」
反射的に体を引こうとしたのは、むさ苦しさに気後れしたからか。それとも、その次の彼女の行動が、許されないものであるという予感があったためか。
けれど、彼女の力は思ったよりも強く、狼狽のぎこちなさの中にいた彼は、逃げ切ることができなかった。
乾いた彼の唇に、彼女の淡い唇が重ねられる。
しっとりとした弾力に
その瞬間。
彼女の切れ長の瞳が切なげに細められ、不自然に頬が歪んだ。彼女が奥歯を噛み締めたことを、触れ合った唇から、彼は振動で感じ取る。
――何を……?
そう思う間もなく、彼の口腔に、どろりとした液体が流し込まれた。
唾液……ではない。唾液に溶かし込まれた……。
――毒、だ。
このときになって、ようやく彼は悟る。
いつもと違う彼女の装いは、毒使いの暗殺者〈ベラドンナ〉の姿だ。
毒に慣らされた彼女の体は、口移しの毒に侵されることはない。だから、奥歯に毒を仕込んで彼のもとに現れた。
ベラドンナは、可愛らしい紫色の花を咲かせ、毒性を持つ黒紫色の実をつける植物。彼女の髪を飾る小花と、黒真珠がそれを示している。
イタリア語で、『美しい貴婦人』。
そして、『アトロポス』という学名は、『運命を断ち切る女神』を意味する。
彼女のまとう漆黒に近い紫紺のドレスは、喪服なのだ。
――ああ、そうだな。俺は、あんたがくれる
穏やかな三白眼で彼女を見つめ、まるで首肯するかのように、シュアンは、こくりと嚥下した。
面会人の『美女』と『巨漢』が帰ってから数時間後、老年の看守は、緋扇シュアンの独房を訪れた。
あのあと、シュアンはおとなしくベッドに戻り、いつものように眠っていた……ように見えた。
「おい、緋扇」
老年の看守は声を掛ける。
しかし、反応はない。
彼は鉄格子の扉の鍵を開け、中に入る。
「俺が散々、忠告してやったのによぉ。あっさり、お陀仏かよ」
緋扇シュアンの死亡を確認し、看守は、つまらなそうにぼやいた。
二日ほど前――。
馴染みの酒場で飲んだくれていた老年の看守の前に、斑目一族の幹部だという、巨漢が現れた。可愛がっているという舎弟をひとり連れていて、「こいつの話を聞いてやってくれ」と切り出してきた。
儲け話が転がり込んできたと、彼の心は下卑た笑みを浮かべた。
用があるのは、本当は舎弟ではなく、大物幹部の巨漢のほうだ。『部下が勝手にやったこと』にしたほうが都合がよいために、舎弟に喋らせるだけなのだ。
巨漢に代わり、前に進み出たのは、長髪を背中で一本に編んだ、猫毛の小僧だった。サングラスで顔を隠していても、まだ十代の餓鬼なのは明らかだった。
「!」
それには、看守と麻薬の密売人が、仲良く談笑をしている姿が写っていた。彼は青ざめたが、小僧はさっと端末をしまうと、写真については、ひとことも触れずに話を始めた。
「お前の勤めている監獄に、緋扇シュアンという死刑囚がいるだろ? 警察隊員だった、人相の悪い男だ」
小僧によれば、緋扇シュアンには虚言癖があり、逮捕されて以降、嘘の証言ばかりをされて、斑目一族は迷惑している。早く処刑してほしいのだが、なかなか執行されずに困っている、とのことだった。
それを聞いて看守は、ぴんときた。
緋扇シュアンは、斑目一族にとって痛手となるような証拠を握っているのだ。だから、上層部によって生かされているというわけだ。
罪状からすれば、とっくに処刑されていても不思議ではないのに、いまだに刑の執行日が決まらないばかりか、前の監獄で受けた傷の治療まで受けているので、おかしいと思っていたのだ。
「だからよ。俺たちは、緋扇のために〈ベラドンナ〉という名前の恋人を呼んでやったんだ。面会を許可してくれないか?」
「〈ベラドンナ〉……!」
十数年前に忽然と姿を消した、今となっては伝説の毒使いの暗殺者だ。美しい少女であったとの噂だが、真偽のほどは定かではない。
若い者は知らないだろうから、この小僧も人づてに聞いたのだろう。死んだものと思われていたが……。いや、名前を騙っているだけの偽物かもしれない……。
そんなことを考えていると、小僧が続ける。
「緋扇は、恋人に逢った日の夕方、死亡する。ただし、死因は『すっ転んだ拍子に、もともと折れていた肋骨が運悪く肺に突き刺さって、死亡』だ」
「なっ!?」
「駆けつけた医者が、ちゃあんと調べるさ。まぁ、いつも緋扇を見ていた医者は、前々から予定されていた大きな手術の執刀中で来られないけどよ?」
小僧の口角がにやりと上がる。
話の途中では一切口を出さなかった巨漢も、最後にひとこと「そういうわけだ」と、重々しく頷いた。そして、分厚い手をそっと彼の肩に載せる。
その瞬間、彼は心臓が止まるかと思った。しかし、冷静に考えて、たいした危険もない、実にうまい話だ。故に、二つ返事で引き受けた。
冷たくなった緋扇シュアンのために、老年の看守は医者を呼ぶ。
彼としては『暗殺者が来るぞ』と教えてやっていたつもりだった。
それは、シュアンを案じてのことではない。〈ベラドンナ〉が失敗すれば、もう一度、あの巨漢に協力してやることで、更に
彼は、少し残念に思った。
それだけのことであった。
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