5.死せる悪魔の遺物-1

「改めまして。どうか、僕に力を貸してください」

 クーティエに案内され、草薙家の玄関口に現れたハオリュウは、開口一番、そう告げた。

 異母姉メイシアと同じ黒絹の髪をなびかせ、深々と頭を下げる。風が巻き起こり、その場の空気が変わった。

「ハオリュウ……」

 出迎えたルイフォンは、軽い困惑を覚えた。もともと、年齢不相応の雰囲気をまとうハオリュウであったが、久しぶりに会う彼は、風格とでも呼ぶべきものが以前とはまったく異なっていた。そう感じたのはルイフォンだけではないようで、メイシアもまた黒曜石の瞳をまたたかせている。

 そんな彼らの背後から、この家のあるじであるレイウェンが声を掛けた。

「ともかく、家の中に入ってください。いろいろと話すことがおありでしょう?」

 刹那、ハオリュウの顔に緊張が走る。心なしか背筋が伸び、それから再び、彼はこうべを垂れた。

「レイウェンさん。あなたの大切なお嬢さんを僕に遣わせてくださり、誠にありがとうございました」

 そのひとことに、レイウェンがわずかに表情を変える。

「……貴族シャトーアが、そんなに軽々しく平民バイスアに頭を下げるものではありませんよ」

「ですが……」

クーティエが、あなたのもとに行きたいと言った――それだけです」

 レイウェンの声色は、いつも通りに甘やかでありながらも、感情を抑えたような素っ気なさがあった。

 疑問に思ったルイフォンが素早く振り返ると、レイウェンは既にきびすを返し、廊下を奥へと歩いている。その行き先は応接室ではなく、この家の食堂であり、広い肩はどこか安堵したように柔らかに落とされていた。



 そのままの流れで皆で食卓を囲むと、食欲を刺激する匂いと共に、台所からシャンリーが現れ、ハオリュウの前に丼と汁椀を置いた。目を丸くする彼の背中を、彼女は豪快に、ぱしんと叩く。

「昼間、王宮から帰ってから、何も口にしていないんだろう? まずは食べろ。何ごとも、体が基本だ」

「シャンリーさん……。ありがとうございます」

 ハオリュウが礼を述べると、シャンリーは「いやいや」と、照れたように首を振る。

「私はさっきまで、タオロンの代わりにファンルゥの添い寝をしていたからね。残り物に軽く手を加えただけだ。――けど、味は保証するよ。空きっ腹のハオリュウには、なんだって美味いはずだからな」

 男装の麗人とうたわれる美麗な顔で、シャンリーは男前に笑う。

 続いて、人数分のお茶を運んできたユイランが、にこやかに付け加えた。

「シャンリーは、ハオリュウさんの元気が出るように、特別なスパイスを効かせたのよ。どうぞ、召し上がって。――これから、緋扇さんのために、頑張らないといけないものね」

 外見的には『品のよい銀髪グレイヘアのご婦人』であるのだが、やはりユイランも鷹刀一族の女である。言葉の端に好戦的な色合いが見え隠れしていた。これから、皆でシュアンを助けようという意気込みだ。

 温かくも力強い光景に、ルイフォンも負けじと口を開く。

「ハオリュウ。この数時間で、俺が調べたことを説明するから、お前は食べながら聞いてくれ」

 猫の目を光らせ、彼は朗々とテノールを響かせた。

 そして――。

「……おい? ハオリュウ?」

 出された食事を綺麗にたいらげたところで、ハオリュウは崩れ落ちるように眠りに落ちた。昼間からの緊張から解放され、どっと疲れが出たのだろう。

 ルイフォンが納得したそのとき、シャンリーが小さく呟いた。

「やっと効いてきたか。今まで、相当、気が張っていたんだな」

「へ? シャンリー?」

 何か聞き間違えたかと、きょとんとするルイフォンに、シャンリーがにやりと口角を上げる。

「ユイラン様がおっしゃっただろう? ハオリュウが元気になるように、私が『特別な睡眠薬スパイスを効かせた』って。――食事と睡眠。今のハオリュウには、どちらも必要なものだからな」

