1.波紋の計略-2

 車窓の風景が徐々に速度を落とし、やがて白亜の王宮の前で、ぴたりと止まる。

 それまで、後部座席で気難しい顔をしていたハオリュウは、慣性による軽い反動を受けると同時に、優しげで人当たりのよい、利発な少年の仮面をかぶった。

 王宮を出入りする者たちに軽んじられてはならないが、彼本来の闇を表に出して周りに無用な刺激を与えてもならない。

 祖母に降嫁した王女を持つという王族フェイラに近い血統にも関わらず、血の半分は平民バイスアであるハオリュウは、ただでさえ、好奇の目を向けられる異質の存在なのだ。

 それが、未成年でありながらも藤咲家の当主の座に就き、しかも、お飾りではなく、領地の絹産業を盛り立てているともなれば、注目の的である。好印象を保つことは、極めて重要だった。

 思わず肩入れしたくなるような、少年ならではの儚さを身にまとい、ハオリュウは車から降り立つ。彼を待っていた案内の者に、礼儀正しく挨拶の口上を述べれば、その者の目尻は下がり、柔らかな微笑みで迎えられた。

「摂政殿下は、藤咲様とお会いできる日を、とても楽しみにされておられましたよ」

 そんな和やかな言葉に促され、彼は王宮へと足を踏み入れた。



 応接用の一室に案内されたハオリュウは、「しばらく、お待ちください」との言葉と共に、ぽつんと残された。

 案内の者は、部屋を出ていく際に『テーブルに飾ってある花器は、最近、摂政殿下が入手されたものなのですよ』と教えてくれた。話題に困ったら、それを褒めればよいのだという密かな助言である。

 年若いハオリュウが、国の最高権力者である摂政とふたりきりになるという状況を心配してくれたようだ。平民バイスアの血を引く、素朴で善良な少年当主の看板は、どうやらうまく機能しているらしい。

 今回の摂政との対面では、美術品を愛でるような、のどかな場面などないであろうが、ハオリュウは無邪気な顔で礼を述べた。彼とて、人の善意は素直に嬉しいのである。

 ついでに、この部屋に来るまでの間、足の悪い自分を気遣って、ゆっくりとした歩調で歩いてくれたことに感謝を告げる。すると、案内の者は、滅相もないと恐縮したように深々とこうべを垂れ、心なしか嬉しそうな足取りで去っていった。

 室内が、ひっそりと静まり、ハオリュウの瞳に年齢不相応の闇が宿る。

 いよいよ、これからである。

 とはいえ、『相手を待たせる』ことに力関係が表れるため、摂政はすぐには来ないだろう。その間に、ハオリュウは自分の身なりを確認する。

 今日の彼は、かちりとした襟の、しかし、格式張りすぎないようにとの趣向を凝らされた伝統衣装姿だった。軽やかに風をはらんで広がる上着の裾は涼しげで、夏向きに織られた絹地の通気性がよく活かされている。角度によって美しい流水文様が浮き立つさまは、実に上品であり、小洒落こじゃれた感じでもあった。

 前回の会食のときと同じく、ユイランに仕立ててもらったものだ。いずれ、摂政からお呼びが掛かることが分かっていたため、少し前に『貴族シャトーアの当主のよそ行きとして、ふさわしい装いを』と頼んでおいたのだ。

 あらかじめ用意しておいて、本当によかったと、ハオリュウは思う。もし、摂政からの招待状が届いてから手配したのでは、現在、草薙家に厄介お世話になっている異母姉あねに、何かあるのだと感づかれてしまう可能性があった。

