4.和やかなる星影の下に-2
「『ライシェン』を、
ルイフォンは、猫の目を丸くして固まった。まったく想像もしていなかった話に、声を失ったのだ。
それはメイシアも同じだったようで、彼女は隣で小さく息を呑んだまま、口元に手を当てている。窓の外からの虫の歌だけが、涼やかに広がっていった。
「そんなに意外だったか?」
「あ、いや……。ほら、レイウェンとシャンリーは『一族を抜けるときに、鷹刀と縁を切ることを誓ったから』って言ってさ。今までずっと、事情は知っていても、見守ることに徹していたから……」
「――ルイフォン」
肩を
反射的に、ルイフォンは猫背をぴんと伸ばす。その反動で、毛先を飾る金の鈴が跳ねた。
「『ライシェン』は、セレイエの子供だ。レイウェンと私にとっては『
「――っ!」
「すっかり忘れていた、って顔だな」
シャンリーの苦笑は、とても静かだった。
彼女らしくもなく、いっそ平坦といったほうが正しいくらいの穏やかさ。……だからこそ、内に抑えたセレイエへの強い思いが――
「……すまん」
思わず、謝罪が口を
自分だけが、セレイエと
「セレイエは俺の
ぼやくような呟きに、シャンリーは「そうだよ」と、語調を強めて頷く。
「
「……」
ルイフォンは、なんとも言えずに押し黙る。
不意に、メイシアが彼の服の端をぎゅっと握ってきた。どうしたのかと見やれば、もう片方の手で自分の胸元を押さえながら、切なげな顔でシャンリーを見つめている。
「セレイエさんの記憶が、シャンリーさんの言葉に反応しています。『大好きなお姉ちゃん』だって……」
シャンリーが、はっと顔色を変えた。
「すまん! 大丈夫か!? セレイエの記憶が表に出てくると、具合いが悪くなるんだろう?」
「あ、いえ。具合いが悪くなるというよりも、混乱してしまうことがあるだけで……。でも、今は平気です。切ないけれど、温かいんです。セレイエさんが、シャンリーさんたちをとても大切に思っていたのが伝わってきます」
「そうか、よかった。……ありがとう」
安堵の息を吐き、シャンリーは柔らかに笑う。それから、気合いを入れるかのように、口元をきゅっと引き締めた。
「なら、『ライシェン』が
「あ、ああ……」
ルイフォンは、戸惑いながらも肯定する。それを弾みに、シャンリーが声高に続けた。
「そして、セレイエは、養父母の候補として、とりあえず、お前たちを選んだ。けど、それは絶対ではなかったはずだ」
その通りだ。
ルイフォンとメイシアが恋仲にならなかった場合には、『ライシェン』に愛のある環境を与えてくれれば、それでよいと願っていた。
「セレイエがお前たちを選んだ理由は、『ライシェン』と血の繋がりという縁があること。それから、メイシアが〈天使〉になることで、あらゆる危険から『ライシェン』を守り抜ける力を得られること――だったよな?」
シャンリーの問いかけに、メイシアがおずおずと頷く。
その瞬間、ルイフォンは鋭く目を光らせ、弾かれたように叫んだ。
「メイシアは、〈天使〉なんかにならない!」
華奢な肩を抱き寄せ、その手で黒絹の髪をくしゃりと撫でる。
セレイエの命を賭けた願いと、自身の『〈天使〉になりたくない』という思いの狭間で、メイシアは苦しんだ。優しい彼女のことだから、落ち着いたように見えても、本当は今も悩んでいることだろう。だから、彼女の心が罪悪感に侵されたりしないようにと、ルイフォンは強く否定する。
必死の形相の彼に、シャンリーが、ぷっと吹き出した。
「おいおい、そんなに睨むな。――私も、メイシアが〈天使〉になる必要はないと思っているよ。さすがに、それはセレイエの我儘が過ぎる」
からからと笑いながら、シャンリーは、メイシアの肩を抱くルイフォンの手に目を細めた。満足げに口の端を上げてから、すっと真顔に戻る。
