1.月影を屠る朝の始まりを-3

 月影が支配する薄闇の部屋に、リュイセンの叫びが木霊こだました。


『ヘイシャオ、刀を取れ』


 あのころのエルファンに、そっくりな顔で――。

 あのころのエルファンと、そっくりな声で――。


『お前の最期を『〈ムスカ〉』で終わらせたくないのならな……!』


「――!」

 喉元に喰らいついてきた猛き狼は、決して許さぬと告げた。

 だのに同時に、不可解な手を差し伸べてくる。


 還ってこい。


 〈ムスカ〉の魂が、震えた。

 その瞬間の感情は、喜怒哀楽のどれでもなく。けれど、すべてでもあり……。

 抗うことのできない郷愁が襲いかかる。懐かしい思い出が否応いやおうなく心を駆け巡る。

 大切な日々。

 大切な人たち。

 ――否、これは『ヘイシャオ』の記憶だ。

ムスカ〉は『〈ムスカ〉』だ。『そこ』は彼の還る場所ではない。

 流されそうになる意識を必死に繋ぎ止め、〈ムスカ〉は冷静さを取り戻す。

 彼の魂がむき出しになったのは、刹那のこと。それでも、あまりにも大きな心の振動は、おそらく顔に出てしまったに違いない。だから彼は、慌てて眉間に皺を寄せる。

 そして――。

「馬鹿馬鹿しい」

 望郷の思いを断ち切るように吐き捨てた。

「あなたの言っていることは、自己満足にすぎません。身勝手な論理ですよ」

「……っ」

 リュイセンの美貌が苦々しく歪んた。

 ――無論、承知している。この青臭い若造は、本気で『〈ムスカ〉』に手を差し伸べた。

 許せないと言いながら、救いたいのだと訴えた。『鷹刀の後継者』を名乗るには、あまりにも幼く、甘い。

「正々堂々と刀で勝負? 何をふざけたことを言っているのですか。私より、あなたの技倆のほうが上であることは、何度か刃を交えた経験から明らかです。負けの見えている私が、応じるべくもないでしょう」

 話にならぬと、〈ムスカ〉はこれ見よがしに溜め息をつき、駄目押しの言葉を重ねた。

凶賊ダリジィンの流儀を掲げるまでして、自らが誇る武力で勝負したいと言うのか? 浅ましいにも、ほどがある!」

 口調の変わった、険しく冷淡な声。高圧的でありながら、しかし、それは虚勢だった。

 胸中の思いなど、おくびにも出さずに、〈ムスカ〉は思案を巡らせる。

 タオロンの解毒をすると偽って、戸棚の毒を取りに行くことは可能だろうか。――却下だ。すぐに感づかれ、無防備な背中から斬りつけられるのが関の山だろう。

「……」

ムスカ〉に、有効な対抗手段は何も残されていない。もはや彼は、下がることのできぬふちまで追い詰められている。

 ――私は、死ぬのか。

 初めて実感を持った。

 それも、いいか。

 それで、いいか……。

 ふらりと身を投げ出しかけ……、その瞬間に、つややかな美声が耳に蘇る。


『ヘイシャオ、――生きて』

『それが、どんなに尊いことか。私たちは知っているのだから』


 彼を叱咤する、力強い声。妖艶な色香すら漂う、抗いようもない魔性の響き。痩せ細った体から発せられているとは、とても信じられぬほどの……。

 ――それは『ヘイシャオ』とミンウェイの約束だ。

 ならば、『自分』は……?


『あなたの〈悪魔〉としての罪は、私がすべて持って逝く。だから、あなたは〈悪魔〉をやめて鷹刀に戻るの』


「どうした?」

 急に黙り込んだ〈ムスカ〉を不審に思ったのだろう。様子を窺うように、リュイセンが一歩、近づいた。

「!?」

 そのとき、〈ムスカ〉は、リュイセンの足運びに違和感を覚え――、瞬時に理解した。

 リュイセンは、背中に傷を負っている。

 それも、かなり深い。庇うような挙動からして、激痛が走ったはずだ。

 なのに、表情に変化はなかった。傷口をきつく縛り、気力で耐えているのだろう、だが、天才医師〈ムスカ〉の目は誤魔化せない。

 反省房からの脱出の際に、多勢に無勢で、迂闊にも一撃を喰らってしまったのか。

 ――その怪我で、刀を持った私と勝負する……?

