2.心魂を捧ぐ盟約-1

 時刻は遡り、ルイフォンたち一行が、菖蒲の館で〈ムスカ〉との決着をつけた日の午後。

 鷹刀一族の屋敷にて、料理長の心づくしのご相伴にあずかった緋扇シュアンは、その足で、メイシアの実家の藤咲家に向かうと告げた。彼女の異母弟である貴族シャトーアの藤咲家当主、藤咲ハオリュウに、ことの顛末を報告するためである。

 他の面々と同じく、シュアンもまた前日の夜から、ほぼ不眠不休だった。故にメイシアは、異母弟のところへ行くのは後日でよいのではないかと勧めたのだが、彼は軽く聞き流した。

「鉄砲玉の性分、というやつでしてね」

 口の端を上げ、シュアンは胡散臭い笑みを浮かべる。まったく取り合わない彼に、メイシアは遠慮がちに言葉を重ねた。

「緋扇さん、顔色が良くないです」

 彼女の言う通り、シュアンの不健康そのものの肌にはつやがなく、三白眼の眼窩は落ち窪み、濃いくまに覆われていた。中肉中背の体躯は姿勢が悪く、気だるげである。メイシアの最愛のルイフォンも見事な猫背であるが、好戦的な好奇心にあふれた彼とは、まるで異なる雰囲気だった。

「俺の顔が悪いのは生まれつきなんで、諦めるしかないんですよ」

「緋扇さん! ふざけないでください。『顔色』が! 悪いんです」

 からかい混じりに返してくるシュアンに、メイシアは握りしめた拳をふるふると震わせて真剣に怒った。その仕草は、どことなく小動物的で、実に可愛らしい。

 そのためルイフォンは、『メイシアにそんな態度を取っていいのは俺だけだぞ』と割って入るべきか否かと悩んだのだが、シュアンが先に口を開いてしまった。

「面白いことを言いますねぇ? じゃあ、普段の俺と、いったいどこが違うと言うんです?」

「えっ……?」

 真面目なメイシアは、とっさに答えられない。何しろ、シュアンの悪相は、本人の言う通り地顔なのだ。

 シュアンは微苦笑を漏らした。以前、似たようなやり取りを、彼女の異母弟と交わしたことを思い出したのだ。あれは、車椅子のハオリュウの介助者として、摂政の会食へと赴く直前のこと。最終確認だと言って、ハオリュウとふたりで話したときのことだ。

 姉弟で反応はそれぞれが、あのときは口が回るハオリュウも押し黙った。一見、まったく血の繋がりを感じられない異母姉弟だが、案外、似ているのかもしれない、などとシュアンは思う。

「メイシア嬢。俺は、ハオリュウのために行くわけじゃねぇんですよ」

「え?」

 心底、驚いたような素振りを見せたメイシアに、シュアンは、それまでとは少し違う口調で続ける。

「あんたが元気なことは、ハオリュウの奴にきっちり話してくる。それから、王族フェイラの『秘密』も伝えて、あんたとハオリュウの間でも、〈悪魔〉の『契約』が無効になるようにしてやる」

 シュアンは、そこで言葉を切り、ふっと遠くを見やった。

「――けどな、俺とハオリュウにとって、〈ムスカ〉との決着ケリがついたってことは、特別な意味を持つんだよ」

 その瞬間、シュアンの三白眼が、虚空を射抜くように細められた。

 すぐそばにいたメイシアは勿論、一歩離れたところにいたルイフォンも息を呑む。

「俺は、ケジメをつけに行くのさ」

 ぼさぼさ頭をふわりと揺らしながら、シュアンは視線を戻す。その口元は、確かにほころんでいるにも関わらず、どこか張り詰めたような顔だった。

 ――喩えていうのならば、引き金を引く直前の、狙撃手の表情かお

「それじゃ、俺はこれで」

 飄々と立ち去るシュアンの後ろ姿に、ルイフォンもメイシアも、声を掛けることはできなかった。



 鷹刀一族の屋敷と同じく、ハオリュウの藤咲家も、シュアンにとっては、もはや勝手知ったる他人の家であった。

 貴族シャトーアの邸宅に似つかわしくない風体ふうていのシュアンが、豪奢な廊下を堂々と歩くさまは、実に不遜といえた。しかし、彼の役回りが、事実上のハオリュウの使い走りであることを考えれば、それは当然の権利なのであった。

