4.絹糸の織りゆく道-4
タオロンの運転する車は、漆黒の闇を滑るように走り抜け、草薙家へと到着した。
洒落た門扉の前で、ハオリュウ、クーティエ、ユイランの三人が降り、タオロンは裏手にある車庫へと、そのまま運転していく。
「ハオリュウさんが着いたことを、皆に知らせてくるわね。ハオリュウさんは、クーティエと一緒に、ゆっくり登ってきてくださいね」
門を開けるやいないや、にこやかにユイランが告げた。
草薙家のアプローチは、そこそこの距離の緩やかな勾配になっており、足の悪いハオリュウには少々、不親切な造りである。だから、ユイランは『ゆっくり』と言った――のではないことは、クーティエには分かっていた。
幾つになっても乙女心を忘れない祖母は、『ふたりきりの夜道なんて、
クーティエの顔が、ぼっと赤らみ、いやいや、今は浮かれている場合ではないのだと、慌てて首を振る。その間に、心身ともに年齢よりも、ぐっと若い
嬉しいけれど、複雑な思いで、クーティエは後ろを振り返る。
「ハ、ハオリュウ。暗いから、気をつけてね」
……声が上ずった。
今晩は雲が多く、月も星も隠されている。庭の外灯には、たいした光度はなく、だから足元が悪い。だが、代わりにクーティエの顔の紅潮は、ハオリュウにばれていないだろう。
そんなことを考えていると、彼が瞳を
「道が光っている。……これは、いったい?」
ハオリュウが指差したのは、アプローチの両端の
「あ、そうか! ハオリュウは、初めて見るのよね?」
草薙家のアプローチは、小洒落た仕掛けになっているのだ。
「あのね。このアプローチは、昼間は全部、同じような白い石が敷き詰められているように見えるんだけど、本当は
「へぇ……、凄いね」
「うん。父上の
その瞬間、ハオリュウが小さく息を呑んだ。
そして、低く呟く。
「レイウェンさん……。……闇に囚われた人に、道を示す――か」
「ハオリュウ?」
「レイウェンさんには、すべてお見通しだったのかもしれないな。……だから、僕のところにクーティエを送り出してくれたんだ」
溜め息のように漏らし、ハオリュウは苦笑した。
涼風が彼の前髪を巻き上げ、わずかな外灯の光でも、彼の顔を明るく照らした。
「クーティエ……、弱音を吐いてもいいかな?」
「えっ!?」
見栄っ張りで、意地っ張りなハオリュウの口から、『弱音』などという信じられない単語が
「僕は、レイウェンさんに『決闘を申し込む資格すらない』と言われているんだ」
「ど、どういうこと? なんで、ハオリュウが父上と決闘するの!?」
「『顔を洗って、出直してこい』とまで言われている」
ハオリュウはクーティエの質問には答えずに、一方的に言葉を重ねた。どうやら、説明する気はないらしい。
「僕は、レイウェンさんに認められたい」
「はぁ? いったい、どうしたのよ……?」
次から次へと突拍子もない言葉が飛び出してきて、その意味不明さに、クーティエは
ハオリュウは、そんな彼女に目を細め、それから視線を庭に移した。鮮やかな緑の木々は夜闇に溶け込み、ざわざわという葉擦れの音だけが聞こえている。
「風が……気持ちいいね」
「え?」
「僕は、自由な風に
ざわめきを抱きしめるように両手を広げ、ハオリュウは
彼の語る言葉は謎めいていて、彼女には脈絡なく聞こえる。けれど、吐露するような口調が切なくて、彼の懸命な叫びなのだと、なんとなく理解した。
すぐそばにいても、彼女の知らない
彼は軽く目を
彼女はただ、じっと彼の横顔を見守る……。
やがて、ハオリュウは静かに切り出した。
「女王陛下との婚約について、あなたに話しておきたいことがある」
「!」
クーティエの心臓が跳ね上がった。
彼女の顔は一瞬にして凍りつき、呼吸が止まる。耳朶を打つ木々のざわめきも、肌をそよぐ風の気配も、まるで感じられなくなった。
ハオリュウが振り返る。
正面から目が合うと、クーティエの鼓動は余計に早まった。しかし、次に彼が発した語句は、彼女の予想とは、まるで見当違いの方向からのものであった。
「実のところ、正式に結婚するまでの間に、破談になると思っている」
ハオリュウは真顔だった。
「は……?」
クーティエの頭は状況を理解できず、ただ呆けたように彼の顔を凝視する。優しげで、誠実そのもので、誰からも親しみをもって迎えられるような、柔和な面差しだった。
……だが、その大真面目な表情が、実は、裏では腹黒な策略を巡らせている顔であることを――彼女は知っている。
「だって、女王陛下は、この国の頂点に立つ女性だよ? そんな綺羅の化身のような方が、どうして僕みたいな
「え……?」
ハオリュウの台詞は疑問の形で終わっていたが、クーティエは何も答えられなかった。皮肉の効きすぎた彼の語句に、思考が停止したのだ。
「たとえ
「へっ!? なんで、そこで父上が出てくるの!?」