 正気とは思えなかった。

 いくらリュイセンのほうが技倆が上といっても、それは万全の体調があってのことだ。

 神速を誇るリュイセンであるが、動きの素早い〈ムスカ〉には、いまだかつて、ひと太刀も浴びせたことがない。それでもリュイセンのほうが強いと言い切れるのは、戦闘が長期化すれば、持久力がなく、決定打となるほどの攻撃力も持たない〈ムスカ〉が、いずれ根負けするのが目に見えているからだ。

 しかし、リュイセンが負傷しているとなれば、状況は逆転する。たとえ〈ムスカ〉が致命傷を与えられなくとも、勝負が長引くだけでリュイセンは自滅するだろう。

「何故……」

ムスカ〉は驚愕に顔色を変えた。わけの分からない苛立ちに、唇がわなわなと震える。

「何故、私に刀を取らせようとするのだ?」

「だから、それは、お前を鷹刀の者として、粛清するためだと――」

「深手を負ったお前に屈するほど、私は落ちぶれてなどいない!」

 リュイセンの言葉を遮り、〈ムスカ〉は言い放つ。

「私が徒手空拳であるのなら、今のお前でも、万にひとつくらいは勝機を見いだせるやもしれん。だが、私が武器を手に取れば、その可能性も皆無! お前の負けは確定している!」

ムスカ〉の叫びに、痛みに対しては彫像のように表情を崩さなかったリュイセンが、あからさまに動揺し、うめきを漏らした。

「俺の怪我に気づいたのか。……さすが、医者だな」

 舌打ちでもしそうな口調で呟くリュイセンに、〈ムスカ〉はすかさず言い募る。

「当たり前だ! 私の目を節穴だとでも思っていたか!?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「その体で私と刃を交えれば、私の刀がお前を捕らえるのと、傷の痛みに耐えかねたお前が膝を付くのと、どちらが早いかの問題にしかならない。――そんなことも分からぬほど、お前は愚かなのか!」

ムスカ〉は白髪混じりの髪を掻きむしり、吐き捨てた。エルファンと同じ顔でありながら、愚かなリュイセンが、無性に腹立たしかった。

 無論、黙って勝負に応じていれば、苦もなくリュイセンを倒せたことは分かっている。けれど、問わずにはいられなかったのだ。

 対して――。

 リュイセンは微苦笑を浮かべた。

「ああ。自分でも、愚かだと思う」

 清々しい顔で肯定し、しかし、間髪をれずに「けど――」と続ける。


「俺は勝つ」


 双刀を宿したかのような双眸が、鋭く煌めいた。

 夜闇に浮かぶ美貌は自信に満ち溢れ、威風堂々とした立ち姿に揺るぎはない。

「ルイフォンとメイシアからお前の『情報』を得て、俺はお前の中に『鷹刀』を感じた。……理屈じゃねぇ。けど、俺は、お前を血族だと思った」

「……」

「だから、俺は鷹刀の名のもとに、血族のお前を裁くと決めた。――ならば、刃でお前を屈服させる必要があり、負けることは許されない」

「は……!?」

ムスカ〉は絶句した。

 滅茶苦茶だ。『勝つ』と宣言しようが、『負けることは許されない』と自分を鼓舞しようが、無理なものは無理だ。

 しかし、リュイセンは一段と強く、そして深く、鷹刀一族の直系を具現化したかのような姿と声で告げる。

「『鷹刀の後継者』であることを選んだ俺には、負傷などに関係なく、不動の強さを示す義務がある。それが俺の、鷹刀を受け継ぐ者としての矜持プライドだ」

 リュイセンは口角を上げ、不敵に笑った。その根拠なき自尊に〈ムスカ〉は正体不明の焦りを覚える。

「お前の主張は、こころざしさえあれば、すべてが叶うと信じる、子供のたわごとだ!」

「なんとでも言えよ。俺は、やるべきことをやる。すべきことはす」

 打てば響くように返ってくる、心地の良い低音。

「一族を背負うと決めたからには、俺は不可能だって可能にする。――そうでなければ、誰も俺について来たいと思わないだろう?」

「なっ……」

「一度、鷹刀を裏切った俺が、再び戻ろうとしているんだ。生半可な覚悟じゃねぇんだよ。――だから俺は、鷹刀の後継者の名に恥じない、誰もが納得し、誰もの期待を超える人間になる」

「……」

「お前のことは、ルイフォンが指示したように寝込みを襲うことができなくとも、怪我人の俺が毒の香炉を踏み潰し、タオロンの無言の一刀で斬り捨てることもできた。確実を取るなら、そうすべきだった。……でも、それじゃあ、駄目なんだ」

 リュイセンはそこで大きく一歩、踏み出した。

「俺がすべきは『完璧な裁き』だ」

 薄闇の中で、絹布の衣が優雅になびき、すべらかに輝く。

 光をまとう雄姿は、あたかも王者のごとし――。

 事実、見慣れぬその装いは、王の衣服なのであろう。怪我のため、メイシアの与えた部屋に残されていた服に着替えたのだ。けれど、まるでリュイセンのためにあつらえたかのように、しっくりと馴染んでいる。

