2.終幕への招待状-1
真円にほど近い月が、天頂から地平線へと、緩やかな弧を描きながら沈み始めていた。
初夏とはいえ、夜の静寂に包まれた地表は心地の良い空気で満たされており、地上の人々は、やがて来る朝の目覚めのために、まだまだ夢の中にいる頃合いである。
しかし、鷹刀一族の屋敷は、不夜城が如く。執務室にいる面々は、眠りとは対極にあった。
誰もが固唾を呑み、テーブルの上の電話を見守る中、ついに待ちわびていた呼び出し音が鳴り響いた。
皆の視線に促され、ミンウェイが恐る恐る手を伸ばす。けれど、気弱な態度はそこまで。受話器を握りしめた彼女は、毅然とした声を放った。
「……私の我儘を聞いてくださいますか?
「どうして、そうなるんだよ……!?」
ルイフォンは呆然と呟いた。
彼はソファーの背もたれに身を投げ出し、虚空を仰ぐ。
執務室の反応は、各人それぞれ。しかし、等しく衝撃に見舞われている。
イーレオは一瞬、虚を
エルファンは口元をわずかに緩め、氷の瞳をすうっと細めた。軽く目を伏せたチャオラウもまた、小刻みに無精髭を揺らしている。
密やかな興奮に彩られた彼らは、『昔のヘイシャオ』を知る者たちだ。
一方、ルイフォンを含む残りの者たちは、混乱と動揺に支配されていた。
ミンウェイは、受話器を持つ手を震わせながら切れ長の目を大きく見開き、いつの間にか当然のように居座っていたシュアンは、彼女の隣で、ぽかんと間抜けに口を開けている。
ルイフォンは、癖の強い前髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。
「あり得ないだろ……」
打ち合わせ通りに、ミンウェイが〈
だから、ミンウェイが、〈
その結果……。
「あの〈
深夜であるにも関わらず、ルイフォンの
ルイフォンは『現場での判断は、リュイセンに一任する』と宣言していた。
だから、リュイセンには独断が許されていたわけだが、律儀な兄貴分は、事前に『予定を変更して、〈
それを聞いたとき、ルイフォンの心は踊った。
まさに『鷹刀の後継者』の
感服に、全身が震えた。兄貴分が誇らしかった。
たとえ深手を負っていても、彼の勝利を信じ、彼の行動を認めたい。そして、
しかし――だ。
あの庭園には、最愛のメイシアが囚われている。
幼いファンルゥも待っている。
リュイセンの双肩には、彼女たちの命が懸かっているのだ。
――リュイセンを止めるべきだ。
そう判断した。
そのとき、回線を通じて繋がっていたメイシアが言ったのだ。
『私のことを心配しているのなら、大丈夫。私には『セレイエさんの記憶』という武器がある。自分自身とファンルゥちゃんは、必ず守る。私は、何があっても絶対に、この庭園から出てみせる』
だから、リュイセンを『鷹刀の後継者』として、送り出そう……!
戦乙女の声が、背中を押した。
ルイフォンは猫の目を光らせ、好戦的に口の端を上げた。
そして、真に伝えたいと望む言葉を、思うがままに兄貴分に告げた。
「リュイセン。俺は、お前に一任すると言った。男に二言はない。お前の思うようにやってくれ。――あとのことは、俺とメイシアに任せろ」
――故に。
リュイセンは満身創痍ながら、
それが……。
「〈
〈
それが本当なら、リュイセンは不可能を可能にしたと言っていい。大手柄だ。
しかし、相手は、あの〈
散々、詭弁を
しかも〈
兄貴分の偉業を素直に受け入れられない自分に嫌気が差すが、〈
ルイフォンの内部で、猜疑心が広がっていく。
――これからどうすべきか? 予定通りに、〈
彼の意識が、異次元へと飛び立とうとしたときだった。
「ほぉ……、リュイセンの奴、やるじゃねぇか」
妙に甲高く耳障りな声が、ルイフォンの思考を遮った。つい先ほどまで、間抜け面で呆けていたシュアンである。
リュイセンとは今ひとつの仲である彼が、称賛を上げた。
意外に思ったルイフォンが瞳を巡らせれば、皮肉げに口角を吊り上げたシュアンの顔が映り込む。その凶相からは、彼が笑っているのか否かの判別はつきかねる。
シュアンは、傍らのミンウェイを顎でしゃくった。
「ミンウェイ。リュイセンに、なんか言ってやれよ」
「え……? あ……! ええ!」
彼と同じく放心していた彼女は、はっと我に返り、送話口に飛びつく。それを尻目にシュアンはふらりと席を立ち、こちらへと近づいてきた。
