1.真白き夜更け-4
セレイエは、メイシアを『最強の〈天使〉』にして、『ライシェン』の庇護を託すつもりだ。
そして。
メイシアは既に、〈天使〉となっている可能性がある。
それも、本人の知らないうちに……。
ルイフォンは、荒くなる呼吸を必死に抑えた。
電灯はつけておらず、白い月明かりの下だ。メイシアは、彼の顔色の悪さに気づいていないはずだと、平静を装う。
彼の努力が功を奏したのだろう。メイシアは少しだけ不思議そうな顔をしていたが、やがて、柔らかに微笑んだ。
「いつまでも、セレイエさんの辛い過去を悲しんでいるだけじゃ駄目よね。私たちは
黒曜石の瞳に、凛とした知性の光が灯る。けれど、口元に手を当てて考え込む仕草は、どこか可愛らしい。
メイシアらしい姿だ。
愛しさがこみ上げ、早鐘を打っていた心臓が落ち着きを取り戻す。
彼女が〈天使〉になっていようが、いまいが、そんなことは関係ない。彼はただ、彼女を守っていくだけだ――。
メイシアがルイフォンを見上げ、口を開いた。
「ともかく、どうにかして、ヤンイェン殿下に『ライシェン』が鷹刀にいることをお知らせしなきゃ」
「そうだな」
ルイフォンは頷いて同意を示し、そして尋ねる。
「なぁ、メイシア。そもそも、セレイエは何をどうするつもりだったんだ?」
「え? ええとね……」
メイシアは、わずかに首を傾け、指先を軽く頭に添えた。文字通り、セレイエの記憶をたどっているのだろう。
「セレイエさんの計画では、もう少ししたら私の中のセレイエさんが自然に目覚めて、ホンシュアと連絡を取る予定だった。それをきっかけに、ルイフォンも中にいるライシェンから
「……随分と都合のいい話だな」
ルイフォンの茶々に、メイシアはなんともいえない苦笑をする。
「ホンシュアの手引きで、私とルイフォンが『ライシェン』に会いにいく。そして、ルイフォンに預けた記憶を、ホンシュアが『ライシェン』に写す。――それから、『ライシェン』は王宮に引き渡され、女王陛下の御子として誕生することになっていた……」
メイシアの肩口で、カーテンがはためいた。
月明かりが広がり、彼女の背に幻の羽を描き出す。
ルイフォンはカーテンの端をむんずと掴むと、邪魔だとばかりに薙ぎ払った。全開となった窓が白く輝き、幻影の羽は光の中に解けていく。
彼は満足げに口元を緩めると、メイシアに向き直った。
「セレイエはさ、生まれたあとの『ライシェン』に、ふたつの未来を用意したんだよな? 実父のヤンイェンのもとで王として生きる道と、俺たちに引き取られて平凡な子供として生きる道」
「うん、そう」
「じゃあ、どちらにするかを選ぶのは『いつ』だ? そして『誰』だ?」
「え?」
メイシアの瞳が、戸惑いに揺れた。問い詰めるような言い方になってしまったことを悔いつつ、ルイフォンは続ける。
「セレイエは、緻密で
ルイフォンは、癖の強い前髪を乱暴に掻き上げた。そして、確認の形を取りながらも、断言する。
「セレイエは、お前に全部、丸投げしたんだろ?」
「……っ!」
メイシアの目が驚愕に見開かれ、彼の顔を凝視した。
「セレイエは、死んでいく自分の代わりに、臨機応変に『ライシェン』を『幸せ』に導いてほしいと、お前に託した。『ライシェン』は、とりあえずは王として誕生する予定だけれど、それが不幸な道だと思ったら、いつでも王宮から
〈天使〉とは、人の脳に
他人の目を――記憶を
『死』を招く
強力な力の代償に、たいていの〈天使〉は、ほんの数回の脳内介入を行うだけで、限界を迎えて死に至る。
しかし、
「ルイフォン……」
細い指先が伸びてきて、彼の服の端を握りしめた。その手は、小刻みに震えていた。
「セレイエさんは『ライシェン』を守り抜くことができる強い力を欲していた。……だから、私を選んだ。私にすべてを賭けて、私にすべてを託した。――『ライシェン』をお願い、って」
