1.波紋の計略-3

 カイウォルの言葉が、ぐるぐると脳裏を渦巻き、ハオリュウは目眩めまいを覚えた。

貴族シャトーアの令嬢であった君の姉君と、薄汚い凶賊ダリジィンの男が、どのようにして出逢ったのかは存じません。しかし、事実として、メイシア嬢は、鷹刀一族総帥の庶子、ルイフォンと恋仲でした」

 微笑みを絶やさぬまま、奈落ブラックホールのような黒い瞳が、じっとハオリュウを捕らえた。抗うことのできぬ、重力が如き威圧に、ハオリュウは戦慄する。

「この春、縁談の持ち上がったメイシア嬢は藤咲家を飛び出し、鷹刀一族の屋敷に逃げ込んだそうですね。藤咲家は『メイシア嬢が誘拐された』と、警察隊に出動を要請し、彼女を取り戻したとか。――その現場に、ハオリュウ君、君もいたと聞いていますよ」

「……」

 警察隊が鷹刀一族の屋敷を取り囲んだとき、ルイフォンとメイシアは、まだ本当は恋仲ではなかった。けれど、窮地に陥った鷹刀一族を救うため、メイシアはルイフォンに口づけた。

 そのとき、ハオリュウも、異母姉あねの計略の成功に一役買った。彼女に話を合わせ、あたかも、ふたりが以前からの恋人同士であるかのように振る舞ったのだ。

 あまり外聞のよろしくない一幕であるため、ハオリュウとしては金に物を言わせてでも、闇に葬り去りたかった出来ごとである。しかし、衆人環視の中でのこと、人の口に戸は立てられぬ。故に、彼は、この件を異母姉あねを『死者』にするための理由付けに利用した。

 すなわち。

 結局、身分違いの恋は引き裂かれ、無理やりに終止符を打たれた。そして、叶わぬ想いに悲観したメイシアは、渓谷に身を投げた――と。

 カイウォルは、ハオリュウが捏造した『メイシアの死にざま』を含み置いて、鷹刀一族は『君にとって、因縁深い相手』だの、『メイシア嬢を自殺に追い込んだ男の一族』などとののしったのだ。


 だが、カイウォルは、メイシアが本当は生きていることを知っている。


 彼女がルイフォンのもとにいることは調べてあるだろうし、そのようにハオリュウが手を尽くしたことにも気づいている。

 ならば、ハオリュウが、鷹刀一族と懇意にしていることも分かっているはずだ。

 そう思った瞬間、先ほどのカイウォルの言葉が蘇る。


『君ならば、彼らと接触することは可能でしょう?』


 ハオリュウは短く息を呑んだ。

 カイウォルが、ハオリュウを手駒にと望んだのは、鷹刀一族に近づけるからだ。

 大華王国一の凶賊ダリジィンである鷹刀一族は、なかなかに厄介な相手だ。正面から切り込むのは難しい。

 だから、からめ手で攻めることのできる、ハオリュウを欲したのだ。

 女王の婚約者という地位を提示したのは、いろいろと都合がよかった、くらいの理由なのだろう。

 ハオリュウの気づきを裏付けるかのように、カイウォルが告げる。

「ハオリュウ君。『私たち』が『ライシェン』を取り戻すために、鷹刀一族に探りを入れてください」

 涼しげな声に、ハオリュウの心が毛羽立けばだつ。

 けれど、カイウォルは淡々と言を継ぐ。

「鷹刀ルイフォンであれば、メイシア嬢の異母弟おとうとである君の呼び出しに応えてくれるでしょう。彼から、うまく『ライシェン』の隠し場所を聞き出してください」

 近衛隊はダミーの壁に騙されて『ライシェン』を見つけることができなかった。

 闇雲に探してもらちが明かない。だから、ハオリュウを内偵にしようというわけだ。

「君ならできると、信じていますよ」

 畳み掛けられた言葉が、ハオリュウに強烈な圧を掛け、無理やりにでも頷かせようとする。まるで、カイウォルが自在に重力を操っているかのようだ。

 貴族シャトーアは、王族フェイラめいには逆らえない。

 しかも、カイウォルは、『私たち』という言い方で、同志であるのだと念を押した。

「……っ」

 それでも――。

 ハオリュウには、従順に首肯することはできなかった。

 硬い顔で唇を噛み、ごくりと唾を呑む。

 カイウォルへの不満にも取れるが、難題に立ち向かうことへの緊張にも見える仕草。どうにでも解釈でき、どうにでも弁明できる態度だ。――かろうじて。

 固く握りしめた拳が、白くなる。個人としてのハオリュウと、藤咲家の当主としてのハオリュウがせめぎ合う。

 ……この場を辞したあと、いったい、どうすればいいというのだろう?