 ……そう。実は――。

 ハオリュウは、今日の招待のことをシュアン以外の誰にも教えていなかった。

 異母姉あねメイシアをはじめ、ルイフォンや鷹刀一族の人々に、余計な心配を掛けたくなかったのである。

 無論、皆が摂政の動向に神経をとがらせていることは承知している。ハオリュウが招かれたと聞けば、誰もが浮き足立つことだろう。

 だからこそ、黙した。

 摂政の用向きを窺い、彼のはらの内が見えてきてから伝えるべきだと判断した。

 状況がはっきりしないうちから、周りに気をませたくなかったのだ。何より、迂闊に不安の種を撒き散らせば、心優しい異母姉あねが当のハオリュウ以上に動揺し、心を痛める。

 ハオリュウは、それを避けたかった。

 心労や緊張は、家を継いだ彼が背負うべきものだ。異母姉あねにとっての実家は、気掛かりの要因などではなく、心の拠り所であってほしいと願う。 

 その気持ちの中に、彼はもう小さな異母弟おとうとではないのだと、認めてもらいたがっている幼い心があることは否定しない。

 それでも、藤咲家の当主として――あるいは、ひとりの人間として、ルイフォンや鷹刀一族と並び立てるような人物になりたいと望むことは、決して間違いではないだろう。

 摂政との話の顛末は、あとで必ず、皆に報告する。

 だから、まずはひとりで摂政と対峙する。

 ハオリュウは、改めて気を引き締めた。



 やがて、扉が開かれた。

 戸口に見えた立ち姿から、得も言われぬ雅やかさが漂う。

 そこに存在するだけで、匂い立つような貴人。

『太陽を中心に星々が引き合い、銀河を形作るように。カイウォル殿下を軸に人々が寄り合い、世界が回る』――そんな妄言でうたわれる、摂政カイウォル、その人である。

 ハオリュウは足の悪さを押してソファーから立ち上がり、丁重に腰を折った。

 あいにく他の多くの貴族シャトーアたちとは違って、ハオリュウは、カイウォルの無言の引力に惹き寄せられたりはしないのだが、立場上、臣下の礼をる必要があった。

「ハオリュウ君、よく来てくださいました。また、君に会えて嬉しいですよ」

 毛足の長い絨毯の上を、滑るように優雅に歩を進め、カイウォルは右手を差し出す。ハオリュウは握手に応え、目上の者を尊敬する、従順な笑みを浮かべた。

此度こたびの殿下のお招き、光栄にございます」

 カイウォルの手は陶器のように美しく、そして、冷たかった。

 年齢的にはシュアンと同じくらいなのだが、グリップだこで変形した、ゴツゴツと硬い手とはまるで違う。ハオリュウは、自分より、ひと回り大きな掌に呑み込まれないよう、失礼のない程度に自然な動作を心がけつつ、速やかに手を放した。

 ふたりが席につくと、数人の侍女たちが茶と菓子を運んできた。

 カイウォルは、目を掛けている再従弟はとこを招いての、ごくごく個人的な茶会といったていを取っているらしい。

 侍女たちが、茶葉をゆるりと蒸らし、丁寧に美しく菓子を並べ……と、支度をしているため、カイウォルが口を開く気配はない。どう取り繕ったところで、緊張のさなかにあるハオリュウは、焦燥に駆られた。

 されど、余裕のなさを見せるのは愚の骨頂。

 故に、テーブルの花器に称賛を送るなどして、和やかな空気で間を持たせた。――あの案内の者には、感謝せねばなるまい。

 そんなわけで、侍女たちがやっと部屋を出ていったときには、ハオリュウは既に疲れ切っていた。だが同時に、ここまでらせたのは、彼から冷静さを奪うための、カイウォルの策略なのではないかと邪推し、ごくりと唾を呑む。

 そんなハオリュウの内心に気づいたのだろうか。

 カイウォルが意味ありげな視線を送ってきて、ようやく話が始まった。

「初めに、お伝えしておきましょう。この部屋は、完全防音です。また、君との歓談の邪魔をしないよう、使用人たちに申し付けてあります。途中で、誰かが入ってくることはありません」