「セレイエの奴! 勝手なことを……! 〈天使〉って、要するに人体実験体だろうが!」
ルイフォンが吐き捨てる。その怒声に、メイシアが「あ、あのね」と、握っていた彼の服の端を強く引いた。
「生粋の〈天使〉であるセレイエさんにとって、〈天使〉の羽は、ちっとも特別なものじゃなかったの。お
「……」
セレイエが、初めてその背から羽を出したのは、敵対する
ルイフォンは唇を噛み締め、やるせない思いを無理矢理に溜め息にして吐き出す。
そして、メイシアをきつく抱きしめた。
腕の中にすっぽりと収まる華奢な体。ほのかに上気した肌の香り。それらを全身で
「お前が鷹刀の屋敷に来る直前、お前の家に仕立て屋に化けたホンシュアが現れたとき――、お前はあのとき、気づかないうちに〈天使〉にされたと……思う」
セレイエが〈天使〉を忌避していないというのなら、間違いないだろう。
『デヴァイン・シンフォニア
……別に構わない。
メイシアは、メイシアだ。
一緒に暮らしていた母のキリファと、異父姉のセレイエが〈天使〉であったことに、ルイフォンは今まで気づかなかったくらいなのだ。日常生活に支障はないだろう。
どんなことがあっても、彼女と共に
ルイフォンが、改めて心に誓ったとき――。
「ルイフォン――!?」
絹を裂くような悲鳴――に、近い声が響き渡った。
「メイシア?」
「ち、違う! ルイフォン、勘違いしている!」
メイシアは慌てふためき、激しく首を振っていた。
「〈天使〉化って、そんな簡単にできることじゃないの! いつの間にか〈天使〉になっているなんてことはあり得ないの!」
「え……? なんだ……、そうなのか……?」
覚悟を決めて告げたのだが、拍子抜けだった。
「……そうだったのか」
不意に、喉が、目頭が、熱くなった。
あ、まずい……と思い、彼は
――俺、……弱いな。……情けねぇ。
今更のように、体が震えてきた。
「ルイ……フォン……?」
メイシアは戸惑いに声を揺らしたが、すぐに「心配してくれて、ありがとう」と、彼の背に手を回し、ぎゅっと抱きついてきた。
触れ合った部分から、温かな心音が伝わってくる。安らかなのに、彼を奮い立たせる旋律が刻まれていく。
「あのね、〈天使〉化するためには、〈
「そうか。……よかった」
ルイフォンは、安堵の息を深く吐き出す。
『光の糸』を絡めて作ったような〈天使〉の羽が、『光の
「……ああ、なるほど。〈天使〉の羽は、〈
思わぬところで、謎がひとつ解けた。母の遺した難題の一端を解析できたようで、ルイフォンは無意識に、にやりと笑みをこぼす。
すっかりいつもの調子を取り戻した彼に、ためらいがちなメイシアの声が響いた。
「ルイフォン、聞いて……」
消え入りそうな儚さに、どきりとした。
彼を見上げる黒曜石の瞳が、
「セレイエさんの計画では、私はホンシュアの手引きで神殿に潜入して、〈天使〉化することになっていたの。ホンシュアが〈天使〉の力で警備の目を誤魔化して、ね……」
「でも、ホンシュアは死んじまったから、お前は〈天使〉になれないし、そもそも、なる必要もない」
だから心配することはないだろ? と、ルイフォンは力強く言う。
「……でも、ホンシュアが亡くなって、私も〈天使〉にならなければ、ライシェンの記憶を『ライシェン』に書き込む〈天使〉がいないの」
思いつめたような声色だった。
「……メイシア?」
「セレイエさんは、命を
「それは……仕方ねぇだろ。少なくとも、お前が気に病むことじゃ……」
ルイフォンがそう言いかけたとき、メイシアが遮るように首を振った。
「私には、セレイエさんの記憶がある。だから、人間を〈天使〉にする方法を知っている。そして、神殿への潜入は、ホンシュアの力に頼らなくても、武力で突破することだってできるはずなの……」
メイシアの目元が歪んだ。うつむき、すがるように彼の胸に顔を