「君は、本当に賢いですね」

 ふわりと、柔らかな声が落とされた。

 はっとして視線を上げれば、黒髪黒目でありながら、あたかも太陽のような輝かしさで、カイウォルがハオリュウを包み込む。

「私がひとこと言うだけで、君はすべてを理解してしまう。平民バイスアの血を引いているからと、君を軽んじていた過去の自分を叱咤したいところですよ」

「殿下……?」

 純粋な疑問から、ハオリュウの眉間に皺が寄った。ハオリュウなどを褒めはやしたところで、カイウォルには、なんの益もないはずだ。

「君とアイリーとの結婚はさておき、君には、私の片腕として、国政に尽力してくれたらと願ってしまいます」

「……それはあまりに、もったいないお言葉です」

 カイウォルの真意が読めず、ハオリュウは戸惑いながらもこうべを垂れる。

「本心ですよ」

 この国の最高権力者である貴人は、不可解な微笑を浮かべただけで、ハオリュウに納得できる答えを与えてくれたりはしなかった。

 カイウォルは、優雅に手を伸ばし、テーブルの上のカップを取る。

「ハオリュウ君、お茶をいただきましょう。こちらの菓子も、珍しいものなのですよ」

 そして、今までのやり取りが幻だったかのように、和やかな茶会へと移っていった。



 ハオリュウがいとまの挨拶を告げたとき、ふと思い出したかのようにカイウォルが尋ねた。

「そういえば、足の具合いは、もうよろしいのですか?」

 何故、今ごろ訊くのだ?

 違和感、そして、本能的な嫌悪を感じる。

 困惑を覚えつつも、臣下の身で気遣いを賜ったことを感謝すべく、ハオリュウは少年当主らしい、素直な喜びを全面に出した顔を作った。

「ええ、おかげさまで。こうして、杖がなくとも歩けるようになりました」

「そうですか。それはよかったです」

 カイウォルの言葉の意図を測りかね、ハオリュウは内心で首をかしげる。

 ハオリュウが婚約者として女王の隣に立ったとき、車椅子や杖では格好がつかないと憂慮していたのだろうか。

 絶世の美少女である女王に対し、ハオリュウは、あまりにも平々凡々としている。しかも、三歳も年下では頼りなげに見えるだろう。

 だから、せめて壮健であることを国民にアピールしてほしい。病弱を理由に、ヤンイェンを婚約者の座から下ろす予定なのだから。――そんなふうに考えていたのだろうか……?

 ハオリュウの思索をよそに、カイウォルが再び口を開いた。

「以前の会食のときは、車椅子を押してもらっていましたからね」

「ええ……」

 ハオリュウは促されるように相槌を打つ。

 あのときは、足の不自由を口実にシュアンに付き添ってもらい、その裏側で、ルイフォンとリュイセンによる〈ムスカ〉捕獲作戦が動いていた。

 そんなことを思い出していると、柔らかな声が、すっと忍び寄る。

「介添えの彼は、息災ですか?」

「!?」

 カイウォルが、シュアンのことを口にした!?

 何故、国の最高権力者が、一介の従者について尋ねる?

 ハオリュウにとってシュアンは大切な友人だが、カイウォルの前でのシュアンの役割は、ただの使用人だったはずだ。

「羨ましいほどの忠臣ぶりでした。彼を大切にするとよいでしょう」

 雅やかな微笑が、ハオリュウに向けられる。好意的な言葉であるにも関わらず、ハオリュウの肌は、ぞくりと粟立った。

「また、お会いできる日を楽しみにしていますよ」

 蠱惑の旋律に見送られ、ハオリュウは王宮をあとにした。



 王宮からの帰途、ハオリュウは車の中で、ぐったりとしていた。

 シートにもたれ、何気なく窓の外を見やる。よく晴れた夏の日の午後、硝子の向こうの世界はまばゆいばかりに輝いていた。

 ハオリュウは、同乗の護衛に窓を開けるよう頼んだ。車内は空調が効いていたが、それよりも自然な外の空気を吸いたかったのだ。

 息苦しかった。

 そして。

 生き苦しかった。

 吹き込んできた風が前髪を巻き上げ、ハオリュウは軽く目をつぶる。

 涼を取りやすいようにと、ユイランがやや広めに仕立ててくれた襟元から、気ままな風が通り抜けていく。風をはらんだ絹地が肌を滑り、王宮での嫌な汗を洗い流してくれる気がした。

