1.月影を屠る朝の始まりを-2
大きく開かれた窓から、夜風が舞い込む。
記憶には刻まれておらぬのに、いつの間にか白くなっていた髪がなびき、月光を浴びて銀色に輝く。
窓際にたたずんだ〈
舞い上がるにつれて緩やかに広がっていく微粒子が、〈
廊下をうろついていた気配は、先ほど遠ざかっていった。
どうやら様子を見に来ただけのようだ。もしかしたら〈
夜が明けるころには、この煙が部屋中に充満している。そして、〈
〈
残念ながら、〈
この体であるがために、ルイフォンとの対決の際には、毒刃を受けた腕の肉をえぐる羽目になった。無論、天才医師たる彼の技術によって、傷はとうに完治しているが、あの屈辱は忘れられない。
彼が『〈
ルイフォンとの一件があってから、少しずつ慣らしているのだが、しかし、一朝一夕にどうこうなるものではない。
憮然とした顔で、戸棚から防塵マスクを取ろうとしたときだった。
がちゃり――。
扉の開く音がした。
戸棚に手を伸ばしていた、すなわち、扉から目を離していた〈
「!?」
鍵が掛かっているはずの扉が開いた――!?
不意打ちで、横っ面をはたかれたような衝撃だった。
驚愕に体を返せば、視界に飛び込んできたのは、内側に向かって乱暴に開け放たれた豪奢な扉。そして、猪突猛進に転がり込んでくる、巌のような巨体。
「タオロン!?」
窓からの夜風が、部屋を漂っていた毒香を乗せ、扉へと押し寄せる。死を
タオロンの太い眉がしかめられた。
しかし、彼は動じることなく、あたりに視線を走らせた。そして、床に置かれた白磁の香炉を見つけると、巨躯に似合わぬ軽やかさで跳び上がり、重力を加えた
ぱりん……。
タオロンの巨体に、華奢な香炉はひとたまりもない。繊細な音を立てて、粉々に砕け散った。
「……」
何が起きたのか。
高い知性を誇るはずの〈
一方、タオロンは煙が完全に消えたのを確認すると、ふらりと足をもつれさせた。懸命に転倒をこらえようとするものの、踏ん張りがきかない。受け身を取ることすらできず、そのまま叩きつけられるように、勢いよく床に倒れ込んだ。
このときになって初めて、〈
「タオロン。あなたは、この部屋に毒があると知っていたのですか?」
思わず尋ねたが、訊くまでもないだろう。それに、口のきける状態ではないはずだ。
しかし、タオロンは苦しげに顔を歪めながらも、こう答えた。
「俺は……、血路を……開いた……まで……だ」
呼吸が荒い。毒香を吸い込んだためだ。
なのに彼は、清々しくにやりと笑う。無骨な大男のくせに童顔で、まるでいたずらに成功した子供のようである。
朝まで掛けて充分量の毒にするつもりであったから、致死量には至らないだろう。だが、常人ならば、とっくに意識を手放しているはずだ。頑強な巨体の
医者の
「……『血路』? どういう意味ですか?」
〈
促されるように視線をやれば、開かれたままの扉から、廊下の窓が全開になっているのが見えた。
だが、それだけだ。
「いったい、なんだと……」
重ねて問おうとしたときだった。
今まで何も感じなかった壁の向こうから、突如、豪然たる覇気が膨れ上がった。
「――!?」
〈
何者かが近づいてくる。足音は聞こえなくとも、〈
そして――。
扉口に長身の影が現れた。
窓からの月光によって黄金比の美貌が明るく照らし出され、〈
「リュイセン……?」
彼以外あり得ない。否、間違いなく彼だ。
だのに見た瞬間、〈
何故なら、そこにいたのは、〈
月明かりの中でも、ひと目で貴人のためのものと分かる美しい絹の衣服を身にまとい、堂々たる歩みで
リュイセンは、床に横たわるタオロンに向かって「すまない」と深く頭を下げた。