「だが、メイシアが〈天使〉にならないのなら、セレイエが期待した強力な守りの力はなくなる。単に『ライシェン』の血縁という意味でなら、お前たちと、私たちの条件は同じだ。――ならば、『ライシェン』が
「――!」
悪くないどころではないだろう。
武術の心得のあるレイウェンとシャンリーは頼もしいし、何より、クーティエという一女のある彼らなら、養育者として申し分ない。ルイフォンたちよりも、よほど適任、よほど現実的だ。
あまりにも、ありがたい申し出に、ルイフォンとメイシアは半ば呆然としていた。張りのあるシャンリーの声が、未来に向かって、ふたりの背中をそっと押し出す。
「急かしているわけじゃないよ。あくまでも、選択肢のひとつとして、頭の片隅に入れておいてほしい、ってだけだ。だいたい、『ライシェン』の父親とも、相談が必要だろう?」
「あ……、そうだよな……」
『ライシェン』の
摂政の動向が気になると言って、なんとなく先延ばしにしていたが、できるだけ早く、父親のヤンイェンと会う段取りをつけるべきだ。
セレイエの計画では、『ライシェン』は、とりあえず王として誕生し、それが不幸な道だと思われたら、〈天使〉となったメイシアが王宮から
しかし、メイシアを〈天使〉にしないと決めた以上、『ライシェン』の誕生の前に、『王』か『平凡な子供』を選ぶ必要がある。その判断に、父親であるヤンイェンの意見は不可欠だろう。
――果たして、どんな未来が、『ライシェン』にとって幸せなのか。
あの小さな赤子が硝子ケースから出て、青灰色の瞳に世界を映し、白金の髪を揺らして笑う……。
そのとき、ルイフォンの心に、ふっと
……自分は、あの赤子を『可愛い』と思えるのだろうか?
湧き出た疑念に動揺し、おそらく無意識に安心を求めたのだろう。ルイフォンは、隣のメイシアに視線を走らせる。
すると、彼女もまた眉を曇らせ、彼を見つめていた。黒曜石の瞳は惑いに揺れ、そこに映り込んだ彼の顔も、
「……レイウェンの言った通りだな」
奇妙な色合いを帯びた室内に、シャンリーの声が静かに響いた。
性別不詳の整った顔からは感情が失せ、続く言葉は淡々と無慈悲――。
「具体的な『ライシェン』の未来を示したら、お前たちの足はすくみ、ためらいを見せる。――お前たちの中で、『ライシェン』は『人』ではなくて、『もの』だから……」
「――え?」
歌うような声は、彼女の剣舞の如く流麗だった。
ルイフォンの耳にも鮮やかに聞こえ……だのに、彼は言葉の意味を理解できなかった。まるで不可思議な舞に翻弄されたかのように、ルイフォンは狼狽し、シャンリーの顔を凝視する。
シャンリーは、溜め息をひとつ落とした。それから、いつもの強気な表情に戻り、「いいか?」と、鋭く斬り込むように身を乗り出した。
「決して、お前たちを責めているわけじゃないぞ。――けどな」
険しい声の前置きに、空気が張り詰める。
「もし、お前たちが、『ライシェン』をセレイエに託された『子供』だと思っているなら、一緒に
「!」
ルイフォンとメイシアは、同時に息を呑んだ。
そして、ふと、〈
彼は、硝子ケースの中で眠ったままの『ミンウェイ』を、それはそれは大切にしていた……。
「けどな……。お前たちにとって、『ライシェン』が『もの』であるのは、仕方のないことだ。だって、お前たちは、『デヴァイン・シンフォニア
シャンリーの目が、悼むように伏せられる。
「メイシアの父親は亡くなったのに、原因となった『ライシェン』が生き返るのは、解せないだろう? 話を聞いただけの私だって、理不尽だと思うんだ。お前たちが、素直に『ライシェン』を受け入れられないのは、当たり前のことなんだよ」
メイシアの体が震えた。
小さく「私……」と呟いたまま、血の気の失せた唇が動きを止める。ルイフォンは、彼女の細い腰を引き寄せ、包み込むように抱きしめた。