 胸を張って答える彼女に、ルイフォンが口をぱくぱくさせていると、娘のクーティエが食って掛かった。

「ちょ、ちょっと、母上! ハオリュウに勝手なことをしないでよ!」

「私が、シャンリーに頼んだんだよ」

「父上!?」

「ハオリュウさんとしては、今晩にだって緋扇さんを助け出したいところだろう。けど、今の緋扇さんは、自力で動くことすらままならない重傷者だ。――ならば、ハオリュウさんは、まず、しっかりと休息を取って、明日から行動を開始すべきだよ」

 違うかい? という、有無を言わせぬ口調に、クーティエは「うぅ……」と押し黙る。

 それから、レイウェンはルイフォンに視線を移した。

「ルイフォン。悪いけれど、ハオリュウさんを客間に運んでくれないか。私が運ぶと、彼の矜持プライドを傷つけそうだからね」

「え……、そりゃあ、構わねぇけど……」

 レイウェンとハオリュウの関係は、なかなか複雑なものらしい。

 含みのある物言いに眉を寄せていると、レイウェンはルイフォンの近くまで寄ってきて、耳元に低い声を落とした。

「君の義弟おとうとは、遠くない将来、私に決闘を申し込みに来るよ」

「!?」

「そのうち、楽しい話が聞けそうだ」

 ちらりと。ハオリュウを見やりながら、レイウェンは口元を酷薄に歪める。

 不穏な眼差しは、ハオリュウに向けられたもので間違いはなかったのだが、ルイフォンの背筋に、ぞくりと悪寒が走った。

 低音の言葉は、他の人には聞こえないよう充分に配慮されたものであった。だから、食堂を出る際、レイウェンのもとにやってきたメイシアは、まるで聖人君子を前にしたかのように澄んだ瞳を潤ませ、薄紅の唇を感激に震わせた。

「レイウェンさん。異母弟おとうとのために、何から何まで、本当にどうもありがとうございます」

 丁寧に腰から体を折り、黒絹の髪の先が床に付きそうなほどに深々と頭を下げられると、さすがのレイウェンも、どこか気まずげな微笑を浮かべたのだった。



 ハオリュウを背負ったルイフォンは、クーティエの案内で客間へと向かった。

 彼の背後には、心配顔のメイシアが、ぴたりと張りついている。意識のないハオリュウは完全に脱力しているため、時々、ずるりと背中から落ちそうになるのだ。そのたびに、彼女が小さく息を呑むので、ルイフォンは困ったように苦笑を漏らした。

「大丈夫だよ。バランスは崩しても、落としたりはしない。これでも、最近、鍛えているからさ」

「あ、うん。……ごめんなさい」

「別に謝ることじゃないだろ。けど、まぁ。思っていたよりも重いし、随分、背が伸びたな」

 初めは抱え上げて運ぼうと思ったのだが、無理だったのだ。出会ったばかりのころは、メイシアとたいして変わらない背丈だと思っていたのに、急に成長したものである。

「そういえば、お前が初めて鷹刀の屋敷に来た日。食堂で酔いつぶれたお前を、俺が部屋まで運んだんだっけ?」

 あのときは、メイシアを抱きかかえていったよな、などと思い出し、ルイフォンは懐かしさに目を細める。ふと気づけば、後ろを歩いていたはずのメイシアが、いつの間にか傍らにいて、彼女は恥ずかしげな上目遣いで、けれど、頬を薔薇色に染めながら「うん」と頷いた。

