2.心魂を捧ぐ盟約-2
すべてを話し終えたときには、もともと
「ハオリュウ」
ひび割れた声で、シュアンは呼びかけた。
「俺は、先輩が死んだのに〈
「僕も、同じでしたよ」
ぽつりと呟くように、ハオリュウが同意した。
「俺は初め、奴の
「僕は、ひと思いにとどめを刺すよりも、……いえ、そういうことは、口にすべきではありませんね」
ハオリュウは薄い笑みを残して、上品に口をつぐむ。その作り笑顔からは、彼の
シュアンは三白眼を和らげ、静かに告げる。
「俺には、〈
グリップだこで変形した手を、シュアンは固く握りしめる。
先輩を思うと、胸が苦しい。口の中に広がる苦さを、唇を噛むことで、どうにか
「ハオリュウ……、俺は……、〈
それまでと打って変わり、シュアンは途切れがちに言葉を紡ぐ。その落差に、ハオリュウは戸惑うように瞳を揺らしたが、やがて黙って頷いた。
シュアンに発砲許可を、と言い出したイーレオは、あのとき既に、〈
あのやりとりは、〈
「奴を撃たないことも、俺の不可逆の選択だった。――そして俺は、この結末に納得している。奴の言う通り、『最高の
自分の心の内を明らかにし、シュアンはハオリュウへと視線を送る。執務机の上で組まれた少年の指には、当主の指輪が落ち着いた金の光を放っていた。
数ヶ月前。
ハオリュウが父を失い、自身も足に一生、残る傷を負った日。涙ひとつ見せずに復讐を語った糞餓鬼の彼と、シュアンは黙約を結んだ。
「ハオリュウ。俺の手は、俺の手であるけれども、あんたの手でもある。――あんたは、この手が選んだ結末を……、その……」
「認めますよ」
言いよどんだシュアンに手を差し伸べるように、ハオリュウは澄んだ声を響かせた。
「僕がその場にいたとしても、引き金に指を掛けることはなかったでしょう。〈
皮肉交じりでありながら、ハオリュウは清々しい顔で言う。
「〈
だから、これが、ふたりの交わした黙約の結末。
終わったのだ。
本来なら、関わり合うことなどあり得なかった間柄が、同じ相手に復讐を誓ったがために手を取り合った、数奇な巡り合わせ……。
シュアンは腹に力を込め、心に決めてきた話を切り出そうとした。
だが、気合いを入れている間に、「シュアン」と、彼を呼ぶハオリュウの声に出鼻をくじかれた。
「今まで、ありがとうございました」
晴れやかに笑うハオリュウの顔に、シュアンは眉をひそめる。先を越されれば、ハオリュウが口にする内容など分かりきっていたからだ。
「あなたには、本当にお世話になりました。〈
純真な少年の顔に、為政者の風格を混ぜ、ハオリュウは告げる。
「若輩の身ではありますが、私は腐っても
「――ハオリュウ」
シュアンは低く、どすの利いた声を上げた。
別れを口にしているにも関わらず、寂しそうな顔ひとつ見せずに、綺麗な外面で微笑むハオリュウが腹立たしかった。
「俺は、これから職場に行って、辞表を出してくる」
「シュアン!?」
「だから、あんたは俺を雇うんだ」
刹那――。
ハオリュウの
むき出しになった本心は、
次の瞬間には、いつもの顔に戻っていたが、ハオリュウが今までに一度も見せたことのなかった表情を引き出せたことに、シュアンは溜飲を下げる。
「護衛から運転手、足の悪い主人の介助まで、俺は、なんでもこなすことができる。この有能な人材を見逃す手はないだろう?」
にやりと口角を上げ、自分を売り込むシュアンに、ハオリュウは生真面目な顔で首を振る。
「せっかくのお話ですが、丁重にお断り申し上げます」
思った通りの返事だった。
あまりにも想像と違わない反応に、シュアンの口からは失笑が漏れる。
ハオリュウは、自分を取り巻く環境が平穏ではないことを理解している。だから、多少なりともシュアンに恩やら情やらを感じていれば、巻き込みたくないと考えるだろうと――分かっていた。
古狸どもを煙に巻く、厚顔の持ち主のくせに、とんだ甘ちゃんなのだ。