 ――だから、安心して、腹を割って話してください。

 人を惹きつけてやまない貴人の微笑に、ひと筋の邪悪が混ざり、ハオリュウに無言の圧が加わる。

「お察しだとは思いますが、今日、君に足を運んでいただいたのは、女王陛下の婚約者の件です。本来なら、ひと月前に話を進めるはずだったのですが、こちらの都合で、今まで君を待たせてしまいました」

 カイウォルは軽く目を伏せた。

 うっすらと眉間に寄った皺が苦悩を示すようで、その表情だけで、ハオリュウとの約束をやむを得ず先送りにしてしまったと、詫びているように見える……が、彼は決して、謝罪を述べてはいない。

「まずは、現状を確認しましょう」

 忍ぶような密かな声に、ハオリュウは無言で頷く。

「君もご存知の通り、女王陛下とヤンイェンの婚約は、数ヶ月も前に発表されています。しかし、まだ婚約の儀式を執り行っていないため、ヤンイェンは正式には婚約者ではありません」

 そこで、カイウォルは口元を緩め、わざとらしいほどに柔らかな声色を紡ぐ。

「ですから、まだ、どうにか取り返しがつくと……、『恋も知らずに結婚をしたくない』と涙する陛下――いえ、私の妹のアイリーの我儘のため、愚かな兄である私は、君に協力を求めたわけです」

 自分の政治的野望のためではなく、あくまでも可哀想な妹のため。そして、ハオリュウには『強制』ではなく、『協力』を頼んでいるのだと、カイウォルは念を押した。

「慣例であれば、もうとっくに婚約の儀式の日取りが決まり、その準備に追われている頃合いです。しかし、アイリーの願いを叶えるため、適当な理由をつけて、結婚に関するあらゆる物ごとを先延ばしにしています」

 カイウォルはうれうような溜め息をつき、ゆっくりとかぶりを振る。

「……ですが、それも、そろそろ限界です。女王の結婚を――ひいては〈神の御子〉の誕生を望む国民たちは、なかなか進まぬ事態に困惑し始めています」

 国民が困惑――というよりも、不審に思っていることは、当然、ハオリュウも把握していた。

 一説には、長いこと病気静養をしていたヤンイェンが、体調を崩したのが原因だと言われており、そんな病弱では女王の夫としてふさわしくないのではないか、などという声も上がっている。

 実のところ、その噂は王宮から意図的に出されたものではないかと、ハオリュウは疑っていた。

 ともあれ、この話の進め方からすると……。

 ――まずい。

 ハオリュウの心に、冷や汗が落ちる。

 そんな彼の思考を裏付けるかのように、カイウォルの声が重ねられた。

「民を不安に陥れるなど、国政を預かる者として、許されるはずもありません。国民を安心させるために、一刻も早く、女王陛下の婚約の儀式を執り行う必要があります」

 ――!

 つまり、異母姉あねメイシアの入れ知恵――『喪中を理由に、婚約者の返事を先延ばしにする』という玉虫色の策は使えない。

 今までカイウォルが面会を先延ばしにしてきたので、まだ時間に余裕があるのだと錯覚していた。事実、国民の間には、女王はまだ未成年なのだから結婚を急ぐことはあるまい、という声だってある。