毒のためにか、タオロンはうまく声を出せなかったようであるが、笑顔で目を細める。それがどんな意味であるのかは不明だったが、気持ちは通じたのだろう。リュイセンが「ありがとう」と応えた。
そして、リュイセンは〈
「〈
人を惹きつける、魅惑の低音が響いた。
「俺は、鷹刀の後継者として、お前を裁きに来た」
双刀を宿したような双眸が、冷厳と〈
肩で
「は……? あなたが『鷹刀の後継者』?」
侮蔑の色合いで、思い切り鼻で笑った。そのつもりだった。なのに、〈
彼に
〈
「一族を裏切ったあなたに、鷹刀を名乗る資格はないでしょう?」
〈
「俺は、本来なら許されないような罪を犯した。だが、ルイフォンが手を差し伸べてくれた」
「ルイフォン……? あの子猫が、何をしたというのですか?」
その問いに、自慢の弟分なのだと言わんばかりに、リュイセンは誇らしげに口元を緩める。
「あいつは〈七つの大罪〉のデータベースに
「――!」
〈
「そして、もはや俺がお前に従う理由はないと。だから、鷹刀の後継者として、お前との決着をつけてほしいと。――それを手柄に、一族に戻れと……言ってくれた」
「な……! 何を勝手なことを……! 子猫の分際で!」
唇をわななかせ、口汚く罵りながらも、〈
〈
だが、それは思い違いであったらしい。彼の足元にあったのは、本当は海を漂う氷山。ふとした瞬間に脆く崩れ落ちる。地面ですらない。
「あの子猫は、いったい、どうやってあなたと……」
動揺に視界を揺らせば、床の上の巨体が目に入る。
「!」
数日前、〈
しかし、武人のリュイセンとタオロンだけでは、ここまで見事な連携は取れまい。
――メイシアだ。
〈
どのような手段を使ったのかは分からない。だが、あの小娘が裏で糸を引いていた。それで辻褄が合う。
「つまり、あなたは、いつの間にか鷹刀の者たちと通じていた、というわけですね」
「そういうことだ」
「それで? 私を殺しに来たと?」
〈
今や彼の足元は崩れ落ち、慌てて下がった狭い空間で、片足を浮かせながらかろうじて耐えているようなものだ。
それでも、彼が彼であるのなら、『生』を諦めてはならないのだ。たとえ還る場所がどこにもなくとも、彼は『生』を
「私の持っている毒は、さきほどタオロンに踏みつけられたものがすべてではありませんよ?」
〈
それは嘘ではない。
だが、戸棚に入っている毒を取らせてくれるほど、リュイセンは甘くはないだろう。だから、虚勢だった。
睨みつけるような視線の先で、リュイセンは無言のまま。穏やかな表情で、その瞳に〈
照明が落とされ、月影が支配する室内では、美貌の細部までは判然としない。だからだろう。リュイセンの父親である、エルファンに見つめられているような気がしてならなかった。
無論、錯覚だ。
けれど、〈
不意に……、リュイセンの唇が動いた。
そして、〈
「ヘイシャオ」
「――!?」
一瞬、空耳かと思った。
思わず、『エルファン』と返しそうになるのを、〈
目の前にいるのはリュイセンだ。いくらエルファンにしか見えなくとも、時間は巻き戻ったりなどしない。
「毒じゃなくて、刀を取れよ」
好戦的な口調であるのに、深く低い声はどこか優しげで……、〈
「刀……?」
「ああ」
リュイセンは頷き、そして、唐突に語り始める。
「俺はルイフォンに、お前の寝込みを襲うよう指示されていた。だが、あいにく、お前は起きていた」
「? あなたは、いきなり何を……?」
「しかも、お前は俺たちの存在に気づいて、毒で対抗しようとした。――だから、俺たちはいったん引いて……、そこで、俺は冷静になって考えた」
エルファンにそっくりの声質であるが、とつとつとした喋り方は似ても似つかない。エルファンなら、もっと力強く、理路整然と話すだろう。その差異に〈
「それで? あなたの話は支離滅裂で、要領を得ません」
呆れ返ったような〈