「私が、まだ〈天使〉になっていなくても、『デヴァイン・シンフォニア
「――!」
見えない毒刃を心臓に突き立てられたような衝撃を感じた。
菖蒲の館で聞いた、死を目前にした〈
『ルイフォン、メイシア。――鷹刀セレイエが『デヴァイン・シンフォニア
『『ライシェン』をどうするか――』
『処分するのか……』
『すべては、あなたたちの思うがままに……。『ライシェン』の命運、その全権をあなたたちに委ねます』
ルイフォンは〈
「……ルイフォン。私……、どうすれば……」
目の前で、華奢な肩が震えていた。
それは、寒さからなどではない。けれど、彼女の心が凍えないようにと、ルイフォンは全身で彼女を包み込む。
「メイシア、間違えるな。『お前』がどうする、じゃない。『俺たち』がどうするか、だ。『ライシェン』のことは『俺たち』に託されたんだ」
メイシアの耳元に囁きながら、ルイフォンは自分自身に告げていた。
『ライシェン』の運命を――ひとつの命の
それが『ライシェン』を菖蒲の館から連れてきた責任だ。
黒絹の髪に指を滑らせ、ルイフォンはメイシアをしっかりと
「……ルイフォン。あのね、私……、セレイエさんが可哀想だと思う。『ライシェン』に何かしてあげたいと思う。――でも!」
細い声を跳ね上げ、メイシアは、しゃくりあげた。
「私は、『デヴァイン・シンフォニア
彼女は訴えるように顔を上げた。
「私が『〈天使〉になりたくない』って気持ちは、勿論ある。でも、それだけじゃないの。だって、何かが、違う! 間違っている! そう……思うの……。理屈じゃなくて、心で……。……でも、セレイエさんは命を賭けて……! …………っ!」
上目遣いに見つめてくるメイシアの瞳は潤み、白い月光をたたえていた。
彼女の中にある、
セレイエの記憶と、メイシアの魂が慟哭を上げる。
月の雫が、彼女の頬を滑り落ちた。
「メイシア!」
優しい彼女は、セレイエの願いを、祈りを――『デヴァイン・シンフォニア
けれど、その代償は……。
「メイシア、お前が〈天使〉になる必要なんてないだろ? 勿論、お前以外の奴が〈天使〉になる必要もない。誰かを犠牲にして叶える願いなんて、あってはならないはずだからな」
「でも、
「それでも、だ! メイシア!」
繰り返し、彼女の名を口にする。
メイシアの心が、セレイエの気持ちに押し流されたりなどしないように。
彼女は『メイシア』なのだから、セレイエに気を遣う必要はないのだと。
「『死んだ人間は生き返らない』――それが、人の世の
決して感情的にならず、だからこその力強さでもって、彼は告げる。
「だから、俺たちは『デヴァイン・シンフォニア
「……うん。――ルイフォンらしい……」
かすれた声で、けれど確かに、メイシアの口元がほころんだ。
「メイシア、お前が、罪悪感を覚える必要はないんだ。『デヴァイン・シンフォニア
覇気にあふれたテノールが、朗々と響き渡る。
「『ライシェン』は、オリジナルの記憶を入れないまま、オリジナルとは別人として、幸せになればいい。――どうしてやったらいいのか。どんなことならしてやれるのか……。これから、ゆっくり、考えていこう」
そして、ルイフォンは、ふっと雰囲気を和らげた。メイシアの黒髪を
「ごめんな。今まで、セレイエの思いをひとりで抱えていて、辛かったよな」
「う、ううん……、…………うん」
メイシアは一度、首を振り、けれど、小さな声で甘えるように言い直した。
彼女の顔を見やれば、
「ル、ルイフォン!?」
狼狽の声に構わず、彼女を抱きしめる。
舌の上に、しょっぱさが残る。こんなものでは全然、足りないが、
「
「うん」
真白き月が、固く抱き合うふたりを照らす。
絨毯に落ちた影は、ふたりだけれども、ひとつ。
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