……そうでなければ、赤く染まったシュアンの手を、自身の手とみなすことなど、できやしないのだ。
ともあれ。
今までは、シュアンも復讐の当事者だった。だから、対等といえた。
だが、黙約が果たされた今、状況は変わった。
「あんた、俺がいると心強いんだろう?」
「それは、社交辞令です」
ハオリュウは、すげなく言い放つ。
彼は咳払いをひとつすると、腹黒さの漂う、彼本来の
「あなたの申し出はありがたい。それは確かです。そして、『デヴァイン・シンフォニア
「……」
「ですが、この先は『ライシェン』を巡る、政治的な問題となります。あなたの大嫌いな権力者の駆け引きです」
ハオリュウは淡々と告げ、そこで不意に瞳を伏せた。
「僕は、友人である、あなたに、僕の汚い部分を見せたくはありません」
まだ線の細い少年の肩が儚げに落とされるのを、冷ややかな三白眼が捉えた。シュアンは座っていた椅子から、すっと立ち上がる。
そして、つかつかと執務机を回り込み、きょとんとしているハオリュウの頭に、拳骨を落とした。
「阿呆か」
シュアンは、侮蔑の眼差しで吐き捨てる。
「!?」
ハオリュウが頭を押さえながら、批難を込めて――ただし、誤魔化しようもないほどの涙目で、シュアンを見上げた。痛みによる
シュアンは高級そうな執務机に無遠慮に尻を乗せ、高い位置からハオリュウの鼻先へと、ぐっと人差し指を突きつけた。
「何が『僕の汚い部分を見せたくない』だ? 今更だろうが」
「シュアン……」
ハオリュウは、しばらく呆然とシュアンを見つめていたが、やがてふっと口元をほころばせた。
「
「ふざけんな。俺は、あんたの『
ふん、と鼻を鳴らし、シュアンは言い切る。
だいたい、シュアンはちゃんと手加減をしたのだ。どうやら坊ちゃん育ちには、思っていた以上に効いていたようであるが、それは、ひ弱なハオリュウに問題があるのであって、シュアンは悪くない。
「……『汚い部分を見せたくない』というのは、嘘偽りない本心なんですけどね」
ハオリュウは苦笑いをし、それから、揺るぎなき眼差しをシュアンに向けた。
「僕は、あなたに軽蔑されたくない。けど、近くにいれば、あなたはこの先、必ず僕の醜い部分を見ることになるはずだ」
「構わねぇよ」
シュアンは口の端を上げ、悪相を歪める。
「醜いものなんざ、俺は山ほど見てきている。だいたい俺自身が、狂犬と呼ばれた汚らしいクズだ」
「ですが……!」
「それに、あんたは勘違いしている」
反論しようとするハオリュウを遮り、シュアンは続けた。
「あんたは『デヴァイン・シンフォニア
「じゃあ、なんだと言うんです?」
ハオリュウは苛立ちを隠しもしない。思慮深いはずの彼が、自分で推測もせずに尋ねるとは、余裕のなさの表れだ。シュアンとしては、愉快でたまらない。
「あんただよ」
「は?」
「俺は、あんたが欲しい」
シュアンが撃ち込んだのは、真正面からの言葉の弾丸。
「は…………?」
着弾の衝撃に、ハオリュウの眼差しが大きく揺れた。どう受け止めたらよいのか、分からないのだろう。
シュアンとて、この大物を一発で仕留められるとは思っていない。
にやりと、ほくそ笑みながら、彼は語りかける。
「ハオリュウ。俺が警察隊員になった理由は、話したことがあったよな?」
「え、ええ……。ただ街を歩いていただけなのに、突然、
「ああ、そうだ。世を正すために、俺は警察隊に入った。だが、そこには、俺が信じていた正義はなく、腐った社会というものを見せつけられただけだった」
警察隊には失望した。
それは真実。
けれども、ローヤン先輩との出会いもあった。
彼と肩を組みながら、『いつか、世を正す』と絵空事を本気で
ただ、それは永遠ではなかった。シュアンの心が、ぽっきりと折れてしまった。
先輩だって、散々、辛酸を
「俺は荒れた。ならば権力を持った奴らに媚びて、そいつらを利用して力をつけ、いずれ足元をすくってやろうと考えた」