「すまん。俺は、あまり説明が得意じゃない。けど、聞いてくれ」
律儀に謝るリュイセンは滑稽であったが、それ以上、〈
「俺は『後継者』として、お前を粛清しに来たんだ。ならば鷹刀の名にかけて、寝込みを襲うなどという、不意打ちのような卑怯な真似をすべきではない」
「……」
リュイセンの意図が読めず、〈
作戦通りにはいかず、こうして正面から〈
だが、それなら相手が違う。〈
警戒の色をあらわにした〈
「もし俺が、『俺個人』として、『俺の大事な人たちを傷つけた〈七つの大罪〉の〈悪魔〉』を屠りに来たのなら、不意打ちで構わないだろう。けど、俺は『後継者』であることを選んだ。そして――」
リュイセンはわずかに顎を上げ、薄闇に双眸を光らせる。
ぐいと張った胸元で、錦糸の刺繍が存在感を主張するかのように月影を弾いた。静かな威圧を放つ立ち姿に、〈
「お前には『血族』としての最期を与えたい」
闇を斬り裂くような、明朗な声。
刹那、〈
「血……族……?」
そのひとことに、郷愁が押し寄せる。
ミンウェイと共に、一族を去ったことに後悔はない。けれど、夢に見るのはいつだって、大切な人たちと過ごした幼いころの日々だった。
元気に飛び跳ねるミンウェイが明るく笑い、見栄っ張りのエルファンが妙に大人びた口調で話す。姉のユイランがいて、付かず離れずチャオラウが控えていて、飄々とした顔のイーレオが皆を見守る……。
「……――ふん」
憧憬のような思いを掻き消そうと、〈
「何をふざけたことを言っているのですか?」
リュイセンの眼差しをぴしゃりと跳ねのけ、〈
「私は鷹刀を捨てました。……そもそも『私』は、鷹刀セレイエによって作られた、『天才医師〈
作られたときから『〈
『〈
リュイセンは「ああ、そうだな」と、静かに肯定した。
「鷹刀での会議のときは、俺が一番、『〈
「……」
正直すぎる告白に、〈
だが、リュイセンは変わらぬ調子で、とつとつと告げる。
「ルイフォンが過去の『死んだヘイシャオ』のことを調べ、メイシアが受け取った記憶から知った、現在の『お前』のことを俺に教えてくれた」
「ほぅ、それで? 私に情でも湧きましたか?」
憐れみなど要らない。惨めなだけだ。
だから、挑発するかのように
「ふざけんな! どんな話を聞いても、お前が極悪非道な最低野郎だという事実は変わらねぇよ!」
一転して、獰猛な狼が牙をむいた。
なんの話をしたいのやら、まったくもって理解不能だ。
やれやれ、と。〈
「――けど!」
リュイセンの喉から、苦しげな叫びがほとばしった。
「俺は、お前を……、一族に戻してやりたいと思った……」
「……は?」
心底、わけが分からない。あのエルファンの息子が、どうしてここまで論理性に欠けるのか。混乱や狼狽を飛び越え、もはや憂慮、いや憐憫の域だ。
「理屈じゃねぇんだよ! 俺は、お前を一族に戻すべきだと思ったから、そうしたいだけだ。――かといって、お前を許すわけじゃねぇ! 俺は、絶対にお前を許せ ない。お前は、許されない罪を犯した!」
「……罪、ですか」
いったい、何が罪だというのだろう?
〈
首をかしげる〈
「ああ、罪だ。他人を不幸にした罪だ! だから、お前は裁かれる存在だ!」
リュイセンの黒髪が、ぞわりと逆立った。
叫び終え、そこでやっと、熱くなりすぎていた自分に気づいたらしい。知らずに
それから、リュイセンは改めて〈
「お前の裁きを、
「なるほど」
ここまで来て、ようやく〈
「
「そうだ」
リュイセンは深々と頷いた。
そして、『鷹刀の後継者』を名乗る狼が、正義の鉄槌を下さんと挑みかかる。
「ヘイシャオ、刀を取れ。――お前の最期を『〈
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