 気高き狼は月に誓う。

「俺は一族に対して、強く、高潔でありたい。だから、お前のことも、血族と認めたからには、礼節をもって裁きを与える。――それが、俺の目指す『鷹刀の後継者』のり方だ」

 惹き込まれるようなリュイセンの声に、〈ムスカ〉は――……。

 ……瞠目した。

「後継者の裁きに……、礼節……?」

 穴が開くほどに、リュイセンの顔を見つめる。

 そして、気づく。

「……そうか」

 時代が変わったのだ。

 かつての鷹刀一族は〈七つの大罪〉の顔色を窺い、多くの血族の犠牲のもとに総帥とその一派のみが栄華を誇る、捕食者と被捕食者にはっきりと分かれた組織だった。

 しかし、今は違う。

〈七つの大罪〉とは縁を切り、すべての人間と義理をたっとむ、誇り高き一族なのだ。

 ……虚をかれた。

 リュイセンが語るのは、『ヘイシャオ』の知らない世界。

『ヘイシャオ』が一族を抜けたあとに築かれた、新しい鷹刀一族……。

「…………」

ムスカ〉は小さく息を吐き、それから喉の奥をくつくつと鳴らす。

 笑いがこみ上げてきた。ちっとも可笑おかしくなどないのに、喉から、腹から、あふれてくるものが止まらなかった。

「これが、お義父とうさんの掲げた『理想鷹刀』か……」

ムスカ〉は天を仰ぐ。

 遥かな次元にたどり着いたイーレオに、敬服と称賛を捧ぐ。

「ヘイシャオ……?」

 急に笑い出した〈ムスカ〉に、リュイセンは大真面目な顔で眉を曇らせていた。

 エルファンとそっくりな姿形でありながら、まるで違う彼の息子に〈ムスカ〉は口元を緩め、微笑を漏らす。

「私に、名前などないよ」

 突っぱねるような言葉でありながら、柔らかな語尾だった。

「私は、過去の亡霊だ。無論、鷹刀の血族でもない」

 振り払うように首を振ると、白髪混じりの髪が揺れた。砕けた月影の欠片かけらが如き光が、音もなく散っていく。

「……」

 リュイセンは途方に暮れたように溜め息をついた。

 彼はしばらく無言で顔をしかめていたが、やがて静かに口を開く。

「ともかく。刀を取れ。――お前は、枕元に刀を隠しているだろう?」

「何故、それを……?」

 リュイセンの指摘は、的中していた。

 目を見張る〈ムスカ〉に、猛き狼は長い裾を舞わせながら、更に一歩、詰め寄る。

「鷹刀の人間なら、そうするからだ」

「――っ!」

 彼我の間隔が近づく――。

 ……距離が、……こころが。

「言ったろ。お前は鷹刀の血族だって」

 リュイセンが笑う。

 強く高潔で、愚かしいほどの優しさを持つ、一族の未来を担う――覇王。

「…………」

ムスカ〉は黙ってきびすを返した。

 敵対している相手に背を見せることは『死』を意味する。けれど、〈ムスカ〉の足取りに迷いはなく、リュイセンもまた身じろぎひとつしない。

 そして〈ムスカ〉は、静謐な面持ちで、枕元に隠した刀を取り出した。

 体を鍛えるよりも、医師としての技能を高めることを選んだ彼にふさわしい、やや重量の軽い、細身の愛刀。

 手に馴染む心地の良い感触に、知れず、安堵のような息を吐き、〈ムスカ〉は元の位置へと戻る。

 刀を手に対峙した〈ムスカ〉に、リュイセンは満足そうに頷いた。

「ヘイシャオ、勝負だ」

 鋭い声が響き、双刀が抜き放たれた。闇の静寂しじまを斬り裂き、リュイセンの両手に鮮烈な光が宿る。

 対する〈ムスカ〉も、リュイセンに勝るとも劣らぬ速さで、鞘走りの音を響かせた。

 どちらから先に、ということはなかった。

 ふたりは、互いに自分とそっくりな、けれど、過去の――あるいは未来の自分を映したかのような姿の相手を瞳にきつけ、同じ刹那に銀光を閃かせた。

ムスカ〉は床を蹴り、ふわりと軽く跳躍する。

 その次の瞬間には、まるで時空を飛び越えたかのように、リュイセンの間合いへと一気に迫っていた。

 一方のリュイセンは、左右の腕の動きを絶妙にずらしながら、円を描くように刀を旋回させる。

ムスカ〉の刃を受ける一の太刀と、〈ムスカ〉を斬りつける二の太刀。

 ふたつの刀が迎え討つ。

ムスカ〉の細身の愛刀が、月影を斬りつけたかのようなまぶしい光をまとい、大きく振りかぶられた。


ムスカ〉の凶刃が、リュイセンの双刀の片割れと火花を散らす――!