 そのとき。

 先導のクーティエが「ルイフォン、メイシア」と、硬い声で振り返った。

 ルイフォンは反射的に身構えた。『何を呑気な会話をしているのよ!?』と、噛みつかれると思ったのだ。しかし、それは間違いだった。

「あ、あのねっ! ハオリュウの話をちゃんと聞いてほしいの!」

 強気な口調でありながら、切羽詰まったような懇願の表情。

「へ……?」

 予想外の言葉に、ルイフォンは間抜けな声を上げた。

「さっき、ハオリュウが車から電話したとき、言っていたでしょ。『摂政殿下に対抗するために、僕は〈天使〉になることを考えています』って」

「あ、ああ……」

 聞いた瞬間、なんと突拍子もなく、無茶苦茶なことを考えやがるんだ、とルイフォンは思った。

 奇想天外な発想ではあるものの、『貴族シャトーア平民バイスアを両親に持つ僕なら、安定した〈天使〉になれます』などと分析しているあたり、冷静さを失っているわけではないのは分かる。だが、いくらなんでも無鉄砲すぎるだろう。

 移動中であったため、話が途中になってしまったのだが、ルイフォンとしては、却下を言い渡すつもりだった。勿論、メイシアも同意見である。

 今はハオリュウが寝ているし、この件は明日、改めて――と言おうとしたルイフォンに、クーティエが愛用の直刀が如く、まっすぐな視線で斬り込んできた。

「ふたりが反対なのは分かっているわ。私だって、ハオリュウに〈天使〉になってほしくない。――でも、頭ごなしに否定しないでほしいの。ハオリュウは、皆が幸せになるように、って、ぎりぎりの方法を採ろうとしているんだから……!」

「――と、言われてもな……」

「反対するなら、別の案を出してよ!」

 きっ、と目をとがらせて言ってから、クーティエは我に返り、「ごめんなさい」と呟いた。

「私も、本当は嫌なの。でも、ハオリュウの決意を聞いちゃったから。……他に方法がないのなら、私は全力で彼の手助けをする。そう決めたの」

「クーティエ?」

「だから、ルイフォン。……お願い! 『緋扇シュアンを助けるための名案』を思いついて……」

 細い声が震える。切なげな瞳が映すのは、ルイフォンではなく、彼に背負われたハオリュウだ。

 ルイフォンの口の中に、苦さが混じった。情けなくて、不甲斐ないが、嘘を言うわけにもいかない。ルイフォンは「すまん」と、目線を下げる。

「正直なところ、まだ名案は浮かんでいない。裏から手を回す方法なら幾らでも思いつくけれど、シュアンをお尋ね者にしないためには、摂政を黙らせる必要がある。そこが難点ネックだ」

「……っ」

 クーティエの眉が、悲壮に歪んだ。しかし、ルイフォンは、追い打ちをかけるように続けた。

「けど、だからと言って、〈天使〉になるのだって、簡単なことじゃない。確か、神殿に行かないと駄目なんだろ?」

 ルイフォンは、傍らのメイシアに尋ねる。

 以前、彼は、彼女が知らぬ間に〈天使〉にされているのではないかと、心配したことがあった。そのときに、セレイエの記憶を持つメイシアは、こう説明してくれたのだ。


『〈天使〉化するためには、〈冥王プルート〉が収められている神殿まで行かないと駄目なの。だから、私は〈天使〉になってない、って断言できる。――安心して』


 神殿の警備は、厳重だ。おいそれと入れるような場所ではない。だから、ハオリュウの〈天使〉になるという案も、現実的ではないのだ。

 ルイフォンに水を向けられたメイシアは、「あのね、クーティエ」と、申し訳なさそうに眉を寄せた。クーティエの心情こころを思うと、気が重いのだろう。

「ルイフォンの言う通り、〈天使〉になるには神殿に行く必要があるの。光のたまの姿をした〈冥王プルート〉から、光の糸を分け与えられ、『羽』とすることで〈天使〉となる。だから……」