 姉様とルイフォンに、連絡を取らないとな……。

 心の中で呟き、ハオリュウは奥歯を噛みしめる。

 自分ひとりの力で、対処できると思っていた。勿論、カイウォルとの顛末は、異母姉あねたちに報告するつもりだったが、相談するようなことは何もないと考えていた。

「……」

 ハオリュウは、女王と結婚したいわけではない。だから、『ライシェン』は行方不明のままのほうが都合がよい。

 だからといって、『鷹刀ルイフォンから『ライシェン』の隠し場所を聞き出すことは、できませんでした』が、まかり通るわけがないだろう。

 ……とりあえず、シュアンに話そう。

 ひとりで行くというハオリュウを満足そうに送り出してくれたくせに、シュアンは今日、職場に休みを申請していた。『摂政の用件を早く知りたいからだ』と言っていたが、本当はハオリュウを心配してのことだろう。

 だから、シュアンは、藤咲家の屋敷で待っている予定だった。

 しかし、昨日になって急に、上官から『明日、勤務態度について話がある』と、休暇の取り消しを言い渡されたそうだ。『解放されたら、すぐに藤咲家に向かう』と連絡をくれた。

「…………」

 ハオリュウは、重い溜め息を落とした。

 なるべく早く、シュアンに来てほしいと願ってしまうのは、甘ったれた思いだろうか……?



 夏の陽は長い。

 太陽が地平線へと沈んだあとも、取りこぼされた光の残滓が、ほの赤く広がっている。

 けれど――。

 最後のひとかけらの光が夜に吸い込まれても、シュアンは現れなかった。

 彼の携帯端末への連絡は、既に何度も入れていた。しかし、いっこうに返事はなかった。



 夜闇に包まれた書斎で、ハオリュウは、執務机に置かれた携帯端末をじっと見つめていた。

 電灯は点けていない。

 暗くなってきたときに立ち上がるのが億劫だったため、そのままにしていたら夜になってしまったのだ。

 食欲がなかったので、夕食は断った。

 ひとりになりたいからと、人払いをした。



 不意に――。

 闇を切り裂くような呼び出し音と共に、携帯端末が光を放った。

 ハオリュウは飛びつくようにして電話を取る。

『ハオリュウ?』

 鈴を振るような、澄んだ響き。

 シュアンの濁声だみごえではない。異母姉あねのメイシアだ。

「姉様? ……どうしたの?」

『ハオリュウ、落ち着いて聞いて!』

 異母姉あねらしくない険しい声だった。『落ち着いて』と口にした彼女のほうが、よほど慌てていた。

「何かあったんだね? ゆっくりと説明――……」

 胸騒ぎを覚えつつも、努めて平静を保とうとするハオリュウの努力を台無しにするかのように、メイシアの叫びが重ねられる。

『今、ルイフォンの情報網で……。緋扇さんが……!』

「――シュアンが!?」


『殺されてしまう……!』


「……どういう……こと……?」

『逮捕されたの。罪状は――厳月家の先代当主の暗殺』

「!」

 冤罪ではない。

 事実だ。

 シュアンは、厳月家の先代当主を殺している。

 ハオリュウが依頼したのだ。

 父の仇だった。愚かな厳月家の先代当主は、〈ムスカ〉の甘言に乗って、父を自分の〈影〉にした。

〈影〉は〈七つの大罪〉の技術。存在しないはずのもの。

 故に、厳月家の先代当主が罪に問われることはない。

 ――否。罪に問われるかどうかの問題ではない。

 父を死に追いやった厳月家の先代当主が憎かった。

 ハオリュウは許せなかった。

 だから、『俺の手は、あんたの手だ』と言ってくれたシュアンの手を使って……――殺した。

 すすり泣くようなメイシアの声が、ハオリュウの耳朶を打つ。

『もっと詳しい情報を、って……、ルイフォンが今、頑張っている。――けど……、貴族シャトーアの当主を殺害したら……。……緋扇さんの極刑は……免れない……!』


 シュアンが死ぬ。


 まるで、鈍器で頭を殴りつけられたかのような衝撃が走った。

 あらゆる感覚が麻痺し、すべてが現実味を失う。

「嘘だ…………」

 その言葉は反射的なものだった。

 嘘であってほしいとの――願いだった。

 そのとき、ハオリュウの耳の中で、昼間のカイウォルの声が木霊こだました。


『介添えの彼は、息災ですか?』

『彼を大切にするとよいでしょう』


 ハオリュウは、はっと息を呑む。

 つまり。


 シュアンを助けたければ、『ライシェン』の情報を売れ。

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