いきなり話が飛躍した……ような気がする。わけが分からず、クーティエは素っ頓狂な声を張り上げる。
「クーティエの周りで一番、美しくて聡明な
ハオリュウは『自分よりも優れた者』として、レイウェンの名を挙げたのであるが、そこに密やかな対抗意識があることに、クーティエは勿論、気づいていない。純真な彼女は、大真面目に女王の隣に立つ叔父の姿を思い浮かべ、ぶんぶんと首を振った。
……あり得ない。
そんなクーティエの挙動を不思議そうに見つめつつ、ハオリュウは「ともかくさ」と続ける。
「僕が婚約者になったら、陛下はきっと僕などには目もくれず、『相思相愛の運命の相手』を探すべく、奔走なさることだろう。間違っても、僕なんかと結婚しないためにね」
人畜無害な善人面で、ハオリュウは無邪気に笑う。
優しげで、温厚そうな彼の笑顔を、クーティエは穴のあくほど見つめ……、ようやく合点がいった。
「……なるほど。……そういうことね」
彼は、女王に嫌われるつもりなのだ。
何をやらかす気なのかは不明だが、彼ならば立派に
「そもそも、僕との婚約期間は、陛下にとっては『真の相手』を見つけるための猶予期間だ。陛下には、なんとしてでも、ふさわしい相手を見つけていただくよ」
はっきりと告げたハオリュウに、クーティエは緊張から一気に脱力した。がくがくと膝が笑い出し、へたり込みそうになるのを必死に
彼が女王の婚約者を引き受けたと聞いても、平気なつもりだった。
ざわめく葉擦れと共に、しなやかな彼の声が流れてくる。
「
ハオリュウは風と
すっと口角を上げ、夜闇の中に、きらりと絹の光沢を放つ。
「だから、僕は、婚約者を引き受けざるを得ない状況に追い込まれたときには、ありがたく、陛下を利用させていただくことにしようと――密かに、
「は? ちょっ、ちょっと、ハオリュウ! 女王陛下を『利用する』って!?」
「単に、恩を売るだけだよ。僕なんかと結婚しないですむことに感謝の念を
「なっ!? なんですってぇ!」
爽やかに言い放ったハオリュウに、クーティエの甲高い声が突っ込む。
そのとき、彼女は、はっと思い出した。彼は以前にも、『女王を利用する』と言ったことがあるのだ。
それは、彼が初めて草薙家を訪れたときのこと。レイウェンの服飾会社が女王の婚礼衣装の製作を請け負えば、女王にあやかりたい人々に対して、よい宣伝になると話を持ちかけてきたのだ。
唖然とするあまり、声も出せずに口をぱくぱくとさせていると、「クーティエ」と、静かな声で呼ばれた。
「前にも言ったと思うけど、
「……!」
どういう反応を返せばよいのか、クーティエには分からなかった。だから、ただ唇を噛んだ。子供っぽいかもしれないけれど、それしかできなかった。
「婚約者の件について、カイウォル殿下の話しか聞いていないから、女王陛下ご本人が、どう考えてらっしゃるのかは分からない。ついでに言えば、婚約が破棄された場合、殿下が本当に約束通り、僕に不利なことはないよう計らってくださるという保証もない。殿下を全面的に信用するのは危険だ」
「――うん」
「ただ、どう考えても、女王陛下は僕との結婚を望んでいないだろう。彼女に
「そう……だったんだ……」
闇を従えるように笑うハオリュウに、クーティエは相槌を打つ。でも、これは、ただの合いの手で、決して同意などではない。彼を取り巻く環境は理不尽で、どこか歪んでいる。……それが悔しくてたまらない。
「――なのにね」
握りしめた拳は、どこに振り下ろせばいいのか。惑うクーティエの思考を、ハオリュウの声が遮る。
「いざ、カイウォル殿下に承諾のお返事をしようとしたとき、僕の中に、殿下への激しい憎悪が生まれた。覚悟の上で殿下にお会いしたはずなのに、そんなことは、すっかり忘れていた」
カイウォルへの激情を示すかのように、ハオリュウは自分の胸元を鷲掴みにした。
しかし、そこで急に、彼の雰囲気が、がらりと変わった。
「そして、風に舞う、『森の妖精』の幻を見たよ」
「――!」
澄んだ響きに、クーティエは息を呑む。
ハオリュウは、彼女のことを何故か『森の妖精』と呼ぶ。歯の浮くような台詞を平然と口にするのは、さすが
「そのときになって初めて、僕は自分が何を望んでいるのか、気づいた。――僕は『あなたのそばに居られる自由』が欲しいんだ」
喉が熱くなり、クーティエの瞳から涙が
自分がどうして泣いているのかなんて分からない。ただ、ハオリュウのせいであることは間違いない。――彼が、そばに居るからだ。
「
ハオリュウは、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「……なんてことを、いきなり言うのは卑怯だね。腹の底で勝手に未来を描きながら、僕は、ひとことだって、あなたに言葉を贈ったことはなかったんだから。約束できる立場ではないからと、自分に言い訳をしてさ。今更だ。ごめん」