 ……と、思われた瞬間のことだった。

ムスカ〉の手首が、くるりと返された。

 リュイセンに襲いかからんと勢いに乗っていたはずの刀が、大きく後ろへと引かれる。

「ヘイシャオ!?」

 驚愕の叫びと共に、リュイセンの一の太刀が〈ムスカ〉の喉を、二の太刀が〈ムスカ〉の腹を、それぞれ掻っ斬らんばかりのところで、――ぴたりと静止した。


 ――――…………。


 先に口を開いたのは、〈ムスカ〉だった。

「どうして、刀を止めた?」

 月明かりに照らし出されたのは、リュイセンに向けられた、壮絶な……笑顔。

 衝撃の事態に、呆然と〈ムスカ〉の顔を凝視していたリュイセンは、はっと弾かれたように正気に戻り、まなじりを吊り上げた。

「お前こそ、どうして刀を引いた!?」

「質問に質問で答えるのは、礼儀がなっていないぞ」

「あ……。いや、しかし、これは!」

「私のことは生け捕りにして、鷹刀の屋敷に連行するように、とでも命じられていたか」

 実に無粋だ、と言わんばかりの口ぶりで〈ムスカ〉が溜め息をつくと、リュイセンが気まずげな顔で首肯した。

「まぁ、仕方ない」

ムスカ〉はそう漏らし、かちりと鍔鳴りの音を立てて、愛刀を鞘に収める。

 そのまま流れるような所作で、リュイセンに向かって優雅に一礼すると、その場にひざまずいた。

「お前に刀を預ける」

 愛刀を高く捧げ持ち、柔らかに告げる。

「お前はどうしても、私を血族と認めて譲らないのであろう? ならば、そこは私が折れよう。――私は『お前の作る鷹刀』の一員となろう」

 過去の遺物である〈ムスカ〉は、未来の覇王にこころを貫かれた。

 リュイセンの作る世界を望むならば、彼を殺してはならない。

 ならば、潔く敗北を認めるのみだ。

 そして、託す――。

「お前の配下に入ったからには、お前の裁きを受けよう」

 リュイセンは呆けたように口を開けたまま、微動だにしなかった。おそらく現状に頭がついていかないのであろう。

ムスカ〉は、くすりと苦笑する。

「未来の総帥、少しは賢くなれ」

「あ、ああ……」

 いまだ困惑の中にありながらも、リュイセンは促されるように頷き、神妙な顔で刀を受け取った。

 しばらくの間、リュイセンは〈ムスカ〉の愛刀を無言で見つめていたが、やがて、ふと気づいたかのように呟く。

「この鍔飾りの花が『ベラドンナ』なのか」

「!?」

「ルイフォンが教えてくれた。ルイフォンは父上から聞いたらしい。……ヘイシャオは、妻のミンウェイのためには蝶の鍔飾りを、『娘』のミンウェイのためには花の――ベラドンナの鍔飾りを使ったのだ、と」

「エルファンの奴……」

ムスカ〉は瞳をしばたかせた。

 それから視線を落とし、吐息のような声を漏らす。

「ミンウェイ……か……」

 言葉に言い表せない思いが胸をよぎり、〈ムスカ〉の脳裏に一葉の写真が浮かんだ。

 鷹刀セレイエの〈影〉であった、〈天使〉のホンシュアに見せられた写真。華やかに成長した『娘』のミンウェイの……。

「リュイセン。〈ベラドンナ〉――ミンウェイは……、……。……ああ、いや、なんでもない」

 今更、彼女の何を訊こうとしたのだろう。

ムスカ〉は自嘲し、かぶりを振る。

 床に膝を付いたままの姿勢でうつむいた〈ムスカ〉に、リュイセンの静かな声が落とされた。

「ヘイシャオ。お前に与えるものは『死』だ。それは絶対だ。そうでなければ道理が通らない。――だが、その前に……」

 話の途中のようであるのに、〈ムスカ〉の頭上で、リュイセンがごそごそと衣擦れの音をさせた。不審に思って顔を上げると、携帯端末を渡された。

 そして――。

『……私の我儘を聞いてくださいますか? 未来これからの私のために』

 流れてきたのは、つややかな美声。

 妖艶な色香すら漂う、落ち着いた魅惑の響き。

 少女だった『娘』とは違う。

 懐かしく愛しいひとと同じ音律でありながら、けれど、彼女にはなかった遥かな未来を望む音色……。

「ミン……ウェイ……」

 初めは震えていた指先が白くなるほどに、〈ムスカ〉は携帯端末を強く握りしめた。

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