 シュアンが警察隊員であることは、この家の使用人たちに、きちんと説明されている……はずである。しかし、何故か、レイウェンの警備会社から派遣された、もと凶賊ダリジィンの凄腕の護衛で通っている。別に、それで支障はなく、むしろ皆が納得しているようなので、ハオリュウも特に訂正していない。

「シュアン! お疲れのところ、ありがとうございます」

 ハオリュウの書斎に入ると、十二歳の少年には不釣り合いな当主の椅子から、深みのある声が掛けられた。この数ヶ月で、急に大人びたハオリュウである。

 自宅であるためにか、スーツこそ着ていないものの、上質なシャツのボタンは、首元の一番上までかっちりと留めていた。

「どうぞ、奥まで入ってきてください」

 昨日までの鬼気迫る威圧が払拭され、柔和な笑顔である。もし、彼の足が悪くなければ、身分的には下であるシュアンのもとまで自ら出迎え、丁寧に労いの言葉を述べたことだろう。

 ――その椅子も、不釣り合いではなくなってきたか。

 勧めに従い、奥へと歩きながら、そんなことをシュアンは思う。

 成り行きではあるが、シュアンは、ハオリュウが当主として立ってから今まで、ずっと彼を見守ってきた。かねてから、領地の運営などについては勉強をしていた様子であるが、段々と、当主が板についてきた気がする。以前とは、顔つきが違う。

 ……この書斎も、すっかり馴染みになったな。

 シュアンは、いつもの通り、ハオリュウの執務机と向き合うように置かれた椅子に、どっかりと座った。ふかふかの心地良さは、如何いかにも貴族シャトーアの調度だ。

 おそらくは、代々の当主が使ってきた執務室なのであろう。部屋の中を見渡せば、年代物の逸品で整えられている。しかし、その中でひとつだけ、異彩を放っているものがあった。――最近、飾られたばかりの絵である。