ルイフォンの胡乱な視線もなんのその、当然のように隣に座る。無遠慮に腰を下ろした振動でソファーの座面が揺れ、ルイフォンは鼻に皺を寄せたが、気にするようなシュアンではない。
「〈
「シュアン?」
「リュイセンの野郎、〈
「……別に、いいじゃねぇかよ」
ルイフォン自身、現状を疑問に思い、リュイセンの快挙を諸手を上げて喜べないでいるくせに、シュアンに否定的な口調で言われると無性に腹が立った。猫の目が無意識のうちに険を帯び、シュアンを睨みつける。
「おおっと。俺は別に、リュイセンを悪く言っているわけじゃない」
シュアンは大仰な仕草で、おどけたように肩をすくめた。
「むしろ、尊敬に値すると思っているさ。この事態に至って、命懸けで真正面から〈
「じゃあ、なんだよ」
ルイフォンが口を
彼女は、瞳の端に涙を光らせながら、感極まった様子でリュイセンに祝福を捧げていた。それを確認すると、シュアンは、今までとは違う、一段、低い声をルイフォンの耳元に落とす。
「俺が気にしているのは、〈
シュアンの目線は、ミンウェイに向けられたまま。だから、密かな囁きは、興奮を帯びた華やかな美声の裏側に忍ぶよう――。
事実、その言葉は、満面の笑みを浮かべているミンウェイに水を差さないよう、そして、電話口の向こうのリュイセンや〈
「〈
「どう、って……」
「〈
「!」
兄貴分の手柄に
そう――。
いくら本質を見抜く天性の野生の勘を持つリュイセンでも、今回ばかりは騙されているのではないかと……心のどこかで邪推していた。
リュイセンは〈
「現状は『危険』じゃねえのか? リュイセンは……その、大丈夫か?」
シュアンにしては珍しく遠慮がちに、しかし、畳み掛けるように告げられた。ルイフォンに作戦を任せた以上、表立って余計な口出しはしないが、予定の変更を視野にいれるべきだと、暗に言っているのだ。
「……っ」
ルイフォンは奥歯を噛み締める。
そのとき。
不意に、ルイフォンの体が
驚いて体を返せば、涼やかな微笑を浮かべたエルファンが優雅に足を組んでいる。
「私の目の前で密談とは、たいした輩だな」
「あ……、いや」
密談というわけではない、と言いかけたルイフォンを遮り、シュアンが「そりゃ、仕方ないと思ってくださいよ」と、口の端を上げる。
「〈
「そうだな。緋扇、お前にとって、ヘイシャオの〈影〉は、恩義ある先輩の仇だ。疑うのも無理はなかろう」
エルファンは静かに肯定し、溜め息を落とした。
「だが、あの〈影〉が、ヘイシャオと同じ思考を持つのなら、裁きの手を待っているはずだ。あいつが……私に求めたようにな」
普段は感情を見せない次期総帥の氷の眼差しに、さざ波が立った。ルイフォンは「エルファン……」と呟いたまま、声を失う。
「私は、また、あいつを……、……いや。なんでもない」
エルファンがそう言って、身を翻そうとしたときだった。
執務室のスピーカーから、ひときわ力強いリュイセンの声が流れた。
『ミンウェイ。すっかり段取りが変わっちまったが、ヘイシャオ――〈
「あ……! そうね。そうだったわね」
わずかに緊張を帯びた、けれど、弾んだミンウェイの返事。
ルイフォンの心臓が、どきりと跳ねた。
〈
しかし、自分の本能的な不安を優先してよいものかとルイフォンは一瞬、迷い……、結果として、彼が制止をかけるよりも先に、勢い込んだミンウェイが口を開いた。
「
祈るように。
ミンウェイの唇が願いを紡ぐ。
波打つ黒髪をなびかせ、遥かな庭園をまっすぐに望む。
優しい草の香と、鋭い眼差しを併せ持つ彼女を前に、ルイフォンは、はっと胸を
「シュアン」
小声で隣に囁く。
「〈
正確には、シュアンに明確な発言はなかったかもしれない。けれど、今までの彼の行動からすれば、言ったも同然だ。
「!」
シュアンの瞳が見開かれたのは刹那のこと。彼はすぐに、いつもの皮肉げな三白眼に戻り、ぼさぼさ頭を乱暴に掻いた。
「……そうだな。……すまん」
「いや、俺も〈
〈
ルイフォンとシュアンは好戦的な笑みを交わし、それから、同時にミンウェイへと視線を移した。
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