「あなたと初めて会ったときの、あの上官もそのひとり、というわけですね」
「ああ。でも、思えば、俺は迷走していただけだった。糞上官に、おべっかを使ったところで、底が浅い奴のおこぼれの権力なんて、たかが知れている。……だからよ」
三白眼が、意味ありげにハオリュウを見やる。
「だから、僕に乗り換えると?」
「そういうことだ」
シュアンの答えに、ハオリュウは首を振った。
「残念ですが、僕は、あなたの期待に応えられそうもありません。僕はまだ、当主の座を守るだけで精いっぱいなんですよ?」
気弱な言葉は、謙遜ではなくて事実だろう。
殊勝な態度に、可愛いところもあるものだと、シュアンは口元を緩める。
「あんたが餓鬼だってことは、俺もちゃんと把握しているさ。これでも俺は、れっきとした大人なんだからよ」
シュアンは腰掛けている執務机に手をつき、上体を傾けた。ハオリュウに目線を合わせ、胡散臭げな笑みを浮かべる。
「『世を正す』なんて、俺なんかには、できるはずもない夢物語だと思っていた。だが、案外、簡単なことだと気づいたのさ」
「え?」
ハオリュウは、困惑気味に首をかしげた。
「あんたを、俺好みの権力者に育てればいい。俺の正義のためには、それが一番の近道だ」
軽口を装いながらも、むき出しの思いをさらけ出す。
これが、シュアンのたどり着いた、彼が
「俺は、あんたに賭けてみたい」
シュアンは、ぎろりと三白眼を巡らせ、ハオリュウに狙いをつける。
「俺は、あんたが欲しい。――国の中枢に喰い込める
無音の銃声が、鳴り響いた。
ハオリュウが息を呑んだまま、動きを止める。
一発目の弾丸は、
しかし、二発目の弾丸は…………
どのくらい、時が凍りついていただろうか。
やがて、ハオリュウは弱々しく視線を動かし、シュアンを見上げた。知れず、呼吸が乱れ、絞り出すように声を紡ぐ。
「僕と一緒にいるということは……、平穏な人生を歩めなくなる――ということですよ?」
「ああ――……」
シュアンは、無意識に瞳を閉じた。
脳裏にちらりと、『穏やかな日常』を求めてやまない、お人好しの顔がかすめる。……しかし、すぐに打ち消した。
「……――望むところだ」
「シュアン……! ……ありがとう、ございます……」
ハオリュウが
小刻みに震える、少年の華奢な肩に、シュアンは声を落とす。
「俺に『穏やかな日常』は、似合わねぇからよ」
その言葉は、内容とは裏腹に、優しい響きをしていた。
そして――。
「すみませんが、警察隊は辞めずに、今までのようにはいきませんか?」
遠慮がちにハオリュウが尋ねた。
あんな腐った組織には、早々におさらばする気で満々だったシュアンは、不快げに「何故だ?」と眉を上げる。
「あなたには、僕の対等な友人であってほしいからです。雇ったら、僕の使用人になってしまうでしょう?」
「それはそうだが……」
実のところ、シュアンの勤務態度には、たびたび注意が入っている。右から左へと聞き流してはいるが、それなりに面倒臭いのだ。だから、きっぱり縁を切ろうと思っていた。
だが、ハオリュウの気持ちも分かる。
「どうせ、俺はそのうち
おどけて言えば、ハオリュウが上品に、くすりと笑う。
「それまでの間で構いません」
ハオリュウが右手を差し出し、シュアンもそれに倣う。
繋ぎ合わされた手の重さを、シュアンはがっしりと受け止める。
ふと、壁に飾られた謎の抽象画――もとい、小さなファンルゥの落書きが目に入った。
シュアンには理解できないが、のびのびとした筆致のそれは、彼女の夢や思いが、いっぱいに詰まっているのだろう。
だから、きっと。
この絵と名画を
――先輩。
俺は、誰もが笑い飛ばすような絵空事を、本気で描いてみようと思いますよ。
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