 自然と、壁に目が行ってしまったシュアンは、三白眼を和らげ、苦笑した。

 他ならぬシュアンが預かり、ハオリュウに渡したもので、一面に水色のクレヨンで塗られた上に、紫の丸が無数に描かれた抽象画――ではなくて、ただの子供の落書きである。

 人質として、菖蒲の館の一室に閉じ込められていた小さなファンルゥが、『病気のあの子』に贈った『空に浮かぶ、紫の風船』――もとい、『菖蒲の花』の絵。

 立派な額縁に収められたそれは、切り取られた画用紙に描かれたものであり、丁寧に皺が伸ばされてはいたが、曲がった折り目を完全に隠し切ることはできていない。

 そんなものが、つい先日までそこにあった名画と思しき絵とげ替えられ、物々しく飾られているのを目にした日には、さすがのシュアンも度肝を抜かれた。

『あんた、何を考えて……?』

『ファンルゥさんは、姉様の命の恩人ですよ?』

 澄まして答えたハオリュウ曰く、展望塔に囚われたメイシアを、ファンルゥが助けようとしてくれたからこそ、事態が好転したと。

 感謝と敬意なのだろう。――貴族シャトーアのハオリュウから見れば、取るに足らない平民バイスアの、それも幼児といって差し支えないほどの子供に対して。

 実に馬鹿馬鹿しいようでいて、なかなかできることではないと……腐った権力者を見続けてきたシュアンは知っている。

 シュアンは壁から視線を移し、ハオリュウに向き直った。

「ハオリュウ、あんたの姉さんは、無事にルイフォンのもとに戻ったぞ」

 先に連絡は送っていたが、一番初めに言うべきことは、やはりこれだろう。

「ありがとうございます。――ええ、確かに、あなたから頂いたメッセージに『ルイフォンのもとに戻った姉様』の写真が添付されていましたね」

「あ……」

 冷気を帯びた、含みのあるハオリュウの物言いに、シュアンは気まずげに目を泳がせた。

 そういえば、感動の再会の瞬間――『朝陽を受けて抱き合うふたり』という、見方によっては、かなり濃厚な抱擁ラブシーンといえなくもない写真を送っていた。

「あ、あれはミンウェイにけしかけられて、だな」

 まだ刺激が強すぎたかと焦るシュアンに、ハオリュウは神妙な顔で告げる。

「いい写真でしたね」

「おいっ!」

 どうやら、からかわれたらしい。

 牙をむいたシュアンに、ハオリュウは貴族シャトーアらしく、くすくすと上品に口元に手を当てた。

「あなたにしては粋なはからいだと思っていたのですが……、なるほど、ミンウェイさんの入れ知恵でしたか」

「――ったく」

 笑い方にすら育ちが出ているような上流階級のお坊っちゃんと、こんな軽口を叩けるような間柄になるとは思ってもいなかった。

 シュアンは、じっと、ハオリュウを見つめる。

 背丈だけは伸びたものの、まだあどけなさの残る、少年らしい風貌。本来なら、素朴な無邪気さを振りまいていただけであろう面差しは、人畜無害の善人面ゆえに、古狸の大人たちと渡り合うための武器となった。

 ――ハオリュウが、一国の行く末に関与できるだけの権力を持っているからだ。

「シュアン? どうしました?」

「……いや、なんでもねぇさ」

 身だしなみのきちんとしたハオリュウとは異なり、まったく手入れのなっていない、ぼさぼさ頭を揺らし、シュアンは首を振る。

「では、早速ですが、報告をお願いいたします。〈ムスカ〉の態度が急変したことは、先の連絡で伺っていますが、僕にはまるで話が見えておりませんので」

「そりゃそうだろうな」

 複雑すぎて、どこから話したらよいものか、シュアンとしては頭が痛い。

「それと、ミンウェイさんから、彼女の出生も含めて、すべてをあなたから聞くようにとメッセージを頂いております」

「ああ……」

 それも、シュアンを悩ませている一因だ。

 ハオリュウのもとに向かう際、シュアンはミンウェイに呼び止められた。

『ルイフォンとメイシアは、私を気遣って、私がクローンであることをハオリュウには言っていません。でも、それも含めて、彼には、すべてを話してきてほしいんです』

 そう頼み込んだミンウェイは、とても穏やかな表情をしていた。

 しかし、だからと言って、何もかも包み隠さず伝えるばかりがよいとは限らないだろう。

『せっかく、あいつらが気を遣ってくれたんなら、そのまま黙ってりゃいいだろう?』

『ハオリュウにとって、〈ムスカ〉は『父親の仇』です。八つ裂きにして殺しても飽き足りない相手です』

『それは、そうだが……』

 人の良さそうな外見からは想像しにくいが、ハオリュウの気性は激しい。表には出さないが、腹黒い残忍さを持ち合わせているのは事実だ。彼は、ライバルであった貴族シャトーア、厳月家の当主を、〈ムスカ〉と共に父を死に追いやった仇として、シュアンの手を借りて暗殺している。

『〈ムスカ〉がしてきたことを考えれば、彼の死は、許されないほどに安らかなものであったと思います。すべてを包み隠さずに伝えなければ、ハオリュウは到底、受け入れることができないでしょう』

『……』

『何よりも、私自身が知っていてほしいんです。私の『父』、鷹刀ヘイシャオの記憶を持ち、非道に堕ちながらも、もがき苦しんだ『〈ムスカ〉』という人間のことを……』

 ミンウェイは、切れ長の瞳をそっと伏せた。けれど、彼女は涙をこぼすことなく、ただ胸に手を当てる。それから顔を上げ、シュアンを見つめた。

『本当なら、私の口から話すべきだと思います。私のことも、〈ムスカ〉のことも。……でも、まだ、そこまではできそうにないから。――あなたに、甘えさせてください』

 彼女は柳眉を下げながらも、紅の取れかけた唇を無理やりに上げる。だからシュアンは、このとんでもなく面倒くさい頼みごとを満面の笑顔で引き受けた。――もっとも彼女には、不快げに凶相を歪めたようにしか見えなかったであろうけれど。

 シュアンはハオリュウを見やり、深く息を吐き出した。

 それは決して溜め息などではない。気合いを入れるための予備動作だ。

「長い、長い話になるぞ」

「ええ、構いません」

 打てば響くように、ハオリュウが返してきた。



 そして、シュアンは語り始める。

 彼とハオリュウの仇だった〈ムスカ〉という男が、なんのために生きて、なんのために死んでいったのかを――。


 それが、シュアンとハオリュウの間で交わされた黙約の終焉となる。

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