 メイシアがそこまで言ったとき、不意にクーティエが、ぐいっと一歩。身を乗り出してきた。

「神殿に入れれば、〈天使〉になれるの?」

「え?」

 妙な迫力で食らいついてきたクーティエに、メイシアがたじろぐ。

「ハオリュウは『例えば〈天使〉化に何日も掛かったりするのだったら、別のを考えないといけない』って言っていた。でも、神殿に入れさえすれば、〈天使〉化そのものは、すぐに可能なの!?」

 正直に答えて――と。クーティエの眼差しが、鋭く訴える。

 ルイフォンの胸に、警鐘が鳴り響いた。メイシアの黒絹の髪が揺れ、ハオリュウを背負った半袖の腕に掛かる。惑うような黒曜石の瞳が、こちらを見上げていた。

 憂いを帯びた花のかんばせに、ルイフォンは奥歯を噛みしめる。……しかし、彼は、ゆっくりと首肯した。

 クーティエを相手に、情報を隠すのは卑怯だ。

 その思いは、メイシアも同じだったのだろう。険しい表情ながらも、凛と澄んだ戦乙女の声が響く。

「〈冥王プルート〉の置かれている『光明の間』と呼ばれている部屋に行くことができれば、誰でも苦労せずに、すぐに〈天使〉になれる。そのための仕掛けを、セレイエさんが遺していったの」

 クーティエの喉が、こくりと動いた。

「じゃあ、ハオリュウが〈天使〉になるのは可能、ってことね。私が神殿に手引できるから。――私、奉納舞の舞姫のひとりに選ばれたのよ」

「奉納舞の……舞姫?」

 唐突に告げられた言葉に、ルイフォンはおうむ返しに語尾を上げた。

「のびのびになっている、女王陛下の婚約の儀の舞い手のことよ」

「あ、ああ……」

 初耳であったが、とても『おめでとう』と言える雰囲気ではなく、ルイフォンは冴えない相槌を返すことしかできない。

王族フェイラの儀式は神殿が取り仕切るから、舞い手は神殿の所属ということになるのよ。だから、私は神殿に出入りできる許可証を持っているわ」

「!」

「私、舞姫になって、神殿に通うようになって――、そこに『〈冥王プルート〉』と呼ばれるものがあることを本能で感じたわ」

 敵意のような、殺意のような色合いで、クーティエの瞳が、ぎらりと光った。

「初めて神殿に入ったとき、ぞわりと肌が粟立った。でも、同じく舞い手として一緒にいた母上は平気なのよ。私よりも、よっぽど気配に敏感なのに。おかしいと思って、家に帰ってから父上と母上に相談したら、父上が、もしやと思って、曽祖父上に訊いてくれたの」

 クーティエの曽祖父とは、すなわち、鷹刀一族総帥イーレオのことである。思わぬ名前が出てきたものだと、ルイフォンが目をまたたかせると、クーティエが更に意外なことを告げた。

「そしたらね、昔、〈悪魔〉として神殿に出入りしていた曽祖父上にも、覚えがあるって。あれは、〈冥王プルート〉が鷹刀の血を持つ者を喰らおうとしている気配だ、って」

「!?」

「私は生粋の鷹刀じゃないけれど、鷹刀の血を引いている。だから、母上は何も感じなくて、私だけが反応したの」

 毅然と告げてから、クーティエはぎゅっと口を結び、かぶりを振った。伝えたいことをうまく表現できず、かえって大袈裟に言い過ぎたかと後悔したのだ。

「だから何って、わけじゃないわ。でも、〈冥王プルート〉が――死んだ王様の脳から生まれたなんていう、おとぎ話のような『もの』が、この国には確かに存在するの。……私には、細かい理屈なんて分からない。けど、この国はどこか歪んでいる。おかしいと思う」

 クーティエは、胸元で拳を握りしめた。そして、直刀の瞳でルイフォンとメイシアを、眠ったままのハオリュウを見つめる。

「ハオリュウは、この国の未来を変えてくれる。――私は、そんな彼の力になりたいの」

 祈るような声が、静かに響いた。

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