「う……、ううん……」
クーティエは、嗚咽混じりの声で首を振る。
ハオリュウはいつだって、彼女の想いに真摯に向き合ってくれていた。
ただ、自分の想いを言霊にすることだけは、
無論、寂しくはあったけれど、見栄っ張りで意地っ張りで、確実と完璧を求める彼らしい態度だと
「……僕が、動揺と困惑で心を乱している間に、カイウォル殿下は『ライシェン』の居場所を鷹刀一族から聞き出してくるようにと命じられた。そして、気づいたら、シュアンが人質として囚われていた」
怒気をはらんだ声で、彼は告げる。
「僕は、カイウォル殿下を許さない」
「ハオリュウ……」
彼が再び暴走してしまわないかと、クーティエは不安になった。だが、彼は、ふっと目元を和らげた。
「でも、おかげで、僕が
「え?」
ハオリュウは、遠くを見据えるように胸をそらした。
まるで彼に付き従うかのように、風が舞い上がる。涼やかに裾が広がり、淡い電灯の
「僕は、この国から身分というものをなくそうと思う」
ざわめく葉擦れを押さえ込み、力強い声が響く。
「
闇に向かって宣告し、彼はクーティエを見つめる。
「それはきっと、シュアンがずっと言い続けている、世直しというものと同じだと思う。――僕は彼と運命を共にする。そして、あなたのそばに居られる自由を手に入れるよ」
上品な口の端がすっと上がり、闇を秘めた瞳が挑戦的に細まる。
柔らかに頬のほころんだ、優しげな面差しであるにも関わらず、ぞくりとする微笑だった。
「ハ、ハオリュウ!?」
とんでもないことを聞いた気がする。
――否。『聞いた気がする』のではなくて、現実として、とんでもないことを『聞いた』のだ。
「そ、それは、凄いけど、そうなったらいいと思うけど……。嬉しいんだけど、あまりにも壮大すぎて、現実味がないというか……。ああ、違う! そうじゃなくて!」
支離滅裂だ。
クーティエは、自分でも何を言っているのか分からない。だが、重要なことに気づいたのだ。
「それって、『革命』っていうんじゃないの!?」
口にした瞬間、全身から、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。
万が一、誰かに聞かれていたら、不敬罪で捕まる……どころではない。問答無用で極刑だろう。
だのに、ハオリュウは、とても綺麗な顔で笑った。
「そうだね、革命だね。僕は、反逆者になるね」
軽やかに浮かれた声が、風に溶けるように流れる。
「ハオリュウ!」
「分かっているよ。それが、大それた罪だということくらい。……勿論、すぐには無理だ。おそらく、僕の一生を懸けて
ハオリュウは凛と言い放ち、クーティエへと手を伸ばした。
「クーティエ。僕の手を取ってほしい」
「……っ」
声にならない息が、息にすらならない音が、口から
――心が、震えた音だ。
本当に、とんでもない人を好きになってしまったものだと、クーティエは思う。けれど困ったことに、そんな彼から目が離せない。今まで以上に、惹かれてしまうのだ。
差し出された掌に、クーティエは迷うことなく掌を重ねる。すると、ハオリュウは、上流階級の令嬢に対するかのように、そっと彼女の手を包み込んだ。
決して触れてはならないと思っていた人の体温が、直接、伝わってくる。
想像よりも、ずっと大きくて硬い手にどきどきしていると、彼は思わぬことを口にした。
「姉様が、初めて草薙家を訪れた日。サンプルの花嫁衣装を着た姉様を、ルイフォンが抱き上げて階段から降りてきたと聞いた。その様子を、あなたが羨望の眼差しで見つめていたと、教えてもらった」
「えっ? そんなこともあったかな……? ――って、誰に教えてもらったのよ!?」
ただでさえ、心臓が暴れまわっていて大変なのに、更に、どきりとすることを言われ、クーティエは噛み付くように叫んだ。
しかし、彼は、ほんの少し視線をそらして誤魔化し、話を続ける。
「足の悪い僕は、あなたを抱きかかえて連れて行くことはできない。――だから、どうか、僕と手を繋いだまま、隣で一緒に歩いてほしい。そして、僕がまた、暴走しそうになったら止めてほしい。あなたがいれば、僕は大丈夫だ」
「!?」
ハオリュウの言葉は、
クーティエは微苦笑を漏らした。そして、それは、やがて満面の笑顔となる。そんなところも含めて、ハオリュウだと。
「勿論よ!」
元気な彼女の声に、彼の口元もほころぶ。
「ありがとう」
「ううん。こちらこそ!」
頷き合い、どちらからともなく前を向いた。
「僕たちの革命のために。まずは、シュアンを取り戻す!」
ハオリュウが宣誓する。
ふたりは肩を寄り添わせ、光の
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