彼の胸に倒れ込んできた華奢な体は、夏の気温に反し、凍えているように感じられた。無論、錯覚に決まっているが、ルイフォンは自分の熱を分け与えようと、両腕に力を込める。
そんなふたりに、シャンリーは切なげに顔を歪めた。
「お前たちに『ライシェン』の未来を――幸せを託すのは、酷だよ。セレイエだって、『デヴァイン・シンフォニア
口調の険しさとは裏腹に、シャンリーの言葉は優しさであふれていた。
心の底に沈んでいた
「無理をするな」
シャンリーが微笑む。
「『ライシェン』は、
『ライシェン』も、『お前たち』も、幸せになるために――。
ルイフォンの腕の中で、メイシアの呼吸が揺れた。彼の背に回された手が、髪先を留める金の鈴に触れ、一本に編まれた髪にくしゃりと絡める。
ルイフォンもまた、彼女の黒絹の髪に、すっと指を通した。優しく
互いにまだ、『弱い』存在なのだと、実感する。
――けれど、『ふたり』なら……。
メイシアはルイフォンを仰ぎ見た。まっすぐな黒曜石の瞳に、彼も目線で応える。
そして、ふたりは、同時に頭を下げた。
「シャンリー、俺たちのために言ってくれて、ありがとう」
ゆっくりと。
ルイフォンは、テノールを響かせる。
「――けど。俺たちは、ふたりで考えて、
「ルイフォン……」
戸惑うように、シャンリーは瞳を
「シャンリーさんのお話は、本当にありがたいと思います。けれど、今、それに甘えてしまったら、まだ何もしていない私たちは、楽をする道を選んだだけになってしまいます。……それはきっと『違う』と思うんです」
迷いのない澄んだ声で、メイシアがルイフォンのテノールを繋ぐ。
ルイフォンはメイシアの手を握りしめ、わずかに逡巡した。……けれども、静かに続ける。
「〈
「!」
シャンリーが顔色を変えた。しかし、ルイフォンは畳み掛ける。
「命と向き合い続けた『ヘイシャオの記憶』の言葉は、決して軽くはないはずだ。そして、『ライシェン』には、そう言わせるだけの背景がある。――でも、俺たちとしては、『ライシェン』には、『人』としての幸せを贈ってやりたいと思っている」
ルイフォンに同意するように、メイシアが頷く。それを弾みに、ルイフォンは決然と告げる。
「なのに、俺たちは『ライシェン』を『もの』扱いしていた。可哀想だよな。改めるよ。――俺たちは、本当にこれからなんだ」
覇気に満ちた顔で、ルイフォンは笑う。どこに続くか分からない、遠い道を見据えながら――。
その瞬間、シャンリーは呆気に取られたような間抜けな顔になり、やがて、面目なさそうに、ベリーショートの頭をがりがりと掻いた。
「なんか、綺麗にまとめられちまったな」
「
「別にいいさ。――ただ、お前たちは何もかも、ふたりきりで背負いすぎだと、言いたかったんだ。もっと、レイウェンと私を頼ってほしい。……『きょうだい』だろう?」
「ああ、そうだな」
ルイフォンは即答した。シャンリーが、どんな意味で『きょうだい』と言ったのかは不明だが、肯定以外の答えなど、あるはずもなかった。
シャンリーは、はにかむように破顔し、ひと呼吸を置いてから続ける。
「それにな、『ライシェン』を
「え?」
「『ライシェン』のことを聞いたとき、そんな星の巡り合わせもあるのかなと思ったよ」
謎めいた笑みを浮かべ、彼女は視線を窓へと移す。
「ちょっと、庭に出ないか? ……星が、綺麗だと思うんだ」
思っていたよりも、外は涼しかった。
心地の良い風が吹き、隣にいるメイシアの長い黒髪を巻き上げ、その毛先が、ルイフォンの半袖の腕を滑るように流れていく。
明るかった室内から出たばかりの瞳には、あたり一面が深い闇だった。その分、あちこちで奏でられる夏の虫の歌が、より鮮明に聞こえる気がした。