 しかし、国民の感情など関係ないのだ。『カイウォルが、どうしたいか』の問題にすぎない――。

 婚約者の話を受けるか、否か。

 今すぐ、この場で、『どちらか』で、答えることが強要されている。

 ――断れるわけがない。

 ハオリュウは無意識に唇を噛んだ。

 口の中に血の味が広がって初めて、彼は、はっきりと『カイウォルに対する、激しい憎悪』を自覚した。

 視界の端に『森の妖精』の幻が見えた。

 両脇で高く結い上げた髪が舞い、絹の髪飾りが風に踊る――。

 ハオリュウの瞳に闇が宿り、表情をなくした顔がくらく染まる。

 カイウォルが、自分を掌中に収めようとしてくることは分かりきっていた。そして、貴族シャトーアである彼は、王族フェイラに逆らえないことも……。

 籠の鳥だ。

 もとより、貴族シャトーアの嫡男として生まれ、現在は当主である彼に、自由などないのだ。

 聡明な彼は、幼いころからよく理解していた。

 平民バイスアを後妻に迎えた父は、愚かだと。

 貴族シャトーアにあるまじき行為を働き、両親は周りから爪弾つまはじきにされていた。

 さげすまれる父を見下し――。

 ……本当は、憧れていたのだ。

「ハオリュウ君」

 雅やかな声が、そっと囁かれた。

 燦然と輝く美貌が、うつむいたハオリュウの顔を覗き込み、強引に照らし出す。カイウォルの光がまばゆいほどに、ハオリュウは陰りを帯び、深く沈み込む。

「どうか、アイリーのために、婚約者を引き受けてください」

「…………はい」

 ハオリュウは顔を上げ、血のにじむ唇で答えた。

『――喜んで』と続けるべきところを沈黙したのは、せめてもの矜持だ。

「ああ、ハオリュウ君。さすが、私の見込んだ人です。君ならきっと、引き受けてくれると信じていましたよ」

 傷ひとつない、作り物めいた笑顔で、カイウォルが胸を撫で下ろす。

 ハオリュウは固く拳を握りしめ、この国の最高権力者の顔を正面から見据えた。

 個人的にどんなに屈辱を覚えようとも、藤咲家の当主としては、これは正しい選択だ。恥じることは何もない。

 そのとき――。

 唐突に、カイウォルが顔を曇らせた。

 ハオリュウが怪訝に首をかしげると、カイウォルは溜め息をつきながら肩を落とす。

「せっかく、君の協力を得られたというのに、私は残念な報告をしなければなりません」

 淡々とした声は変わらずに美しく、しかし、上品にしかめられた眉には怒りがにじむ。

「あなたにもお見せした〈神の御子〉――『ライシェン』が奪われました」

 ハオリュウは息を呑んだ。

 てっきり、カイウォルは、『ライシェン』が手元にないことをハオリュウに隠したまま、婚約者の話を進めるものと思っていた。

 何故、正直に明かすのだ?

 ハオリュウは、にわかに混乱する。

「殿下……。それでは、私が婚約者になるわけにはいきません。〈神の御子〉の『ライシェン』の誕生が保証されているからこそ、平民バイスアの血を引く私を婚約者にできる、というお話だったはずです」

「ええ、『私たち』には、『ライシェン』が必要です」

 共犯者の目で、カイウォルは『私たち』という言葉を使った。ハオリュウは、腹の底から憎悪が膨れ上がってくるのを必死に抑え、黙ってカイウォルの次の句を待つ。

「犯人の目星はついています。それで、この前、近衛隊を出動させたのですが……、良い結果を得られませんでした」

 鷹刀一族の屋敷の家宅捜索の件を言っているのだろう。エルファンに対する事情聴取のことも含まれているかもしれない。

 しかし、どうして、それを今、ここで言うのか?

 ハオリュウの心臓が警鐘を鳴らす。

「『ライシェン』を奪ったのは、鷹刀一族ですよ」

 包み隠さず出された名前に、ハオリュウの肩が、びくりと揺れた。

「これから、『私たち』は協力して、鷹刀一族から『ライシェン』を取り戻さなければなりません」

 雅やかな仕草で、カイウォルがゆっくりと腕を組む。

 その口元は、うっすらと微笑んでいるように見えた。

「鷹刀一族は、君にとって因縁深い相手。君の姉君――メイシア嬢をたぶらかし、自殺に追い込んだ男の一族です」

「…………」

「君にとって、姉君の仇とも言える憎き一族ですが……、その縁故のために――」

「……?」

 微妙な言い回しに、ハオリュウが眉を寄せたのと、カイウォルの口角が上がったのは同時だった。

「――君ならば、彼らと接触することは可能でしょう?」

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