ルイフォンはメイシアの手を取り、指を絡め合わせ、夜目の効くシャンリーの気配を追っていく。しばらくすると、彼の目でも、星明かりを捕らえることができるようになってきた。
シャンリーが立ち止まり、「このへんでいいか」と、すとんと芝生に座り込む。
彼女に倣い、ルイフォンとメイシアも腰を下ろした。ちくちくとした草の感触がして、水気を含んだ匂いがほのかに漂う。
ふと気づけば、頭上は満天の星空だった。
「綺麗……」
軽く肩が触れ合う位置から、メイシアが感嘆を漏らす。
「ああ、綺麗だろう」
シャンリーは両手を後ろに付き、紺碧の空を仰いでいた。
「あの星の中のひとつが、私たちの子供なんだ。――生まれることもなく、死んでしまった、クーティエの弟か妹だ」
「――!?」
ルイフォンは、びくりと身を動かした。
その音に虫たちが驚いたのか、彼らの歌声がやみ、まるで時が止まったかのように、世界が凍りつく。
「驚かせて悪いな」
シャンリーが、くすりと笑った。
「流産したんだ。まだ、ほんの初期のころに」
笑うべきことではないはずなのに、彼女は星を見つめながら、愛しげに微笑む。
「転んだとかじゃなくて、自然なもの。どんな夫婦にも一定の確率で起こり得る、逃れようもない、ただの不運だ」
ルイフォンもメイシアも、何も言えず、沈黙が訪れた。
星が
シャンリーに応え、まるで微笑み返すかのように。
「運が悪かっただけなんだ。……なのに、レイウェンは、そう思うことができなかった。自分の体に流れる、生粋の鷹刀の血のせいだと言い張った。自分を責めて、責めて……、あのときのレイウェンは見ていられなかったよ」
「……」
幼いころ、生まれたばかりの弟の死を目の当たりにしたレイウェンは、人一倍、血族に対する思いが強い。
そんな彼が、
「レイウェンは強い男だ。けど、血族に関してだけは、どうしようもなく脆い。愛が強すぎるから、弱いんだ。……仕方ないよな」
その言葉に、ルイフォンは数日前、非の打ち所のないレイウェンの弱点を知りたいと、タオロンとふざけあったことを思い出した。
ずきりと、胸が痛む。
レイウェンの弱点なら、とっくに知っていたのだ。彼はルイフォンを
シャンリーはまた、ふっと笑った。
芝に付けていた手を放し、ベリーショートの髪を掻き上げる。
「レイウェンのことばかり言っていたら、不公平だな。……うん。私も脆くて、弱い。私たちは、同じことを繰り返したくないと思った。――だから、クーティエは、ひとりっ子なんだよ」
ルイフォンは、はっと息を呑んだ。
異様なまでに兄弟にこだわるレイウェンなら、
どうして、今まで気づかなかったのだろう……。
「セレイエが死んだと伝えられて、レイウェンは物凄く、ふさぎ込んだ。そして、遺された『ライシェン』について、実の父が育てるのが難しそうなら、
シャンリーは、紺碧の空へと両手を伸ばす。
舞い手らしく、指先まで綺麗に伸ばした腕で、星空を
「勿論、『ライシェン』をあの子の代わりにするつもりはないよ。あの子は、あの子。『ライシェン』は、『ライシェン』だ」
虫たちの奏でる旋律に乗って、思いが空へと流れていく。
「ただ、そういう
シャンリーは目元を緩め、柔らかに微笑んだ。
その顔は、どきりとするほどに優しげで、まるで慈愛に満ちた聖母のよう。普段、男装の麗人と
不意に、メイシアの黒髪が風になびき、ルイフォンの頬に触れた。
彼は何気なく隣を見やり、メイシアの双眸で星が揺らめいていることに気づいた。
そっと彼女を抱き寄せる。彼女の頭が、こつんと彼の肩に載せられる。
そして、そのまま。
星降る夜に、静かな虫の歌が流れ続けた。
~ 第一章 了 ~
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